第4話 世界の現状
静かな朝だ。
日は差していないが、外からは鳥の鳴く声が聞こえる。
姿見に立ち、寝癖でところどころ乱れている髪を手ぐしで軽く整えてディエゴさんから貰った洋服に着替える。サイズは上下、靴、ともにピッタリだ。
ゴツ、ゴツ、とブーツの足音を静かに響かせながら階段を下り、バーへのドアを開ける。
「おっ、起きたか。よく似合ってんじゃん」
昨晩僕が寝かされていたソファー席の前の大きめなテーブル。それにすっぽり収まるほどの地図を、サイコさんは眺めていた。
店内を見回すが、ディエゴさんの姿は見られない。さすがに夜通しサイコさんに付き合わされて、疲れて自室に戻ったのだろうか。
「おはようございます。サイズもピッタリでした。白なんで汚すのが怖いですけど。
で、これは?」
お褒めの言葉を軽く返し、例の紙を見る。
「この辺一帯の地図だよ。ディエゴが昨日、物置部屋から引っ張り出してきてくれたの。まぁ『2区』を出りゃ荒れ果てて道路もなにも分かったもんじゃないけど、とりあえずの目安にはなるだろう、ってね」
よく見ると赤いペンで線を引っ張ってあったり、ところどころに丸が描かれたりしている。
「ホントはこんな原始的な方法取りたくないんだけどさ、GPS起動すると色々と面倒臭いからね」
「"GPS"って?」
「衛星を使って自分の位置を特定できるシステムの事。高性能な地図みたいなもんだから便利っちゃあ便利なんだけど……まぁとにかく使わないに越した事は無いのよ」
出発前にも関わらず不安になるような事を聞いたような気がするが、どちらにしろ本来の目的を変えるわけにはいかない。
「ほら、朝ごはん。ディエゴが作っておいてくれたみたいだよ。ゆっくりしてられるのも今の内だ。とっとと食って出発するよ」
「サイコさん……まだ飲んでるんですか?」
整合性のとれない言葉を吐きながらもなお酒を煽る彼女を見て、驚くばかりか呆れ返るほどである。
「むっふっふっふ。アルコールを体内に蓄積すればするほど、火力もアップってもんよ!」
ボンと軽い音を立てて着火させた拳を、半笑いで僕の前に突き出す。
ディエゴさんが作ってくれた朝食のサンドイッチを頬張りながらその炎を眺めていると、今更ながら当然とも言える疑問が沸いてきた。
「サイコさん、それ、熱くないんですか?」
「これ?全然熱くないわけじゃないけど、まぁアタシの努力の賜物ってヤツよ。詳しい事は……そうね、あんたの記憶が戻らなかったらその時してやるよ」
「ふぅん……」
この調子じゃ突き詰めても教えちゃくれないな、と半ば諦めつつ相槌を打っておく。
朝食を食べ終えた後にサイコさんが説明してくれた『あの場所』への道筋を、頭の中で反復する。
先ほどサイコさんが言っていたこのバーがある『2区』と呼ばれる安全地帯。異形どもと、そしてサイコさんと初めて遭遇したあの廃墟群が『4区』。距離にしておよそ片道20キロだ。
2区を出ると周辺は道が整備されていない上に、大きな音を立てると感染者に襲撃される恐れがあるので徒歩での移動が安全だという。
問題は現地に着いたら僕の朧げな記憶を頼りに、あのドアを目標にして辺りをしらみ潰しに探していくしか方法は無いらしい。
さらに問題なのが『3区』だ。
地図に描かれた線は、半円を描くようにぐるりと2区から4区へ繋がっていた。
「徘徊者がいるからな」
サイコさんがぼそりと呟いた徘徊者とは、いわゆるバイトウィルスに"食われた"人間達の総称だという。
バイトウィルスによって発現する能力に身体が耐えきれず制御が効かなくなり、理性を失った者達がこの世界には存在する。そういう者達に一般人が、時には感染者までもが襲われるケースが後を絶たないのだそうだ。
脳に感染するバイトウィルスの特性上、徘徊者になり得るのは脳が発達しきっていない未成年の子供達や、逆に脳が衰えている老人が比較的多い。
理性を失っているとはいえ、さすがのサイコさんでも手を下すのは心苦しいところがあるのだろう。
そのため遠回りにはなるが1度郊外に出て、3区を避けつつ目的地に向かうという事になったらしい。
