3話
私についてきて、と。
氷華の背を追って着いた場所は、四ノ宮本家――つまり、天音の自宅だった。
もう既に、ギンには精霊たちが住む別世界に帰ってもらっている。地面に放り投げてあったバッグを片手に、天音は氷菓の背を追う。
広大な四ノ宮本家の敷地に、氷華は何の躊躇いもなく踏み入れると、天音でも滅多に行くことのない奥に向かって足を進める。
四ノ宮本家の奥にあるのは、長年使っておらず半分物置のような状態となっている幾つかの長屋と納屋か、天音が霊術の修練に使用する道場、そして──
祖母である京子がいる住居である。
氷華は玄関で靴を脱ぐとそのまま長い廊下を歩き始めた。
この家の造りは日本古来のもので、全てが木造でできている。不便な部分も多い住居だが、これはこれで趣があって、天音はこの廊下から足に伝わるひんやりとした感触が好きだった。
無言のまま、氷華は木の廊下を真っ直ぐと進み──ある部屋の襖の前でピタリと足を止めた。
襖には小さく四ノ宮家の家紋──京子の部屋だ。
氷華はその場で跪いて、鋭く一言発した。
「当主様」
しばしの間の後。
「……何の用ですか、氷華」
奥から、くぐもった声が響いてきた。
その声に、氷華は跪いたまま返答する。
「当主様が気にかけていた事態がついに起こりました」
「……そうですか。氷華、監視ご苦労だったわね。それで、あれはそこにいるのですか?」
「はい」
「そう。では、入ってきなさい」
そう奥から声が届くと、氷華は跪いたまま横にずれて、襖に手をかけると、スッと開いた。
そのまま、視線を天音に向ける。
もしかして、中に入れ──ということなのだろうか。
視線に促されるままに、天音は足を部屋の中に踏み入れた。
京子は天音の祖母であるが、その部屋に天音を招き入れたことはなかった。
自分の部屋に入られるのが嫌いなのだと、幼い頃は思っていたが──そうではないのだろう。
ただ、京子は天音に興味がないのだ。
次期当主としてしか、京子は天音を見ない。しかし、だからこそ、京子はそれに必要ないものは全て削ってしまう。
また、天音にとって、京子は祖母であって祖母ではなかった。
天音にとっての祖母とは──霊術の師であり絶対的な君臨者だったからだ。それ以外のないものではない。それは、天音に限らず──この家には、現当主である京子の命令に逆らえるものは誰一人していなかった。
京子の部屋は簡素としたものだった。
必要以上の調度品は存在せず、娯楽などに興じるものも当然ない。一目ではっきりと地味と感じてしまうような部屋だった。もっとも、祖母の部屋がファンシーに彩られたりしていたら、それはそれで気持ち悪いだろうが。
「座りなさい」
部屋の奥で綺麗に正座する祖母の声に、天音はハッと我に返ると、慌てて何度も祖母の前でそうしてきたように正座した。
後ろで襖が閉まる音がする。
おそらく、氷華も部屋の中に入って襖を閉めたのだろう。
それを、きっかけにして。
「それで」
京子の鋭く衰えを感じさせない視線が天音を捉えた。
いつまで経っても慣れない、嫌な視線。
京子は、世間話もなく単刀直入に切り出した。
「天音、あなた、天霊に遭遇したようね」
「……天霊?」
天霊とは、昔この村に舞い降りたという存在で精霊の上位存在。精霊の中の精霊。そして、この土地の守り神のような存在でもあるはずだ。
訝しげに、天音が眉を寄せると。
それを見て、京子は咎めるような視線を氷華に向けた。
「氷華、あなた、この子に説明していないのかしら?」
「すみません。説明するよりも先に、当主様に、事態が動いたことを先に説明した方が宜しいかと思ったので」
「その判断は間違っていません。でも、それを決めるのは、あなたではないわ。まあ、今回はしょうがないわね」
再び、京子の視線が天音に注がれる。
何がどうなっているかなど、天音には全く理解できなかったが──少なくとも、今の会話でわかることは幾つかある。
