1話
広大な森と三本の川。
それが、この村を構成するおおよそのものだった。
旧東京からおよそ二百キロほど離れたその土地は、どこまでも広がる森をくり抜き、文明からはほとんど隔絶された場所に存在し、周囲には自然と澄んだ空気が溢れていた。
上空は一点の曇りもない蒼穹。面積は昔誰かが測ったところ、旧東京の三分の一ほどもあるという茫漠たる場所である。
至って普通の、何の変哲もない村。
精霊という特殊な霊の力を借りて暮らしている点、以外だけれども。
しかし、それを除いてはこれという特徴もなく、あるのは閉鎖的な空間と古から続く風習のみ。
そして、昔、天霊と呼ばれる強力な精霊がこの地に降り立ったという逸話から、この村はこう呼ばれていた。
──天隠の村、と。
1
「ねぇ、天音。あなたはこの村のことをどう思う?」
幼い頃、今は亡き母は、私にそんなことを言っていたような気がする。
母の意図はわからなかった。
だが、母の前ではお利口さんでありたかった私は優等生の答えを口にしたのだと思う。
この村はとっても良い場所だよ、とか。
精霊さんたちはとっても優しいし、とか。
今となっては微塵も思い出せないが。
そんなあやふやな記憶の中で覚えているのは、母がいつも言っていたこと。
「そうだね、天音。確かに、村の人たちは優しくしてくれるし、精霊たちは私たちに快く力を貸してくれる」
「そのおかげで、お母さんたちはこの閉鎖的な村で生活することができている。今のお母さんたちの生活は精霊がいるから成り立つ、と言っても過言ではないかもね」
「だって、精霊は農業も狩りに限らず手伝ってくれているんだから。精霊たちがいないと、霊術も使うことができないし、文字通り、お母さんたちはあっという間に死んでしまうだろうね」
「でも──それで良いのかな、天音」
「お母さんたちは精霊たちに力を貸してもらってばかりで、お母さんたちは自分の力だけで何かを成し得ることをしていないでしょう」
「お母さんたちだけでは何もできない」
「もちろん、それが悪いと言っているわけではないよ。人間っていうものは、楽をするために、安心するために頑張る生き物なんだから。きっと、それが正しい姿なんだよ」
「だけど、ね」
「お母さんが危惧……心配しているのは──どうして、精霊さんたちはお母さんたちに力を貸してくれるんだろうってことなの」
「精霊さんたちが優しいから?」
「そうかもね、それもあると思う。けど、天音。世の中、何かをしてもらうためには、対価が必要なんだよ。村の人たちから野菜を貰う時もそうでしょう。その野菜と同じ価値のものを渡さなきゃいけない」
「まあ、要するに、お母さんが言いたいのは」
「──力を貸してくれる精霊さんたちには、お母さんたちはどんな対価を支払えば良いんだろうねってことだよ」
この会話から数週間後、私の母は姿を消して。
私と祖母をこの村に残して、外の世界に行って。
二度と、私の前に現れることはなくなった。
◇
「────っ」
季節は夏。
陽光が降り注ぎ、じめっとした空気が纏わりつく中で。
頭を貫くようなその痛みで、一人の少女──四ノ宮天音は意識を覚醒した。
少しの間、意識を失って目を閉じていたためか、天音は瞼を開くと──瞳の許容量を超えた光に目を細めた。
なんだか、随分と昔の夢を見ていたような気がする。
が、今の問題はそれではない。
ぼんやりとした視界の中で、天音は記憶を探りながら思い出そうとする。
何故、気絶をしてしまったかを。
そう──あれは、今日の朝のこと。
天音の下駄箱の中に一通の手紙があったのだ。
その手紙には、丸っこい字で「今日のホームルーム前、第三校舎の裏で待っています」と書いてあったので、天音は何の疑問も抱くことなく、そこに足を運んだのだった。そして、第三校舎の裏に着くや否や、頭に何度も衝撃がはしって……
そこから、先は何も覚えていない。