「とはいえ徘徊者がいるのは3区だけじゃないから、遭遇したらできる限り逃げる方向でよろしくね」
「分かりました」
遭遇するだけでも御免こうむりたい上、サイコさんのように自分を守る力も無い僕としては命の危険の方が心配だ。
「よし、そろそろ行こうか」
地図を小さく畳み、出発の準備を始める。
徒歩の移動になるため出来るだけ軽装が良い、との事で最低限の荷物で出発する事になる。食糧はサイコさんが持っていた2人分の小さな栄養食のみだ。僕には飲み物として銀色のチアパックに入ったスポーツドリンクを持たせてくれた。それをジーンズのポケットにねじ込みながら考える。
長旅という訳では無いが、前述の通り自衛の術を持たない僕にはどうしても不安が残るのだ。
「あの、僕は武器とか持たなくて大丈夫ですか?丸腰では太刀打ちできる自信がないんですけど」
サイコさんはグラスに残った酒をグッと喉に押し込み、少しこちらに睨みを利かせて言う。
「いい?感染者もしくは徘徊者に襲われたとしてだ。何と言おうとまずは逃げの一手だ。ゲームの世界じゃあるめーし、倒しても金が貰える訳でもなきゃレベルが上がる訳でもない。そもそもアイツらとは戦う意味が無いんだ。まぁ、万が一戦闘になったらアタシが死ぬ気で守ってやるからさ」
「じゃあ……お言葉に甘えて死ぬ気で守られます」
「おう!」
なんとなく、だが。
サイコさんは"戦いたくない"と言うよりは僕に"戦わせたくない"と言っているような気がした。確かに僕がやられてしまっては元も子もない。それならば尚の事、最低限の武器を持たせてくれても良いのではないか?
そう思ったが、きっとサイコさんにはそうしない理由があるのだろう。
「ところで、ディエゴさんは?」
「そういえば朝から姿が見えないけど。アタシが寝潰れてた間に自分の部屋に戻って寝たのかな。挨拶してく?」
「ええ、是非」
疲れているところを叩き起こすのも気が引けるが、これだけ世話になっておきながらこのまま黙って出発するのも厚かましいというものだ。
「あれー?いねぇな……」
呼びに行ってくるから待ってろと言って2階に向かったサイコさんは、怪訝な顔をして1階のドアから戻ってきた。
「どこかに出かけたんですかね?」
「それにしては無用心な気がするけどね。合鍵はアタシが持ってるから入り口の戸締りだけはできるけど、アイツに限って店を開けたままどっかに行くなんて、なーんか怪しいなぁ……」
腑に落ちないような表情を浮かべつつ、サイコさんは右手に着けている腕時計をチラリと見る。時刻はすでに朝の9時を回っているところだ。
「待っている時間は無いな。ルカ、挨拶は帰ってくるまでのお楽しみだ。これ以上グズグズしてると帰りには夜になっちまう」
「そう、ですね」
サイコさんは勢い良く伸びをして、入り口のドアへと向かう。
「さぁ、今度こそ出発だ!」
ゆっくりとドアを開けるサイコさんを、僕は後ろから眺めている。
この先に一体どんな事が、どんな景色が待ち受けているのだろう。
相変わらず心は不安でいっぱいだったが、ゆっくりと開かれるドアの先から漏れる光に照らされて思わず胸が躍る。
恐る恐る、ゆっくりと歩き出し、僕は外の世界へと踏み込んだ。
眩いばかりの太陽の光に飲み込まれて目がくらみ、思わず片腕で遮る。
目を慣らし、ゆっくりとその腕を戻すまでの数秒間、あの廃墟と異形が頭に浮かぶ。
しかしその直後、眼前に広がるその光景を前にしてそれらは一瞬にして吹き飛んだ。
燦々と降り注ぐ太陽光を反射するように鈍く輝くアスファルト。
真っ直ぐ舗装されたその道路に沿うように整然と立ち並ぶビル郡。その中に混じって小綺麗な店が点々としていて、ここ『テンテット』もその景色の中に違和感無く同化している。
そしてビル郡の隙間から見える、一際高くそびえる塔のような建造物。
今、僕の視界に入るもの全てが、あの死の世界とは違っていた。安全地帯とは聞いていたものの、ここまで差があるものなのか。
「びっくりした?田舎モン」
口を開けたまま突っ立っている僕の前に立ち、サイコさんはからかうように笑う。
そしておもむろに、大げさに両手を広げ、こう言ったのだ。
「ようこそ!東京へ!!」