まず、氷華は、京子に教えて貰っていたのだろう。
ああいうことが、起こるかもしれないことを。篠崎詩織が狂ってしまう可能性を。
だからこその、監視。
おそらく、それは天音に関係することなのだ──そして、天音を監視することで、異常を早く察知しようとしていた。
だから、通学路でもないようなあんな道に、氷華はいたのだ。
天音を監視していたから。
監視する任務を負っていたから。
「良いですか、天音。これから話すことは大事なことだから、一字一句全て覚えなさい」
無茶だ。と思ったが、口答えすることは許されない。
天音にできるのは、ただ黙って必死に祖母の言葉を覚えるだけだ。
京子が静かに口を開く。
「私達人間は、古から『精霊』と呼ばれるものに関わってきました。時には、過酷な環境下で生き残るために。時には、人類の発展のために。時には、戦争のために。そして、時には、ある村を存続させるために」
「特に、この村に住む四名家やその他の人々は『精霊』を扱うのが上手い家系でした。しかし、当然、そうでない人の方が圧倒的に多かったのです。そういった人は今の外の世界を作り上げ、別の『科学』というものを使って発展しました」
「そうして、今のような状況ができてしまったのです。閉鎖的な村と外の世界という二つの世界が」
「そして、村の中では、更に精霊の使役が絶妙だった四つの家が長の立場となり、村を守っていく任を負いました。それが、今もこの天隠を治める四名家で、その中の一つが──私たち四ノ宮家です」
「ですが、私たち四名家はただ精霊を使役するのが巧みであったから、この村の長たる立場についたわけではありません。私たちには、他の村の人間とは違う特徴があるのですから」
「何度も言ってきたことですから、天音はもうわかっているでしょう」
「私達の祖先が、この村の守り神である天霊だったからです」
「実際に調べる術はわかりませんが──しかし、もし、それが可能だとすれば、私達の血には、その天霊の血が混じっているのでしょう」
正座をしながら淡々と語っていた京子は、そこで一度言葉をきった。
これまで聞いた話は、四ノ宮家が名家足り得る理由。
幼い頃から何度も聞いていたので、天音はさして驚きはしなかったが。
京子が再び口を開く。
「祖先が天霊である。このことは、私たちに様々な恩恵をもたらしました。まず、強力な精霊を使役できる。他には、霊力の扱いに才を持っている。挙げればキリがありません」
「けれど、もちろん、利益だけがあるわけではありません」
「物事には、二面性があるものですから。表と裏があるものですから。当然、問題もありました」
「なんとなく、あなたも察しているかもしれませんが」
「天霊の血を持つ私達は、別の天霊を、精霊が住む向こうの世界から呼び寄せてしまうのです」
「そこに、私達がいるだけで」
いるだけで、呼び寄せる。
神出鬼没に。
天音という人間が、天霊を引きつけてしまう。
惹きつけて──しまう。
「そこに、私達が存在するだけで、向こうの世界から天霊を呼んでしまう。別にそれ自体が悪いわけではありません。でも、天霊がこの世界に現れることは、ある面ではとても危険なこと」
「それは実際に、三百年前にそれは起こっています。これは、あなたも学校で習っているでしょう。かつて、『東京』と呼ばれた場所が一夜にして全壊してしまったことは」
「それは、天霊が一人の少女に憑りついたことで起こった結果なのです」
「憑りついた──?」
口を挟んではいけないと思いながらも、天音はそうせざるを得なかった。
異常を世界に顕現する、詩織の狂った姿。
まるで、あれは。
誰かに憑りつかれたみたいだった。
「そう──憑りつくのです」
天音の挙動に、京子は怒ることはなく語り続ける。
「それは、外から見ただけではわかりません。天霊は、その人間──《憑代》の内部に潜むからです。だから、外見はほとんど変わらない。天霊がやることは、ただ《憑代》に何の疑問を抱かせることなく、目的を擦り込ませるだけです」
