03 タマキ
* * * *
私は電車に乗った。
ミーティングには余裕を持って間に合う時間だった。
電車はずいぶん空いていたので、私はドアに近い場所に座ることができた。
冷房が効きすぎていてちょっと寒いくらいだったから、停車の度にドアから入ってくる夏の空気がありがたかった。
私はまたあいつのことを考えていた。
私のこれからの人生に、あいつがいてくれたら。
そばにあいつがいてくれたなら、どれだけ嬉しいか分からない。
私のそばにいてほしい。
心の底からそう思う。
だけど、それはあいつにとっていいことなのだろうか。
私の生活は演劇を中心に成り立っている。
演劇のことがなくなったら、私の人生は間違いなくすかすかな日々になってしまう。
もしかしたら、私の半分以上が既に演劇でできているかもしれない。
私は何度もそう実感していた。
海外公演に行くことを、私は誰に相談することもなくひとりで決めた。
あいつにも、他の誰にも、ひとことも相談することなく。
5月の時点で、夏に海外公演があることは分かっていた。
タマキちゃんにはそのことをすぐに話していた。
あいつに話さなかったのは何故だろうか?
タマキちゃんに話してからでも、今日に至るまで2か月弱あった。
話す気になれば時間は充分すぎるくらいあったのだ。
それなのに。
……そう、私はあいつに引け目を感じている。
ふたつの選択肢から、私は海外公演を取った。
海外公演に行けばあいつの誕生日を当日に祝うことができないと分かっていた。
最高の誕生日だったと、あいつに言ってもらえるようにしたかったのに。
あいつのことがすごく大事なのに。
今回はたくさんの人に迷惑をかけることはない。
逆に、たくさんの人に喜んでもらえるかもしれない。
誰よりもいちばん大切なはずの、あいつを除く、たくさんの人たちに。
もうすぐ、あいつと私は1か月以上離ればなれになる。
つきあいだしてからこれほど長い時間離れるのは初めてだ。
あいつのことがものすごく心配になってしまう。
ドライヴはあいつの考えたとおりにうまくいってるだろうか?
タマキちゃんのことも心配になる。
タマキちゃんの気持ちを知った今となっては、なおさら……。
* * *
ミーティングは2時間で終わった。
16時を少しまわった頃に始まり、今は18時を過ぎたところだ。
稽古は休みになった。
日差しは強いけどもう夕方だし、みんな疲れが溜まっているだろうから、という理由だった。
反対する人は誰もいなかった。
Yさんにまた飲みに誘われたけれど、荷造りを理由に遠慮させてもらった。
アルコールは嫌いではない。
むしろ好きな方だと思う。
ただ、私は飲みたい気分になれなかった。
まっすぐ自分の部屋へ帰ろうと思った。
実家から持ってきたレコードを早く聴きたい。
なんだかもやもやしている気持ちを落ち着かせたい。
* * *
部屋の電話は点滅していなかった。
留守中にどこからもかかってこなかったということだ。
私はあいつの部屋に電話してみた。
コール3回で無愛想な留守電が聞こえた。
私はメッセージを残さず受話器を置いた。
タマキちゃんにも電話してみた。
コール5回ののち、留守番電話が作動した。
── 発信音のあとでメッセージをお願いします。
タマキちゃんの声が聞こえた。
私はここでもメッセージを残さず受話器を置いた。
ふたりとも留守、ということは、ドライヴからまだ帰っていないということだ。
私は持ってきたレコードを聴くことにした。
ボブ・マーリーのライヴ盤を手に取った。
普通にA面をかけた。
1曲目は“トレンチタウン・ロック(Trenchtown Rock)”。
とても久しぶりの雰囲気になった。
本当に素敵な音楽が流れると部屋の空気が変わるのだ。
B面まで聴き終わってから、私はまた電話をかけることにした。
あいつの部屋にかけてみると、コール1回で留守電が聞こえた。
どこからかメッセージが入っているが、それはまだ聞かれていないということだ。
タマキちゃんの部屋もまだ留守電だった。
ドライヴで何処まで行ったのだろうか?
21時になろうとしているけれど、こんなに遅くまで。
遅くなるなら電話をしてもらうように頼んでおけばよかった。
何か不測の事態になっていなければいいけど……。
私はさみしくなってしまった。
そして、この状況は私が海外に行っているときと同様のものだと気がついた。
まだ出かけてもいないのに、こんなにさみしくなってしまうなんて。
私はもう一度あいつの部屋に電話した。
コール1回で作動した留守電にメッセージを残した。
帰ってきたら電話してほしい。
そう言い終えると受話器を置いた。
荷造りの続きをすることにした。
明日から前期試験だというのに、ふたりとも大丈夫だろうか?
タマキちゃんは大丈夫だと思う。
あいつはたぶんダメだろうと思う。
私はあまりいい点ではないだろうけれど、まあ大丈夫だと思う。
そんなことより……。
試験が終わったら、私はすぐに出発することになる。
私がいない間に何があっても、どんなことになろうとも、すべて私が自分で決めたことの結果だ。
海外公演から帰ってくるまで、あいつは私を待っていてくれるだろうか?
私の場所は残っているだろうか?
いつになれば……こんな不安をなくすことができるのだろうか?
あいつといつまでも一緒にいられる場所。
あいつがいる場所。
私が「帰る」場所。
私のホーム。