01 サチヨ
2本目のレポートを終えた私は、荷造りに励んでいた。
どうにか必要最小限で、と思っていても、1か月以上留守にするとなるとどうしても大荷物になってしまう。
出発までの時間はもうあまりない。
明日からの前期試験が終わればすぐに出発だと思った方がいい。
少しだけでも空いた時間を有効活用しないと、不安で仕方ない。
なのに、私はとても気分がよかった。
昨夜、と言っても今日のことだったけど、あいつがレコード・プレーヤーを持ってきてくれたおかげだ。
今かけているLPは、ジョイスの『フェミニーナ』。
あいつがくれたレコードだ。
軽快なギター。
パーカッション。
そしてジョイスの歌声。
ブラジル音楽らしく、とても爽やかでパリっとしている。
今日のような夏の日にすごくよく合う。
早く自分のレコードを取りに行きたい。
私はジョイスのスキャットを聴きながら思った。
聞き返したいレコードはいくつもある。
* * *
今朝、劇団の事務所から電話があった。
全体ミーティングは午後イチからということになっていたけれど、代表の都合で16時開始になるとのことだった。
まだ朝の9時をまわったところだった。
16時まで、約7時間。
私はチャンスだと思った。
ミーティングと稽古にいける用意をしてから、私はいつもと違う電車に乗った。
降車した駅のホームにある緑電話から実家に電話した。
私はレコードを取りに行くことにしたのだった。
* * *
改札を抜けて駅の外に出ると、私はすぐに汗ばんでいた。
今日もかなり暑くなりそうだ。
駅前商店街のアーケードを過ぎて、実家への道を歩きながら、私はドライヴをしてるはずのふたりのことを思った。
今頃どの辺にいるかな。
楽しんでいるかな。
いい思い出になるんだろうな……。
時間をかけてのんびり20分ほど歩くと、見慣れた住宅地の風景と共に実家が見えてきた。
でも不思議なことに、私は実家に「帰ってきた」という気はしなかった。
「訪問する」とでも言うべき気分だった。
私のホームは、もうここではない。
そう感じていたのだった。
玄関のチャイムを鳴らすこともなくドアの鍵を開け、中に入った。
今までに何千回と繰り返しただろう順序での動作の内に、今までに意識したことがない実家の匂いを感じた。
私のホームは、もうここではない。
もう一度そう感じることになった。
「ただいま」
それでも、他に適切な言葉が浮かばなかった。
「あら、もう着いたのね」
母がキッチンの方から居間に来た。
居間では扇風機が回っていた。
エアコンもあるけれど、母はエアコンが嫌いだった。
私もエアコンは好きではない。
「幸美はいつも突然ね。もっと早く連絡をくれたら、あなたの好きなものを準備できたのに」
「そんなこと言われても……急に時間ができたのよ」
「電話をくれたのはこっちの駅に着いてからでしょ。せめて出掛けの時によこしなさいよ」
「はいはい。すみませんでした」
「まるで反省してないわね」
母は緑茶をいれてくれた。
私の湯飲みをちゃんと出してくれた。
毎年のことだが、母は緑茶を夏でも冷たくしないで飲んでいた。
今年も。
「それで、今日の用事はなんなの?」
「レコードを取りに来たの」
「レコード? まだ持ってたの?」
「もちろん。私が捨てるわけないよ……もしかして、捨てちゃったとか?」
「いくらいないからといって、あなたのものを勝手に処分なんてしないわよ。安心なさい」
その言葉で、私はひと安心できた。
「お昼は食べていけるのよね」
「うん。食べていってもいいなら」
「食べていきなさい。久しぶりのおふくろの味を」
「自分で言わないでよ」
私の口調はこの母の影響が濃厚だと思う。
「16時までに稽古場に行かないとダメだから、14時半には出発するね」
「まだ11時にもなってないけど、いつもとんぼ返りね」
母は私がここにいる時間を長引かせたいようだった。
「あなたは幸代と違って親離れが早かったけど、幸代とは正反対なんだから不思議なものね」
正反対。
私と、妹は。
そんな母の言葉は置いておき、私は急いている気持ちのままに言った。
「とりあえず、2階の私の部屋からレコード持ってくるね。その後はずっと居間にいるから」
「あなたの部屋は物置になってるけど、大丈夫かしら」
「ええっ!?」
「段ボールが置いてあるのよ」
私は階段を駆け上がって、かつての私の部屋のドアを開けた。
窓が閉まっているせいで部屋の空気はむわっとしていたが、昔の私の痕跡がまだここにあるような気がした。
母が言ったとおり大量の段ボール箱が積んであった。
幸いなことに、レコード・ラックの前にはスペースがあった。
「よかった。箱をどかさなくてすんだ」
私はアナログ・ディスク一式を手提げ袋に入れて1階に戻った。
自分の一部を取り戻した、そんな気がしていた。
「ただいま」
玄関の方から妹の声がした。
近所のコンビニに行ってきたらしい。
「あれ? お姉ちゃん、いつ来たの?」
「まだついさっきだよ」
買ってきた雑誌とペットボトルをテーブルに載せると、妹はさばさばとこう言った。
「最近はどうなの? 彼氏との関係は」
「そうね、良好よ」
私は婚約を破棄したときの家族会議で、今は好きな彼氏がいるとカミング・アウトしていた。
それでこんなふうに妹にからかわれるようになっていた。
「幸代はどうなのよ?」
「どうって?」
「前に話してくれた彼氏のことよ」
「ああ、そんなこともあったね。とっくに別れちゃったけど」
「またなの?」
「だから今は、別の人とつきあってるの」
なんのためらいも臆面もなく、妹は言った。
妹は私と違って中学生の頃から彼氏がいた。
私が知っているだけでも6人、歴代の彼氏たちがいた。
そして7人目。
「今度は長もちしそうなの?」
「う~ん、どうだろうなあ?」
「なによ、その口調は?」
「まだ分からないってことにしとく」
よくもまあ次から次へと。
母の認識どおり、私と妹は正反対なのかもしれない。