6話
「…………っ」
頭に響くずきずきとした痛みに、天音は微睡みを切り裂かれて意識を覚醒させた。小さな呻き声を漏らして、瞼を開く。
まず、視界に映ったのは見慣れた天井。
次いで、ぐるりと首を回すと──ここが、自分の部屋であることがわかった。状況を鑑みるに、どうやら、天音は自室のベッドに寝かされているようだった。
「……いったい何が……」
ベッドから起きあがりながら呟いて、天音は記憶の中ではつい先程に起こったことを確認する。
天霊を祓え。
祖母にそう命じられ、天音は霊術に必要な条件を満たすために、詩織に近づいた。けれど、何かが間違っていたのか、詩織に天霊は憑りついてなかった。
そして、その時、氷華が乱入してきて──詩織に短剣を刺すことで、霊術を埋め込んだのだ。その霊術はおそらく、詩織を一時的に仮死状態にするようなもの。だから、詩織は死んだわけではない──今は、まだ。
だが、天音が最も気になっているのは、氷華の最後に口にした言葉だった。
──ごめん、ごめんね、天音。騙すつもりはなかったの。でも、私にはこうするしかなかった! じゃないと、天音を守れない!
騙すつもりはなかった。こうしないといけなかった。そうしないと、天音を守れない。
あの時の氷華は、嘘を言っているようには思えなかった。
だとしたら、天音の知らないところでいったい何が起きているのか──
と。
「……天音、大丈夫……?」
扉の方から、恐る恐るといった様子の声が届いていきた。
そちらの方向に視線を放ると、呆然と立ち尽くしている氷華の姿。両手で、水が入ったコップと濡れたタオルを載せたお盆を持っており、僅かに伏せられた視線は悔恨に満ちていた。
「……氷華ちゃん」
静かに、天音は声を零して氷華を見つめた。
「……いったい何が起こっているか教えてくれますね」
「そ、それは──」
氷華の顔がくしゃりと歪む。
言いたいけど、言うことを禁じられている。そんな葛藤がありありと読み取れるような表情を、氷華は浮かべていた。
ということは、おそらく、氷華の背後には誰かがいるのだろう。分家の少女に、その意思に反する命令を実行させることができる人物が。
そんな人物は、一人しかない。
果たして──天音の予想は見事的中した。
「それは、私が説明します」
天音の自室の前に現れたのは、やはり、祖母である京子だった。
分家の少女に命令できるのは、本家の女しかいない。
この四ノ宮家は《巫女》の家系であることから、女の方が比較的強い権力を持っているからだ。そして、今、本家の女性は天音と京子しかおらず──天音はそんな命令を氷華にした覚えがない。
「……氷華ちゃんにこんなことをやらせていたのは、やっぱり、お祖母様でしたか」
「そんな目を私に向けるのは止めなさい、天音。母親の二の舞になりたくないのなら」
「……どういうことですか?」
表情を怪訝なものに変える。
「……お母さんは私たちを捨てて、村の外に出た──そう言ったのは、お祖母様のはずです!」
天音が小学生低学年の頃──母親は、謎の失踪をしてしまった。
祖母が言うには、母親は魔獣が住む森を突き抜けて外の世界に行ったはずなのだ。
幼い天音から見ても、母親は霊術を巧みに扱う人だった。だから、あの魔獣の群れも容易に蹴散らせてしまえるだろうから、本当なのだろうと思っていたのだが。
しかし、京子は天音の視線に一切動じることなく。
強烈な光を瞳に宿らせて、鋭い視線で天音に促した。
「それを説明するには場所を移動する必要があります──ついてきなさい」
京子について行って辿り着いたのは、四ノ宮家の奥──滅多に誰も来ないような納屋だった。
天音もかくれんぼで隠れる場所を探すために、訪れたことぐらいしかない。
納屋の中は掃除を長いことしていなかったのか、埃っぽく結局はそこに隠れるのは止めたけれども。
その納屋に、京子が何の躊躇いもなく踏み込んだのを見て、天音も恐る恐る一歩足を踏み入れた。その後に、氷華も続けて入ってくる。
久しぶりに足を踏み入れたが、納屋の中は天音の記憶と照らし合わせてみても、何ら変わることはなかった。
「術式解放」
不意に、京子が霊術を発動した。
