5日目
「いってきます」
「あちっ、あれ、いつもより早いんじゃないのか」
熱いコーヒーを必死に冷ましているお父さんに適当な事を言いつつ、わたしは少し窮屈になった靴を履き慣らしていた。
昨日の夕方はダメだったけど、朝ごはんなら金魚達も食べてくれるはず。そのためには誰よりも早く登校しなければ。田中くんよりも早く。
いつもより早く景色を流す。不意をつかれたどこかの飼い犬がワンテンポ遅れて鳴き出している。普段の体育も真面目にやっておけば良かった。
誰もいない校舎の玄関で乾いた靴音を鳴らして、わたしは2階の教室を目指した。
階段を駆け上がると2個目の教室から機械の振動と水が流れる音が漏れてきた。昨日から加わった新しい音。あと少し。
「おはよう」
「おは、田中くんっ」
「早いね。どうしたの息切らして」
わたしの視界に飛び込んできたのは水槽に餌を入れようとしている田中くんだった。
わたしが息を切らせているのがすごい不思議そうな田中くん。金魚達は口をパクパクさせて、わたしもつられそうになる。
「い、いやちょっとダイエットで」
適当な言い訳をとっさに言えずにわたしは顔が熱くなる。息もまだ整っていないのに。すごく苦しい。
机の金具の部分を触り少しでも身体を冷ます。なぜか今朝のお父さんのコーヒーを冷ます様子が浮かんできた。
「もしかして、ご飯やりたかった」
田中くんの抑揚のない声が余計にわたしを辱しめた。
なんて言えばいいのか。なんて言えば正解なのか。
「ごめん」
わたしの迷いの沈黙をイエスと受け取ったのか、田中くんは謝ってしまった。さらに恥ずかしくなる。
「伊藤さんと3人で当番決めようか」
「……うん」
わたしは今の沈黙をとりあえずの正解とする事にした。
というわけで放課後になったのだけど、マユミは「あたしはなるべく平日がいいな、じゃ部活あるから」と言い残し細いながらも筋肉質な脚で廊下を駆けていった。
そして田中くんとふたりきり。
今日のクラスの金魚に対する反応はなかなか冷めたものだった。何人か水槽を覗いただけで、話題になることも無かった。興奮していたのが自分だけだったのかと思うと、また顔が熱くなってしまう。
「それじゃあ、ぼく達で1日交替で当番しよう」
「あれ、マユミは」
「伊藤さんはぼく達が出来ない時に変わってもらうということで。部活で忙しそうだし、伊藤さん自身が望んだ事じゃなそうだし」
「そう、だね」
見透かされていた気がしたわたしはこれ以上の議論はしたくなかった。
田中くんってこんな人だったんだ。
こんな。こんなと言えるほどの情報は無かったから、どちらかと言えば新鮮だったのかもしれない。同じクラスに、同じ年令の人に、こんな人がいたんだと。
「それじゃあ、ぼく達もご飯あげて帰ろう」
エサ、ではなくてご飯と言う田中くん。口を開けて頬張る金魚を見つめる田中くんは少し哀しそうで、少し羨ましそうに見えた。なぜか。
「それじゃあ、高木さんさようなら」
「あ、さようなら」
太陽が目線と平行に近づく教室には、わたしと金魚達だけになってしまっていた。