気がついたら、今の場面である。
「ううっ、いったい何なんでしょうか……」
天音が痛む頭を押さえながら呟くと、
「大丈夫ですかぁ?」
頭の方から聞こえてきた声に、今度は瞼をしっかり開いて、天音は眼前を見た。
声音でわかる。この響きは──少女のものだ。
今までぼんやりとしていた視界が一気に明瞭になる。
と。
「────っ」
視界に映った顔を見て、天音は息を詰まらせると、咄嗟に小さな手で口元を覆い隠した。
単純な論理。
そこにあったのは見覚えがあるだけでなく、天音の憧れのものだったからだ。
天音の顔の少し前にあったのは、声で判断した通り──少女の顔。
しかし、ただの少女のものではない。
名前は──確か、篠崎詩織。
女の格好良い高等部の先輩である。
背まで伸びた長い髪。清楚などといった言葉がよく似合いそうで──思わず、見惚れてしまう端正な顔立ちを持っている。常に笑顔を浮かべ、やはり今も柔和な笑みが浮かんでいた。
頭脳明晰、スポーツ万能、容姿端麗の三拍子が揃ったこの先輩は、学園の中でも男女問わず人気を誇り、出来ないことがないのでは、というほどの人なのだ。
と、そこで。
天音は、ようやく、今自分が置かれている状況に気づいた。
状況──詩織に膝枕されていることに。
「──え、えっ?」
反射的に起き上がろうとしたが──詩織にガッと両肩を抑え込まれて、天音の頭は詩織の太腿に舞い戻った。
「このままでいてくださいね」
「…………はい」
有無を言わさぬ詩織の調子に、天音は小さく頷く。
普段から憧れ、遠い存在であるはずの先輩が膝枕をしてくれている。
天音としては断る理由はない。
が、しかし。
ふと、視線を上げると目の前には詩織の瞳。
詩織は瞬きする間も惜しいかのように、真剣な表情でまっすぐ天音の顔を見つめていた。
「あ、あの……わ、私の顔に何かついていますか?」
「何もついてないですよ」
「え、あ、じゃあ──」
「なんでしょうか?」
「…………」
「…………」
無垢な笑顔で問い返す詩織に、天音は押し黙った。
無言の空間が辛い。
「……あ、あの、ですね、篠崎先輩。この辺りに、私を襲った人がいると思うのですが……何か知っていますか?」
「もちろん、知っていますよ」
「えーっと……誰でしょうか?」
当然の如く頷く詩織に、天音は戸惑いながら訊ねてみるが。
けれど、詩織の口から出た言葉は、天音の予想外のものだった。
「私ですよ」
「えっ?」
「あなたを襲ったのは、私です」
しばしの間の後。
「…………えっ?」
天音は声を漏らした。
脳が、詩織の言葉を受けつけない。
やがて意味を理解した天音は、喉を震わせる。
「……ということは、あの手紙は……?」
「私が書いたものです」
「…………」
意味がわからない。
詩織の言葉を鵜呑みすると──詩織は手紙で天音を呼び出し、襲ったことになる。
だが、天音には詩織に何かした覚えはない。
何かした覚えがないというか──そもそも、詩織とこうしてまともに話をするのは、いや、声を交わしたことも、視線を合わせたこともないのだ。
一点の交わりも──接点も、二人の間には存在しない。
完全な初対面なのだから。
「……えーっと……」
天音は困ったように頬を掻いた。
「……どうして、こんなことをしたのでしょうか?」
「恥ずかしかったからです」
「…………」
「どうかしましたか、天音ちゃん?」
「……っ、いえ、篠崎先輩の言葉の意味がよくわからなくて」
「なッ──それは大変です。きっと、私が上手く気絶させることできなかったからですね。ごめんなさい、私、石で人を殴ったのが初めてだったから……」
「何度もあったら怖いですっ!」
「次は、もっと上手くやりますね」
「しなくて良いです!」
「えっ、それってもっと痛くしろ、ってことでしょうか? どうしましょう、私それは上手くする自信がない……」