床に、強い輝きを宿した霊法陣が刻まれる。
次の瞬間、床が割れた。否、正確に言うならば、床に正方形の穴をつくってその部分が消え去ったのだ。
天音が穴の中を覗くと──そこには、地下へと続く階段があった。
一見する限りでは、かなり古いものだ。それこそ、この四ノ宮家があった頃から存在したかのように。
「……なんでこんなものが……」
天音の声に、しかし、京子は答えることなく地下へと続く階段に足をのせた。そのまま、階段の奥を見通すようにスッと目を細めると、どんどんと地下へと降りていく。
こうなっては、ついて行くしか選択肢がない。
天音と氷華は、ばらばらに京子が降りて行った経路を辿った。
それから、一分後──
ようやく階段を降り切って、天音の視界に映ったのは開けた場所だった。
どうやら、この場所には強力な霊術がかけられているのか、壁には幾何学的な文様が刻まれている。また、立っているだけでひしひしと霊力の波動を感じ、辺りは薄青色に発光していた。そのおかげか、地下にも関わらず、視界はクリアだ。
そして、その場所にそれはあった。
周りよりも一段高くなった正方形のそれ。
ところどころ真っ黒になった血の跡が付着しているそれ。
中心には、今まで見たことがない霊法陣が書きこまれているそれ。
そして、その近くには木造の社が屹立しているそれ。
それは紛れもなく──祭壇だった。
「な──なんですか、これは……」
その圧倒的な霊力が漏れだしているせいで、わかる。感じることができる。
この社には、天音が見たこともないような強力な精霊が祀られている、と。
それこそ、都市を一夜にして吹き飛ばすことができそうな。
そこで、ようやく──京子が天音と氷華の方を振り向いて。
「では、説明しましょう」
静かに語り始める。
「──この天隠の村の真実を」
「そもそも、何故、私たちが精霊を使役できるか考えたことがありますか?」
「私たちの祖先が精霊の上位存在ともいえる天霊だったから──そう言ってしまえば、そうですが、それは順序が逆なのです」
「天霊が祖先だったから精霊を使役できるのではなく、天霊とある契約をした果、天霊が私たちの祖先と結ばれ、そして、この天隠の村に住む人々が全員精霊を使えるようになったのです」
「契約」
「そう──契約です。私たちの祖先は天霊と契約を結んだ。そして、今もその効力は生きており、私たちは四名家はその契約を忘れずに遵守しています」
「その内容とは」
京子は言う。
淡々と。事務的な口調で。
それを──口にする。
「この天隠の村全体を強力な結界で覆い外敵から守ること、村人全員が精霊を使役できるようにすること──それと引き換えに、五十年に一度村人の中から、天霊が選んだ人物を供物に捧げること」
「……供、物……」
天音は繰り返した。
五十年に一度供物を捧げる。天霊が選んだ──選ばれ、執着された人間を。
天霊に憑りつかれた人間を。
「もう、天音は察しているかもしれませんが、今年はその年だったのです。そして、数年前、天霊が供物を選ばれた。その供物は──天音、あなただった」
「……わ、たし……?」
「そう。だけど、それは無理だった。何故なら、四ノ宮家にはあなた以外の後継者がいない。あなたの母親はもう二人目の子供を産むことができる状態ではなかった。だから、別の人間を選ぶようにお願いしたのです」
「別の──人間」
「それに選ばれたのは、あなたの母親だった。そして、数年前、あなたの代わりに、あなたの母親は天霊の供物となり、死んだ──本来ならそれで終わり、今年は供物を捧げることはなかったはずでした」
そこで、祖母は顔を醜く歪めた。
いつも冷静沈着で無表情。それが、天音の祖母に対する印象だったが、目の前の祖母は珍しく感情を発露していた。
「しかし、あの女は全てを台無しにしました。あろうことか、契約していた精霊とともに天霊に立ち向かったのです。結果は惨敗。当然です、この土地の守り神に刃向かったのですから。そして、結局、あの女は天霊の供物となった」
天音の脳裏に、優しげな母親の姿が浮かぶ。
──ねぇ、天音。あなたはこの村のことをどう思う?