「けれど、人間に天霊の力が宿った場合、ちょっとしたことで、都市が一つ吹き飛んでもおかしくありません。それだけ、天霊の力は強力なのですから」
「だから」
「だから、私達四名家は、向こうの世界から天霊を呼び寄せてしまった責任として、《憑代》に憑りついた天霊を祓わないといけません」
「この村を守るために」
「もう、ここまで言えばわかりますね──天音?」
最後は、京子は天音の瞳を見て問い掛けた。
もちろん、ここまで言われたら嫌でも理解してしまう。京子が、天音に何を望んで、何をさせようとしているのか、など。
「も、もしかして」
天音は喘ぐように言う。
「私が、私にそれを──祓えというのですか?」
「そうです」
京子の答えは簡潔だった。
「およそ数日前ほどに、天隠の村には天霊が舞い降りました。四ノ宮家の次期当主として、この村の《巫女》の一人として、あなたはその天霊を祓いなさい。それが、私があなたに与える役目で、氷華にあなたを監視させた原因であり、ここに連れてきて貰った理由です」
「で、でも、私だけじゃ──」
「──もちろん、あなた一人で祓わせるつもりはありません。あなたは、まだ幼い。そこにいる、氷華をあなたに助力させます」
京子の言葉に合わせて、氷華が頭を下げる。
「氷華ちゃんが──?」
それは、正直心強い。
あれほどの霊術式を組める氷華がいたならば百人力だろう。
「明日から、氷華とともに憑代を祓う任に就きなさい。そのためになら、学校を休んでも宜しい。これは、四ノ宮家の当主としての命令です」
「……はい、わかりました」
天音は静かに頭を垂れた。
反論の余地などない。
祖母であり、四ノ宮家当主である京子の言葉はこの家では絶対だ。
しかし、同時にこれは、天音がずっと待ち望んでいたことでもあった。
村をこの手で救う。
そのために、天音は生まれた頃から修練を積んできたのだから。
「これで話は終わりです。それから、祓う時の詳しいことは、氷華に伝えてあります。後で聞いておきなさい」
「はい」
京子の視線が、外へ出て行くように促す。
それにしたがって、天音は立ち上がった。
襖が開いているのを見ると、既に、氷華はこの部屋から退室したようで──今、この部屋にいるのは、京子と天音の二人きりだった。
天音が退室する寸前。
初めて聞くような優しげな京子の声が天音の聴覚に触れた。
「──天音、あなたには期待しているわ。あなたなら、きっとこの任を果たすことができる」
祖母である京子はよく怒るが、褒めることは滅多にない。
そんな祖母から「期待している」という言葉をかけられて、天音は嬉しさを噛み締めながら頷くと一歩部屋から踏み出した。
だからか。
最後にボソッと呟かれた言葉を、天音は聞き取ることはできなかった。
「──あなたの母親とは違ってね」
祖母の部屋から出ると、太陽は真上まで昇っていた。
もう、これから学校に行っても四限の授業には間に合わないだろう。
かといって、五限だけの授業のために学校に行く気にはなれない。
諦めて自室に戻ろう──と、天音が思案していると、
「天音」
横から声をかけられて、天音はそちらの方向を振り向いた。
「氷華──ちゃん」
天音の視界に映ったのは、真っ直ぐ天音を見つめる氷華の姿。
早く退室したので先に帰ったのかと思ったが──どうやら、そうではないようだった。
こうして、まともに視線を合わせるのは何年振りだろうか。
「久しぶりですね、色々」
「そうね──だいたい、五年と一か月二十七日三時間ぶり」
「…………」
どうしてそんなに細かく覚えているのか、天音は少し気になったがそれは口にしない。
代わりに、
「氷華ちゃんは、いつから知っているんですか?」
「天霊のこと?」
「はい」
天音の視線に、氷華はスッと目を逸らした。表情が見えないように、太陽によって顔に影ができるようにして。
「──五年前ぐらいね」