「そういう意味じゃありませんっ!」
思案顔の詩織に、天音は思わず叫ぶ。
というか、上手く気絶させる方には自信があるのだろうか……
何だか考えるのが怖くなり、その思考を脳の隅に追いやって。
天音は一息つくと口火を切った。
「で、どうして、篠崎先輩は私を手紙で呼び出して、恥ずかしいからといって、背後から石で殴って気絶させた後、私を膝枕しているんでしょうか?」
口にしてみると、とても凄い状況だった。
下手したら、傷害事件とかで詩織を警察に突き出せそうだ。
それに、完璧超人の先輩・篠崎詩織は普段、絶対に浮かべないような表情をして、小さな声で。
「…………告白するためです」
「はっ?」
「だから、天音ちゃんに告白するためなんです。──私、篠崎詩織は、あなたと仲良くなりたいです。あなたの傍にずっといたいです。あなたのことが大好きで大好きで堪らないの。だから、だから、私と付き合ってくれますか?」
最後は笑顔で──詩織はそう言った。
「いやいやいや」
天隠の村の唯一の中学校である青桜学園中等部の三年六組の教室で。
天音の前に座り、身体をこちらに向けて自分を見やる、短髪の少女──涼香は、天音の言葉に訝しげな表情を晒した。
天音が通うこの青桜学園は、中高が一貫になっている学園で、同じ敷地内に高等部が存在する。
といっても、学園自体が広いわけではなく。
学園に通う人数が、そもそも少ないので、どうせなら一緒にくっつけてしまえ──という考えの下、この学園は建てられたのだろう。
当然、通う人数が少ないのだから、クラスの数も少ない。
そのせいか、天音はこの教室にいる生徒とは──いや、少なくとも、この青桜学園中等部にいる生徒とは、全員知り合いだった。
しかし、だからといって、全員と仲が良いわけもなく。
昼休みは、一番の親友と楽しく話しながら、お弁当食べて過ごすのが、天音にとって当たり前の日常だった。
そして、現在。
昼休みをいつも通り過ごしていた天音は、今日の朝の出来事を、涼香に話していたわけだった。
篠崎詩織に告白された出来事を。
「いやいや、おかしいから。完全に怪しいから。もう一度、天音の口から昨日の出来事を言ってみて」
「校舎裏で待っていると手紙に書いてあったので、行ってみたら襲われて、気がついたら篠崎先輩に膝枕されていて──」
「はい、そこ絶対おかしいよね。自分を襲った人間が、膝枕しながら目の前にいたら、まず逃げようよ」
「──で、告白されました」
「はい、ダウトダウト」
言って、天音の机に、涼香はぐだーとしなだれかかった。
クラスの中の男子の半数よりは、よっぽど活発そうな、この少女──涼香は、小学生の時からの天音の親友である。しかし、その長年付き合いがあっても、涼香は天音の言葉が信じられないようだった。
天音は抗議するように軽く頬を膨らませる。
「むぅ、涼香ちゃん、嘘じゃないですからね」
「ええー、だって、あの篠崎先輩でしょ。あの完璧超人の、誰もが憧れる篠崎詩織先輩でしょ」
「そうですね」
「じゃあ、余計嘘に思えるよ。そりゃあ、天音の言葉を嘘だと決めつけちゃってるわけじゃないよ。でも、でもね? あの篠崎先輩が、女子生徒に──しかも、天音に告白するなんて。ねぇ?」
「どういう意味ですか? ねぇ、どういう意味ですか? その含みのある言い方はなんですか?」
「だからというか、信じられないわけよ、はい」
天音の言葉を華麗に無視して、涼香はそう自分の意見を述べた。
まあ、それが普通の反応だろう。
告白された天音自身ですら、まだ整理がついていないのだから。
整理というよりは──疑い、か。
だが、興味には引っ掛かったのか、涼香は顔を上げて。
「ねぇねぇ、詳しく教えてよ。その時の状況を」
「むぅ、嘘つき呼ばわりする人には教えません」
天音がフイと顔を逸らすと、涼香は頭を下げてその上で手を合わせる。
「お願い! 一生のお願いだから!」