──要するに、お母さんが言いたいのは力を貸してくれる精霊さんたちには、お母さんたちはどんな対価を支払えば良いんだろうねってことだよ。
対価は、供物だった。自分自身だった。
そんな状況で、母親はいったい何を考えて死んでいったのだろうか。
「けれど、それで終わるはずもありません。天霊は激怒し、従来通り、今年も供物を捧げることを命じたのです。が、あなたの母親は思った以上に良質な供物だったため、天霊はあなた以外で供物の対象を選ぶことを約束しました」
「……そして選ばれたのは、篠崎先輩だった……」
その先の展開を察して、天音はボソッと呟いた。
選ばれて──憑りつかれたのは、詩織だった。
だからこそ、詩織はあのような異常の力を顕現できて。
天音のことを好きになってしまった。
だって、その本体である天霊が、誰よりも天音に執着しているのだから。
となると、選ばれたのは一年前──詩織が天音のことを好きになった時なのだろう
。
「その通りです。ですが、篠崎詩織は多少とはいえ、天霊に憑りつかれてその力を得ている。無理矢理連行しようすれば、最悪犠牲が出てしまう可能性があります。だから、あなたに向かわせ、無防備になる瞬間を狙わせて、氷華に動きを封じる霊術を発動させたのです」
それが、真実だったのだ。
天音は最初から囮だった。別の天霊なんていなかった。《修祓》の霊術を成功させる必要もなかった。
ただ、天霊が天音のことを好んでいるという特性を利用して、無防備になる瞬間さえ作りだせれば良かったのだ。
全部──全部、茶番。
「明日、篠崎詩織を供物に捧げます。儀式の手続きは、あなたがやりなさい」
「────っ!」
祖母が口にした言葉に、天音は身体を震わせた。
詩織を供物に捧げる。つまり、それは、詩織を生贄にして──殺すということ。
そんなの、そんなこと──
「──そんなこと出来るわけがないじゃないですか!」
「なら、この村の人々が死ぬだけですよ」
「…………えっ?」
「当然でしょう。契約が守られなかった場合、契約は破棄。村人は精霊が使えなくなり、外からは魔獣が攻めてきます。そんな状況になって、まさか、誰も死なないとでも?」
祖母が告げた内容を、天音は必死に否定したかった。
だけど、どれだけ考えてもできない。
この村は、精霊によって成り立っていると言っても過言ではない。
精霊がいなくなれば、事実上の崩壊に等しい。加えて、外の森から魔獣が攻めてくれば考えるまでもない。
この村の人は全員死ぬ。
それは、どんなに手を尽くしても避けることはできないだろう。
「……私に選べと……村と一人の人間の命を選べと、そう言っているのですか!?」
「そうよ。そして、それは四名家の当主となる者なら誰でも通る道です。ねぇ、天音。あなたは、もちろん、母親のように愚かな選択はしませんよね?」
「わ──私は」
天音の脳裏に、色々な人が浮かぶ。
村でいつも良くしてくれているおじさん。甘いお菓子をくれるおばさん。一緒に汚損でくれていたお兄さんやお姉さん。学校で仲良しの涼香。幼馴染の氷華。
そして、天音の憧れで、今日一緒にデートをした詩織。
──あら、私の事は詩織で良いですよ。そんな他人行儀な呼び方をしなくても──私達は、恋人同士ですよ。
──ふふふ、天音ちゃんは変なことを言うのですね。私はただ天音ちゃんが好きなだけですよ。それ以外に理由がありませんよ。
──私、篠崎詩織は、あなたと仲良くなりたいです。あなたの傍にずっといたいです。あなたのことが大好きで大好きで堪らないの。だから、だから、私と付き合ってくれますか?