「……五年前。そんなに前から、こうなることがわかっていたことですか?」
「そうみたい。というか、そもそも、天霊が誰かに憑りつくのは五十年周期らしいから。だから、わかったんでしょ」
「な、なら──」
「周期があるなら、憑りつかないように警戒したら良かった、って? 残念だけど、それは無理。この村に、何人いると思ってるの。全部いちいち見張るなんて、そんなことは不可能よ」
「せいぜい、一人が限度ってことですか」
皮肉めいた天音の言葉に、氷華は少し気まずそうな顔をした。
「……あなたを監視するのは、最優先事項だったのよ。祓うことができる人間は、四ノ宮家では、当主様と天音しかいないんだから。天音に何かあったら困るのよ」
「別に、私には何も──」
「今日の朝、私がいなかったら──あなたは、階段から落ちて大怪我……いや、打ちどころが悪かったら死んでいた可能性だってあるわ」
「…………っ」
氷華の辛辣な言葉に、天音は口を噤んだ。
しばしの後、天音は疑問を漏らした。
「……いったい、いつから、私を監視していたんですか?」
「五年前からよ」
「……五年前?」
天音は眉をひそめる。
その数字は、ちょうどさっき聞いたばかりだった。そう、それは……
「……もしかして、氷華ちゃんが、私から急に離れていったのは……?」
それだけで、天音が何を言わんと察したのか──氷華は首を前に倒した。
「そう、そうよ。私は、天音の監視の任務を当主様から請け負ったから──一緒にいられなくなったの。一緒にいたら、危険に気づきにくいから。それに──天音を守る術も身に付けなきゃいけなかったし」
「────っ」
天音は呻くように小さく声を漏らした。
何でもないように、氷華は言うが──それは、天音のために、氷華は五年という時間を注いだということなのだ。
五年という時間を、天音のために、棒に──
「──棒に振っただなんて、間違っても思わないで」
天音の心境を読み取ったかのように、氷華はそう言った。
「少なくとも、私は納得してやったことだし──天音が、ここにこうして生きているというだけで、私の監視は十分に意味があったのだから。そんな言葉で、私の五年間を無駄にしようとしないで」
「……氷華ちゃんはそれで良いんですか?」
氷華の言葉に対して、天音が絞り出すようにして紡いだものはそれだった。
しかし、氷華の答えは変わらなかった。
「──良いのよ。さっきも言ったでしょ。私は納得していたし、天音の役に立っていると思ったら、私は嬉しかった。そして、それが、私の役目なの。天音が自身の役目を果たす時まで支えるのが、私の存在理由」
「存在──理由」
「そうよ」
氷華が頷く。
「天音のことは、私が全力でサポートするから。だから、安心して天霊を祓ってこの村を救って。それが、天音の役目なんだから」
「そう……ですよね。やっぱり、私がやらなくちゃ──祓わなくちゃいけないんですよね」
「当たり前でしょ」
氷華はちらりと視線を空に移して言う。
「それが、四ノ宮家次期当主としての天音の役目なんだから」
◇
氷華は自室に戻るとバックを机の上に置いた。
外は暗いが、明かりは点けない。
そんなものは点けなくても、青白い月明かりが窓から差し込んでくるので十分だった。
氷華が部屋の隅に置いてある姿鏡に視線を向けると、そこには、様々な感情と葛藤している自身の顔が映っていた。
「…………くっ」
四ノ宮家当主から与えられ命。
それを、分家出身の自分が反故にできるはずもない。
そんなことは言われるまでもなくわかっていた。
どんなに思い悩んだとしても、氷華はこれをやり遂げなければならないのだ。
「絶対──絶対、私があなたを守ってみせるから。たとえ、どんなに私が汚れても。どんなものを失ったとしても、私は天音を守るから」
拳を壁に殴りつけて、氷華は吐き出すように誓う。
それに応えるように──
壁に貼りつけられている『天音たち』が、一斉に氷華に笑いかけたような気がした。