「……時々、涼香ちゃんの人生は幾つあるのか気になります」
「もうーそんな意地悪言わないでさー、ねぇ、教えてよ、天音。後でたくさん、甘いお菓子あげるから」
「…………っ」
ピクリ、と。
天音が身体を震わせたのを見て、涼香はニヤリと笑みを浮かべる。
「おやおや、天音は甘いお菓子が欲しいのかなぁ?」
「ば、馬鹿なことを言わないでください! 呪いますよ!」
「それ、天音が言ったら冗談に聞こえないんだけど。天音の家、巫女さんの家系だし……でもでも、詳しく話してくれれば、甘いお菓子たっぷりあげるから」
ムッとした表情をしながらも、天音は涼香の方を向いた。
しょうがないのだ。甘いお菓子を求めてしまうのは。
天音の家は厳しいので、甘いお菓子なんて滅多に食べられない。天音が良く食べる、一番甘いお菓子は野生の野イチゴ(というか、むしろ酸っぱい)──なんてことは流石にないけれど、ほとんど口にはできないのだ。
だけど、そうは言っても、甘いものは食べたいわけで。
このようにして、涼香から時々貰っているわけだった。
天音はこほんと咳払いする。
「んん、念のため言っておきますが、私が涼香ちゃんに喋るのは決してお菓子が欲しいからではありませんからね」
「はいはい」
「本当にわかってますか!」
「わかってるわかってるから、早く話してよ」
「むぅ、本当にわかってるんですか……まあ、とはいっても、特に話すこともないんですが……」
今、思い返しても随分と不思議な出来事である。
一点の接点もない天音に、初めて会って告白。
明らかにおかしい。
異常──と言って良いほどに。
「ねえ、じゃあ──告白した後の、篠崎先輩の様子を話してよ。どんな感じだったの?」
「告白した後の、篠崎先輩の様子ですか……?」
言いながら、天音は記憶を掘り返す。
確か、詩織は告白し終わった後──
「──まず、顔を赤くして俯きました」
「うん」
「その後に、モジモジしながら顔を上げると」
「うんうん」
「ペロリと舌なめずりして」
「う、うん」
「血塗れの石を持った篠崎先輩の告白を、私が受け入れると──」
「──ダウトォォォオオォォォォォォォッッッッッ──────ッ!」
天音の台詞を遮って、涼香が絶叫した。
クラスメイトがバッとこちらを振り向いて一瞥くれるが──涼香は全く意に介していない。それどころか、涼香は立ち上がるとバンッと天音の机を叩いた。
天音は顔をしかめて声を漏らす。
「……涼香ちゃん、うるさいですよ。いきなり、叫んでどうしたんですか?」
「叫びたくもなるよ! え、なに、天音、篠崎先輩の告白受け入れたの?」
「はい」
「血塗れの石を持った?」
「べっとりでしたね」
「なに、その軽くホラーな光景! シュールすぎるよっ! 殺人現場にも勝るとも劣らないよ!」
「ちなみに、石は赤黒く染まっていました」
「前科持ちじゃん! 全然初めてじゃないじゃん!」
「人を殴ったのが初めてだそうです」
叫び疲れたのか、涼香はぐったりと天音の机に項垂れた。
クラスメイトもすっかり興味を失くしたようで、天音たちにもう注目は集まっていなかった。
「……なんか、篠崎先輩のイメージが崩れていくよぉ……よく逃げ出さなかったね、天音は」
「私は、血は見慣れてますから」
「いや、それは関係ないと思うけど……」
的外れな返答する天音に、涼香は苦笑する。
「それはともかく、天音は本当に篠崎先輩の告白を受け入れたの?」
「はい」
「なんで?」
「人脈って大切だと思いませんか?」
「うわぁ、天音、知り合ってから一番ゲスイ顔してるよ」
「冗談に決まってます。まあ──もちろん、篠崎先輩の告白も冗談だと思いますが。ふっ、私にドッキリを仕掛けるなんて百年早いんですよ」
疑い。疑惑。
本当に、あれは告白だったのか──という疑惑。
実際に、詩織が天音に告白するなんてこと有り得ない。