たとえ、その詩織の思いが偽物だったとしても。
天音が詩織と過ごした記憶。心の奥底で感じたくすぐったいこの思いは。
紛れもなく、本物だ。
「……わ、たし、はっ」
天音は唇を強く噛み締めた。
選べない。そんなこと選べるわけもない。
だって、天音にとって、どちらも掛け替えのない大切なものなのだから。
「儀式は明日です、天音」
天音の表情を見て、京子はそう言って。
冷たい口調で続ける。
「──明日までに良い答えが聞けることを期待していますよ」
天音は地下室から出ると、外はもう真っ暗だった。
数十メートル先は闇が漂い、頭上には青白い月と満点の星が浮かんでいる。
そんな中で、天音は足元も顧みることなく四ノ宮家の敷地から出て無我夢中で駆けだした。
目的地があったわけではない。ただ、京子の顔も、氷華の顔も見たくはなかった。
おそらくだが、氷華はこのことを知っていたのだろう。
知っていながら、京子に協力した。
詩織を天霊へと捧げることに。天音を供物にしないために。
無論──四ノ宮の分家出身である氷華は、本家の当主たる京子の命令を無視できる
はずもないのだけど。
けれど、氷華は選んだのだろう。
自分自身の手で何をするか。その存在理由を確かにするために。
なら──それなら、天音も選ばなくてはいけないだろう。
気がつくと、天音は四ノ宮家の近くに広がる草原の中央まで辿り着いていた。
爆発的に収縮と膨張を繰り返す心臓の上あたりを押さえながら、天音は乾ききった喉で叫ぶ。
「──ギン! ギン、来てください!」
果たして、ギンは天音の呼びかけに従ってこちらの世界に顕現した。
眼前の空間で銀色の光が瞬いて、ギンは現れると大きな欠伸を零す。
『……なんだ、天音。こんな時間に呼び出して。もう夜だぞ。俺はそろそろ寝たいんだが……』
精霊も寝るのか、という疑問がこんな状況にも関わらず脳内に浮かぶが、天音は息を整えると、ギンを見やった。
「……ギンは、ギンは知っていたのですか?」
『ん、なにをだ?』
「この村の精霊が何を対価に動いているか、です」
対価。
そのことをいつも口にしていたのは、母親とこの精霊──ギンぐらいだった。
だとしたら、ギンはこの村の状況のことを知っていてもおかしくない。そう思って訊ねたのだが。
天音の予想通り、ギンは首を前に倒した。
『ああ、知ってるぜ。ていうか、この村の人間と契約している精霊は全員知っているだろうな。もっとも、口を利けねーから言うことはできないが』
「……じゃあ、どうして、ギンは私に対価を求めたのですか?」
『まあ、対価を貰っているのは天霊のあいつだけで、俺たちはお前たちから貰っていないからな。ほぼ無償で働いてるんだよ、俺たちは。けど、だからといって、あいつの命令を俺たちは無視することはできない。お前と氷華とかいうやつが、現四ノ宮家当主に逆らえないようにな』
「……結局のところ、精霊も人間もそういうところは変わらないんですね……」
乾いた笑い声を漏らして、天音は呟いた。
何も変わりはしない。
天音は祖母であり、四ノ宮家当主たる京子には絶対に逆らえない。
だから、選ぶのであろう──否、選ばざるを得ないのだろう。篠崎詩織を切り捨て、村を救う選択肢を。
そして、未来へと歩いていく。篠崎詩織を切り捨てたという罪を背負って。
「……ギンなら……どうしますか? 先輩を切り捨てて、この村を救う未来を選びますか?」
何か別の答えを聞きたくて、天音はギンに訊ねるが、けれど、返ってきたのは素っ気ないものだった。
『さあな。俺はお前の精霊だ。お前がこうすると決めたら、それについて行くだけだ。俺の意思は関係ない──じゃあ、逆に聞くが、お前はどうなんだ? 篠崎詩織を供物へと捧げて、村を救いたいのか?』
「そんなわけがないですっ! 先輩に供物になってくださいと──この村のために犠牲になってくださいと、そんなこと言えるわけがないじゃないですか! 先輩は、私の──憧れの人なんですよ! 格好良くて! 勉強もスポーツもできて!」
天音の脳内に、詩織の姿が浮かぶ。
いつも、学校の窓からしか眺めていなかったが、そこから見える詩織は、いつも天音の理想の人だった。
ああ、こんな風になれたら──と、何度夢想したことだろうか。
「でも、でも──先輩を切り捨てないと、この村の人たちが死んじゃうんです! 涼香ちゃんが、氷華ちゃんたちが死んじゃうんです! 私の、私のせいで、そんなことになるなんて、そんなのは認められませんっ!」
『けど──案外、それが本来あるべき姿なのかもしれないぜ』
「……あるべき姿?」
