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7日目


 日曜の朝。


 わたしは学校に用があると嘘をついて制服で教室に向かっていた。



 用があるというのは本当。金魚にご飯をやりに来た。何が嘘かっていうと、家にいたくないという気持ちの方が強かったから嘘になる。



 昨日、お父さんのあんな姿を見たから余計にあの家にいたくはなかった。



 かなり前から豚カツの理由を知ってはいたが、見慣れていたせいか行為の目的を知った後でもそこまでの衝撃はなかった。麻痺していたのかも。


 でも、お父さんの反応を目の当たりにしてやっぱり悲しい事なんだと確認した。



 今はお母さんの笑い声、笑顔、足音、温もり、全てがよく分からない。作り物なのか、本物なのか。



 いつもより交通量が少ない通学路。今日は日曜だと改めて感じる。



 お父さんもなぜかスーツを着て仕事だと言って出掛けてしまった。わたしには嘘にしか聞こえなかった。お父さんも家にいたくないんだなと。



 半分だけ開いている校門。鳴っているチャイムを気にせず歩いていると校舎の玄関に田中くんの様な人が見えた。



 少しだけ歩幅を大きくして、視界から外れない様にしてみた。


 でも歩く様で確信できた。彼は何をするにしても同じリズムだ。歩きもテストの解答も、会話も。



 わたしはこの時、新学年になってから田中くんしか見ていない事にやっと気づいた。



 もっと目立つ男子は他にいる。勉強も運動も、顔が整っている男子は他に。いつの間にか風景の一部にはなっていない田中くんの存在が、わたしの中で以前よりも確かに。



 気づいたら田中くんのいるはずの教室に急いでいた。誰もいない廊下に乱暴な足音を響かせながら。



 いた。


 歩いている時と同じようなリズムで金魚のご飯をパラパラと落としていた。




「っ……おはよう」


「おはよう、田中くん」



 さすがの田中くんもびっくりしたのか挨拶がワンテンポ遅れた。わたしの頭の中のお母さんの真偽を問う容量が少し減った気がした。




「高木さ」

「田中くんはどうして日曜も制服で来たの」


 わたしはわたしのペースで会話をすることにした。自分が制服で登校した理由をわたしは田中くんに問うことにした。答えは別になんでも良かった。



「……私服が無くてね」



 意外な答えにわたしは戸惑った。なんて返せばいいのか。



「高木さんも制服だけど……どうして」


 わたしは用意してあった答えを目の前にいる彼の目を見ながら答えた。



「……なんとなく」



「なんとなく、か。ぼくもそう言えばよかったな」



 そう呟いた田中くんは軽く笑い、わたしも場が和んだ勢いでつられて笑っていた。




「田中くんは今日も図書室に行くの」


 笑いが途切れたタイミングを見計らい尋ねた。



「いや、さすがに今日は開いてないから街の図書館にいくよ」


「わたしも付いていっていいかな」

「いいけど、大丈夫なの」


 大丈夫、別に今日は予定もないし家にも帰りたくないし。



「大丈夫だよ」



 わたしは『大丈夫』の言葉の意味を田中くんの意図とは別に解釈していた。その違いに気づいたのはもう少し先の話。




 詳しい場所を知らないわたしは田中くんのうなじが見えるくらいの距離で後を付いていく。


 最近できたらしい、小綺麗で名の無いデザイナーが考えた無意味なオブジェクトが置かれた外観の図書館。何かしらの講義もできるような中規模のホールも備わった、いや逆か。図書コーナーが後付けされたようなスペースだった。



 何人かいたけど、みんな本に夢中。制服姿の2人が入室しても気にする素振りもない。



 田中くんは迷いがない歩みで分厚い本を手に取り、4つほど並んだテーブルの端の椅子に座り真ん中辺りのページを開いていた。既に彼も景色に違和感なく溶け込んでいる。



 付いてきたはいいけど、目的の本も無いので生き物がかりらしく生物関連のスペースをうろついていた。



 金魚、魚、動物、進化、世界の生き物、どれもこれもピンとはこなかった。



 でも、あるタイトルでわたしの目は釘付けにされた。


「……死体」



 わたしは見たタイトルをそのまま口にしていた。クロの死体が頭をよぎった。どんな本なんだろう、とにかく惹かれた。でも、手に取るのはなぜだか躊躇う。周りを見渡す。近くには誰もいない。ファッション誌よりも薄い本の中には何が詰まっているのか。



 ゆっくりと本を取りだし、表紙を確認した。緑が茂る林の写真。ただそれだけの表紙。


 表紙をめくるとわたしが求めていた景色が広がっていた。



 骨折によって息絶えた鹿の死体。写真の下には簡単な説明が添えられていた。



 鹿が息絶えたのは食欲の秋と呼ばれる時期。1枚目はただ寝ているかもしれないほどの毛艶。まぶたを閉じているから余計に死体という説得力がない。



 次の写真を見るとお腹や脚の付け根が食いちぎられていた。他の肉食動物の仕業なのか。詳しくは書かれていないが、鹿の表情は1枚目と変わらず穏やかだ。変わらない表情を見てようやく納得できた。必ず感じるはずの傷みや苦しみが表情からは読み取れなかった。脳と感覚とが切り離された後、死んだ後に行われた行為だと。



 わたしは視線を休みなく動かし、写真の端まで食い入るように見つめ次のページへと手をかけた。




「そういうの読むんだ」



 隣で田中くんが呟いた。いきなりだった。いや、わたしが気づかなかっただけかも。どっちでもいい、今は。見られた。わたしの趣味を。



「い、いや別に……」



 慌てて本棚に戻した。いつもと変わらない田中くんの声が今のわたしにはなぜか怖かった。


 なんて思ったのかな。田中くんは。



「あっ、こんな時間。わたしもう帰らないと、じゃあね」



 わたしは彼の目を見ずに呟き図書館を出た。勢いよく玄関を出たわたしは陽の光りの強さに目を惑わせた。



 わたしの中で居たくない家は帰らなきゃいけない家に降格していた。どうしよ。変な子だと思われて明日から距離を置かれたら。明日は当番だ。たまに通り過ぎる車の音に慣れないまま家に着いてしまった。




 制服を脱いで下着のままベッドに横になった。布団の冷たい部分がわたしを少し冷静にしてくれた。



 しばらくしてわたしはあの本の続きを読みたい気分で体温をまた元に戻した。




 今度は独りで。


 あの続きを想像しただけで下腹部がきゅうっと締め付けられる気がした。少し興奮をしているのかもしれない。右手を性器に、左手を右の胸に。それぞれあてがったがそれ以上は何もしないし、起きなかった。



 このどうしようもないもどかしさを解消する術をわたしはまだ知らなかった。

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