起こり得るはずがない。
だとすれば。
あれは──天音を嵌めようとしたドッキリと考えるのが、最も合理的な判断である。
おそらく、あの時どこかに何人か隠れていたのだろう。
しかし、仕掛け人は悔しがっているに違いない。あろうことか、天音は了承してしまったのだから。
「ですよね、涼香ちゃん」
「…………」
「……涼香ちゃん?」
「…………」
「ど、どうしたんですか、涼香ちゃん? そんな顔をして? 怖いですよ、黙ってないで何か言ってください」
「………………本当に、ドッキリだと思っているの?」
「え、えっ? それってどういう意味……? え、あ、ちょ、ちょっと待ってください。黙って前を向いて、次の授業の準備をしないでください」
涼香の不気味な態度に、天音はオロオロと狼狽えてしまって──机の上に乗ったペンを床に落としてしまった。
──と。
「あっ」
ペンを取ろうとして、天音は声を漏らした。
理由は単純。──天音よりも先にペンを拾った人物がいたからだった。
それは、女子生徒だった。
端正な顔立ち。しかし、その顔からは感情は見られない。中心に鎮座するのは、鋭さを宿した瞳。綺麗な印象よりも先に、氷のように冷たく──刺々しい印象を与える少女である。
名前は──四ノ宮氷華。
天音がいる本家の四ノ宮ではなく、分家である四ノ宮の少女だ。
氷華と視線が一瞬交錯する。
だが、その瞳に映った感情を読み取る前に、氷華は視線をスッと逸らした。
限りなく無表情のまま、氷華はペンを天音の机の上に置く。
「あ、ありがとうございます」
「…………」
天音のお礼の言葉に、氷華は無言で小さく会釈して──そのまま、自分の席に戻った。
まるで、天音とは他人だと言わんばかりの行動。
「あの子、いつもあんな感じだよね」
いつの間にか、天音の方を向いていた涼香が耳元で囁く。
「いつも無言で、何を考えてるかわからないし」
「……氷華ちゃんは、昔はあんな感じじゃなかったんですけど」
その天音の呟きはよく聞こえなかったのか、涼香は首を傾げる。
が、特に気にならなかったのか、天音の耳元で再度囁いた。
「でも、そこが良いよね。なんか、一匹狼っていうか、一人で自分の道を突き進んでいるって感じが。なんか、ああいう姿に憧れちゃうかも」
「うん──そうですね」
涼香の問いかけに頷いて、天音は寂しそうに小さく笑みを浮かべた。
「……氷華ちゃんはとっても格好良いですから」
そこは、昔から何も変わらない。
かつて、天音と氷華が一緒に仲良く遊んでいた頃から。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り始めた。
天隠の村は三つの川によって、四つの土地に分かれる。
全て等分に分かれているわけではなく、その四つの土地は四つの家が中心となって治めているのだ。
その北端の土地。
その場所は、四つの名家の一つに数えられる四ノ宮家──天音の家が治めていたのだった。
だからか、女系の家系である四ノ宮家の次期当主──《巫女》として、天音は周囲から期待され、大事に扱われてきた。
まるで、一国のお姫様のように。神託を承る巫女のように。
その過保護さといったら、この村から逃げ出したくなることもあるぐらいだ。
まあ、それは現実的に不可能なのだけど。
何故ならば、天隠の村を囲む森には──危険な生物である魔獣が生息しているからだ。
その外見は多岐に渡るが、だいたいは異形のものである。天音も幼い頃一度見たことがあったが、やはりそれはとても醜く恐ろしいものであった。
少なくとも、一人では絶対に外へはいけないと、恐怖心を埋め込むほどには。
この村は孤独だ。
魔獣に囲まれたこの村は、空路からではないと外部と連絡を取ることさえできない。
あまりにも、不便で──世間から離れている。
「天音」
その声に、天音はハッと意識を取り戻した。