『みんなが幸せになるなんて有り得ないってことだ。幸せな人もいれば、不幸な人も理不尽な目に遭う人もいる。どんな村でも、どんな仕組みがあったとしても、そういう人間が消えることはねーんだよ。だから、個人より、大勢が救われることは間違っちゃいない』
「でも、でも──」
『じゃあ、お前が死ぬか?』
「…………えっ?」
突然吐かれた厳しい声に、天音は呆然と声を漏らした。
「……どういうことですか……?」
『天霊のやつは、お前を欲しがっている。何故か、俺を含めて、精霊から見ればお前は良く見えるらしいな。だから、篠崎詩織の代わりに、お前が供物になれば、今のお前の悩みは解消される。三つ目の選択肢ってわけだな』
「……私が供物になれば……」
『だが、その場合は、お前の母親は無駄死にってことになるな』
「────ッ」
ギンの言葉に、天音は息を呑み込んだ。
そう。そうなのだ。
天音の母親は、天音の代わりに死地へと赴いたのだ。ここで、天音が自身を天霊に捧げることを決めてしまったならば、母親の思いを踏みにじることになってしまう。
『そして、その場合は、お前が救われないことになるんだろうよ。結局は、個人か大勢のどちらかが救われるかってことになるんだな』
「…………」
『まあ、どちらにせよ、お前が決めることだ。お前が決めたことには文句は言わねーよ。俺はそれに従うだけだしな。……けど、まあ、お前が死んじまったら、少しは寂しいかもな』
ギンが紡ぐ言葉を、天音は呆然と聞いていた。
どれを選んだとしても、誰かが不幸になる未来しか待っていない。
けど、天音が供物となれば……
「……夜遅くに呼び出したりして、すみませんでした」
『ん……変な奴だな。いつも、平気でくだらないことで夜に呼び出したりする癖に』
「…………」
『じゃあ、俺はそろそろ向こうに帰るぜ』
言うと、ギンの身体が銀色の光を放出しながら輝く。
その姿を消す寸前、ギンが天音の聴覚に声を触れて。
『──いいか、自分から死ぬなんてつまんねー手段取ってんじゃねーぞ。そんなことするぐらいなら……』
ギンの強い意思の炎を宿した瞳が、天音を捉えた。
『──最後まで足掻いて、戦って死ね』
◇
「……はい、ご飯よ」
四ノ宮家の敷地内の奥に建てられた納屋。
そこで、ご飯が載せられたお盆を片手に持ちながら、氷華は眼前で蹲った少女・篠崎詩織にそう言った。
詩織の容態は霊術によって回復していたが──今いる場所は、病み上がりにはお世辞にも良いとは言い難かった。
小さな部屋で、所々カビが生えて異臭もする。おまけに鉄格子が何本も嵌められており脱出はまず不可能。
まるで──否、確実に、そこは部屋というよりは牢獄と表現するのが正しかった。
といっても、この少女には動きを封じる霊術がかけられているので、こんな部屋に押し込める必要性はないのだけども。
お盆を地面に置くと、詩織はもそもそとゆっくりと動いて近づいてきた。
動きを封じるといっても、どうやらそれは完全ではないらしい。まあ、それはそうなのか。完全に封じてしまったら、心臓の動きすら止めてしまって、この少女は仮死を超えて本当に死んでしまう。
それは、天霊に捧げるまで避けなければならない。
と、そこで。
お盆を見つめたまま、詩織が声を漏らした。
「あの……四ノ宮さんで良いんでしたっけ?」
「私のことは氷華で良いわよ。天音と被るし」
「そう言われてみればそうですね。では、氷華ちゃん。私、身体が上手く動かせないので、ご飯を食べさせてくれますか」
「……知らないわよ、そんなこと」
「食べさせてくれますか?」
「…………」
「食べさせてくれますか?」
「……っ、わかったわかったわよ。食べさせれば良いんでしょ!」
瞬きする時間すら惜しいように、ジッと見つめてくる詩織に、氷華は根負けて箸を手に取った。
適量を摘まむと、氷華は詩織の口に持っていく。
「はい、あーん……ってどうして、私がこんなことをしなきゃいけないのよ……どうせなら、天音にしたかったのに」
「もぐもぐ……それを言うなら、私だって天音ちゃんにして貰いたかったです」
「あれ、今のあんたって、天霊の影響はほとんど受けてないんじゃなかったっけ……?」
京子に渡された霊術に施された短剣。
それによって、詩織は動きを封じるとともに、天霊に憑りつかれた影響を無効化したはずだった。
それ故に、詩織から「天音を好き」という感情も消え去ったはずなのだけど。
「とんでもないです、私は天音ちゃんのことは好きですよぉー。いえ、正確には、天音ちゃんへの感情が嘘だと気づいた後に、天音ちゃんのことが好きになりました。だって、天音ちゃん超可愛いじゃないですかー」
「それは完全に同意するわ」
うんうんと頷きながら、氷華は詩織に食べさせ続ける。
