6日目
「あれ、今日は土曜日じゃなかったっけ、あつっ」
相変わらずコーヒーを冷ますのに必死なお父さんに、今年度から土曜日も学校があると伝え金魚の待つ教室に急いだ。土曜も授業があると聞いてなぜか嬉しそうなお父さん。振り回される学生の身にもなってよ。
今日は誰もいない教室。良かった。少し不安だった。当番を決めても田中くんがいそうだから。
わたしが近付いただけで水面に集まってきた金魚。控えめな量を口元に落とす。丸のみした後にせがむようにまだ口をパクパクさせている。
「……やっぱりかわいい」
わたしは廊下で足音がするまでしばらく水槽を眺める事にした。
初めての土曜の授業はなんとも気の抜けた内容だった。まともな教科の時間はなく、正しい人間性を押し付けるような道徳。こんな時間を設けるために大人達は議論し判を押したのか。
そもそも主役の学生の言い分はどこにいったのか。勉強したい人は学校外で勉強し、この施設は来るべき労働の前準備でしかないのに。
これはマユミの受け売り。
マユミも多分、誰かの受け売り。愛嬌のある顔で、淡い髪を揺らし、椅子の背を股に挟みながら嬉しそうに語るものだから覚えてしまった。
このクラスで、この学校で。わたしと同じ年令の人で、いわゆる特別と呼ばれる人間はどのくらいいるんだろう。
土曜日はこんな馬鹿みたいな事を考える日なのかも。そう思ったら少し馬鹿な大人の苦労が報われる気がした。
お腹が空く気配もないまま授業が終わってしまった。部活がある人はお弁当を持ってきている。遠足の様な非日常的な感覚が羨ましい。来月にはどうせ見慣れているのだろうけど。
「そういえば、夕方のご飯どうしよ、田中くん」
相変わらず、一定のリズムを保ちながら帰る準備をしている田中くんにわたしは尋ねる。あたりは唐揚げやら卵焼きやらの匂いが広がりはじめていた。
「ぼくが帰りにやっていくから大丈夫だよ」
「帰りって……田中くんも帰宅部だよね」
「……図書室で本を読んでいくから」
田中くんはそう言いながら左の腕を握っている右手に力を込めていた。気のせいか少し震えている。
「それじゃあ」
わたしの返事を待たずに田中くんは弁当自慢で賑わう教室から立ち去っていた。
弁当なんて持ってきていないわたしは疎外感に急に襲われ、いつもより軽い鞄を背に教室から飛び出していた。
帰り道、最後に水槽の様子を見とけばと後悔したけどあの教室に戻る勇気は、わたしにはやっぱりなかった。
「よっ」
聞き慣れない車のクラクションと一緒に見慣れた車がわたしの隣に停まった。お父さんだ。
「どうだった。土曜日の学校は」
なんでそんなに嬉しそうなのか分からない。感情を隠さずにニヤニヤしている。不思議とイライラしてきてわたしは質問返しをした。
「それより、仕事はどうしたの」
「今日は午後から休みだ」
死角の見当たらない武装に満足しての笑みなのか、他に何か良いことでもあったのか。お父さんは黒の乗用車の運転席でよく笑っていた。
「どうせこれから暇だろ。ちょっとあそこに行くから付き合えよ」
チャラいお兄さんでももう少し気の利いた台詞を言うのに。返事をしないかわりにわたしは助手席のドアを開けることで意思表示をしておいた。
お父さんの言う『あそこ』とは家の近場にある公園。田舎とも都会とも言えないわたしの住む街で一番人が集まる場所。桜の咲く春限定だけど。短い距離ながらも桜並木があり、満開に合わせた週末には出店も並び、人が集まった証拠にゴミも大量に落としていく。去年も学校と地域の行事で、見ず知らずの人達が楽しんだ跡を綺麗にしたっけ。
テレビからは桜開花の便りが届いていたけどわたしのとこはまだまだ先。今年は寒いから来月の連休までずれるかも。
わたしとお父さんは、そんな桜の咲いていない公園に向かっていた。なぜか毎年の恒例になっていた。だからなのか、わたしはお父さんの下品な誘いを断る気にはなれなかった。どこかで待っていたのかも。
「着いたな」
ウインカーの音と一緒に呟くお父さん。狭い駐車場にはまばらな車。当たり前だ。見るべき物がないから。
車から降りると風の強さに驚いた。人はいないけど制服で来た事に少し後悔した。
「誰もお前のパンツなんか興味ないから」
スカートを抑えているわたしを見て、お父さんは馬鹿にしてきた。その瞬間から風はピタリと止み、自然からも興味が無いと言い渡された気がした。
今日は来るんじゃなかった。
わたしの中で確かに感じた想い。でも、お父さんのこの言動が痩せ我慢だと気付いたのはこの後すぐだった。
並木道の真ん中辺りに一際大きな桜の木がある。みんなここで携帯片手に写真を撮っている。SNSで桜の時期になるとこの木を背景にした写真をよく目にするけど、その人らしさはすごく薄まる。綺麗ではあるけど、顔が違うだけの写真が出回ってしまう。
わたしはそんな普通に染まるのが怖くてここでは写真を撮れなかった。マユミなんかはここで写真を撮っている人達を撮っていた。あれは可笑しかったな。
「なあ」
お父さんはそう呟くと、背広の内ポケットから煙草を取り出した。銘柄は分からない。めったに吸わないし、家ではまず吸わない。
お父さんの親の葬式の時と仲の良かった友達が事故にあったと聞いた夜。わたしが覚えているのはそれくらい。
また風が強くなってきた。ライターがうまく点かない。
風下にいたわたしは煙草の匂いが鼻を通り過ぎた事で無事に火が点いたのだと認識した。
「なあ、最近、豚カツ多いよな……」
さっきまでわたしを馬鹿にしていたお父さん、スーツをそれなりに着こなしている白髪混じりの男性は、少し声を震わせていた。
お父さんはやっぱり気づいていた。豚カツが食卓に並ぶ日に家で何が行われているのか。
「最近、歳なのか胃もたれしてな……」
なぜお父さんがわたしの目の前でこんな事を言っているのか。わたしはお父さんになんて言ってあげればいいのか。
分からない。
また風が強くなり煙草の煙が目に入ってしまった。
煙のせいで涙が少し出てきたけど、わたしは煙のせいにすることができて楽になれた。
わたしはお父さんから視線を逸らして、大きな桜を見続ける事でこの場をやり過ごすことに決めていた。