目の前の置かれた小さな石の山に、慌てて意識を注ぎ込む。
今──天音がいるのは、四ノ宮家の道場だった。
ひんやりとした床に座る天音の目の前には、二つの白い紙の上に置かれた石ころの山。
その更に先には、着物を纏った女性──祖母である四ノ宮京子が、お手本のような綺麗な正座をしていた。
「今、別の考えていましたね、天音」
「はい」
嘘をついても、この祖母から隠し通せる自信がない。天音は正直に答えた。
その返答に、京子はわざとらしく溜息を吐いた。
そうすることで、天音に圧力をかけられることを、京子は熟知しているのだ。だいたいの人間はこれで萎縮してしまう。
しかし、いくらそれが意図的に行われているとわかっていても──天音はギュッと心臓を握られる感覚からは逃れられなかった。
「そんなことでは、四ノ宮家の当主は務まりませんよ。あなたにはこの村を背負っていくという使命があるのです。そのことをちゃんと念頭に置いて、修練に励みなさい」
「はい、すみません」
何度も繰り返し言われ続けていることに、天音はいつも通り頷いて──二つの石ころの山を睨んだ。
スッと両手を伸ばして、天音は手を空間上に滑らせながら宣言する。
「《浮天》」
瞬間。
天音の眼前の空間に、銀色の幾何学的な文様──霊法陣が刻まれた。
霊力をエネルギーとして、霊術を行使した証だ。
霊術を発動させると、天音の視線の先にある一つの石ころが薄らと輝いて──ゆっくりと浮かび上がった。そのまま、横のもう一つの石ころの山に移動させる。
ことり、と。
石が別の山に着地すると、天音は霊法陣に呪力を注ぎ込むのを止めた。すると、すぐに声が飛んでくる。
「まあ──及第点ですかね。でも、出来れば、もう少し霊術の発動までの時間を短くしなさい。……そうね、もう、今日は終わりで良いわ」
「はい、ありがとうございました」
天音がお辞儀すると、京子は道場から出て行った。それを見て、天音は小さく息を吐き出すと片づけを始める。
この村は孤独だ。
しかし、孤独でも生きていけるのは理由がある。
その一つが──この『霊力』という不思議なエネルギーと『霊術』という異常を世界に顕現する術である。
霊力というのは、契約した精霊から借り受ける力のことである。
この不思議なエネルギーを対価にして発動する霊術は、理論的には、文字通り世界を壊すことすら可能である。
しかし、一見万能に思えるその力は──簡単に行使できるわけではない。
演算と霊法陣の構築という、とても面倒臭い工程を辿らないといけないのだ。
それは、自身が望む結果によってより難解と化す。
つまり、世界を壊そうとするなら、それこそ、十年以上は演算と構築を続けないといけない。
まあ、そんなことを可能とする人間はいるはずもなく。
結果的に、世界は壊せないのだけれども。
「……ふぅー」
片づけ終ると、天音は自分が着ている衣服へと視線を落とした。
上は白。下は足元まで広がっており、緋色。着物のような印象を受けるそれは、白衣と緋袴であった。
まるで、巫女のような格好。──否、紛れもなく、村を守る巫女であって。
天音は、四ノ宮家の次期当主なのだった。
先の霊術の修練も、いつの日か村に訪れるかもしれない災厄に備えるためである。それが、四ノ宮家次期当主として務めであり、責務だ。
この敬語も、そういう環境で育った天音なりの処世術でもある。
天音が道場の外へ出ると、もう空は暗くなっていた。
光源といえるものは、頭上で光り輝く青白い月明かりしかない。このまま自室に戻ろうとすれば、どこかで転んでしまうだろう。
別の光源があれば、転ばないのかもしれないけども。
と、なれば……
そこまでを確認して、天音は誰もいない空間に向かって静かに呟いた。
「……ギン、来てください」
直後。
天音の目の前で、一瞬銀色の光が明滅して──次の瞬間には光の粒子を弾けさせて、一匹の獣が現れた。