それからどれぐらい経っただろうか──。
ご飯を全て食べさせ終わると、氷華は端をお盆に置いた。
食器を重ねて片付けて静かに立ち上がる。
「でも、これが最後の晩餐なんて……なんか侘しいですねー」
「言っておくけど、これ、天音がつくってるわよ」
「超豪華ですね!?」
「嘘よ」
もし、それが本当なら、氷華が自分で食べてしまっている。氷華すらまだ天音の手料理を食べていないのに、他に人間に食べさせるわけがない。
氷華の言葉にしょんぼりする詩織に、思わず同情したくなるが、氷華は敢えて冷たい口調で吐き捨てるように言った。
「……慣れ合いはここまでよ。あんたは明日死ぬんだし、そもそも、私はあんたの敵とも言えるわけだしね」
「そういえばそうでしたね。私は明日死ぬんでした……なんか、あんまり実感ないですけど。私の両親とかどう思っているんですかね? もし、できるなら、私の遺言とか伝えて貰って良いですか?」
「なんで、私がそんなことをしなきゃいけないのよ」
「あははー、やっぱり断られちゃいますか。でも、氷華ちゃんは優しいですから、結局伝えてくれると思いますけど」
「…………ッ」
そこで我慢できなくなって、氷華はキッとした視線を詩織に向けた。
視界に映るのは、氷華に睨まれながらも、無邪気な笑みを浮かべながら首を傾げる詩織の姿。
そこには、これから死ぬことについて悲観している様子はない。
思えば、この少女は今の状況ことを伝えた時もこうだった。
村のために、供物にならなければいけないこと。犠牲となること。しかし、それを伝えても、この少女は笑みを絶やすことはなかった。
それが、氷華にはどうしようもなく気持ち悪く思えて。
「……なんで、あんたは……っ」
「……? 私がどうかしましたか?」
「なんで、あんたはそんな顔ができるのよっ!?」
ついに、氷華は声を振り絞って叫んだ。
「──明日死ぬのよ! 殺されるのよ! しかも、あんたは何にもしていないのに──何にも悪いこともしていないのに! わけがわからない理由で殺されるのよ! なのに──どうして、どうして……そんな顔をするのよ……」
言い方は悪いかもしれないが、氷華は詩織に泣き喚いて欲しかった。
泣き喚いて。命乞いをして。そして、氷華を恨んで死んで欲しかった。
氷華のせいだと。氷華が悪いのだと。
目の前にいる少女にそう言って欲しかった。
そうして、少しでも、氷華は楽になりたかった。
が、詩織は笑みを絶やすことなく。
「だって、そんなことをしたら、天音ちゃんが苦しむじゃないですか」
「────っ」
詩織の言葉に、氷華は小さく身体を震わせた。
が、氷華のそんな様子を知ってか知らずとしてか、詩織は続ける。
「今、一番辛いのは、私でも氷華ちゃんでもありません。選択を強いられている天音ちゃんですよ。天音ちゃんは優しいですからねー。たぶん今頃、いっぱい悩んで、いっぱい傷ついて、いっぱい苦しんでいるはずです」
「…………」
「天音ちゃんは賢い人です。私を救うなんて愚かな選択は取らないでしょう。でも、優しいから簡単にその選択に手を伸ばせない。そんな時に、私が命乞いなんてしたら、天音ちゃんは余計に苦しんじゃうじゃないですかー。だから、私は最後の瞬間まで笑い続けるんです。全然怖くないぞって感じで」
「…………ごめんなさい」
顔を俯かせて、氷華は囁いた。
自分のことしか考えていなかったことが恥ずかしかった。
この少女は、氷華が思う以上に、ずっと強い覚悟を持っていた。
自分が死ぬことを受け入れて──尚且つ、その先まで考えている。
「……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
何度も。何度も。何度も。
謝罪の言葉を口にしながら、氷華は涙を溢れさせながらギリっと拳を握り締めた。あまりに強く握りしめたためか、爪が食い込んで血が溢れだしてきた。だが、それでも、氷華は手の力を緩めることはなかった。
自分が無力であることが、堪らなく嫌だった。
この少女を殺したくなくて──でも、殺さなければいけない現実を、どうにもできない自身の無力さに、愚かさに。
氷華は心から嫌悪していた。
嗚咽交じりに口にしながら、氷華は詩織の足元に蹲った。
「私じゃ助けられなくて──私じゃどうにもできなくて……ごめん、なさい……」
「もう、泣かないでくださいよぉー、氷華ちゃん。そんなことされたら、こっちまで泣きたくなっちゃうじゃないですかぁ。ほら、良い子良い子ですよー」
まるで赤子をあやすように、詩織は氷華の頭を撫でる。
そして最後まで、詩織は笑みを絶やすことはなかった。