銀色の毛並みを持つ獣。
だが、そのサイズはかなり小さい。パッと見る限りでは、子犬にしか見えないだろう。天音の片手でも簡単に持ち上げることができると思えるほどだ。
『……なんだ、天音。いきなり呼んで』
口を開いたかと思うと、天音がギンと命名したその獣は突如喋り始めた。
だが、天音はそれには驚かない。もう慣れてしまっていたからだ。
足元に座る獣に、天音は言う。
「ちょっと、足元が暗いので照らしてください」
『……もしかして、それだけのために俺を呼んだのか?』
「そうですけど……何か問題でも?」
『大有りだ! いいか、天音! 前から何度も言っているが、俺は天霊をも超えると言われた精霊なんだぞ! その俺をこんな使い方するなんて……!!』
憤慨した様子で、ギンが言ってくる。
が、当然、天音からは可愛い子犬が唸っているだけにしか見えないので、全く怖くなかった。
だけど、これでも一応精霊なのだ。
精霊とは、別世界に住む霊力という力を持った存在のことである。
だが、別の世界に留まっているわけではなく、こちらの世界にも度々現れ、契約している精霊なら、自分の都合でこうして呼び出すこともできる。
この村では、人一人につき、一体の精霊と契約を交わすことによって、その霊力という力を精霊たちから借りているのだ。天音もその例から漏れることなく──数年前契約したのが、このギンという獣である。
ただ、思えばそれは随分と不思議な出会いだった。
ある朝起きたら、枕元にギンが座っていたのだ。
もちろん、最初は突然現れるは、喋るはで驚きもしたが──ちょうど、天音の母親がいなくなった時期だったので、寂しさを紛らわすために、結局その日中に契約をしてしまったのだ。
それ以来、天音はギンとともに過ごしている。
が、それは本契約ではなく仮契約。
言わば、お試し期間のようなものだ。
その間なら、契約を解除して別の精霊とも契約できるのだ。
かといって、天音がギンに不満を持っているわけではない。
むしろ、その希少性──喋ることができるという特性には満足しているぐらいだ。他の精霊では、こうはいかないだろう。
天音が本契約を渋り、仮契約であろうとする理由──それは、ギンが出した条件のためだ。
──すなわち、『俺と正式に契約したければ、自分の身体の一部を差し出せ』という。
何でも、ギンは契約者の身体の一部を取り込むことによって、力を発揮するタイプの精霊らしい。
が、今のところは一学生である天音には、そこまでする理由はない。
というわけで、ギンとは正式な契約を結ぶことなく、仮契約のまま使役しているのだった。
「だいたい聞いたことありませんよ、条件を出す精霊だなんて。他の皆が契約している精霊は、そんなことは言いません」
『そりゃ口が利けねーからな』
天音の足元を歩きながら体躯から銀色の光を放出して、ギンが答えた。
何だかんだ文句を言いながらも、しっかりと仕事をしてくれるのが、このギンの良いところでもある。
『だいたいなあ、何かをして貰う時には同時に対価が必要なんだぜ。それをタダで借りようとするお前らの方がおかしいんだよ』
「…………」
その言葉に、天音は黙った。
それは、生前の母もよく言っていたことだった。
精霊に霊力という力を貸してもらう代わりに、私たちは何を対価として支払えば良いのだと。
「……あとでドッグフードでも用意しましょうか?」
『おそらく、悪意なく、俺に対して気遣って言ったつもりなんだろうが、天音。はっきり言って、それは嫌がらせに近いぞ』
「好き嫌いはいけませんよ」
『そういう問題じゃねぇ!』
ぐるると、ギンが唸る。
それに、天音はわざとらしく溜息を吐いてギンを見やった。
「……じゃあ、ギンはいったい何が欲しいんですか?」
『当然、お前の身体の一部だ!』
ぐしっ。
天音の足がギンの頭部を捉えた。
そのまま頭をぐりぐりと踏みつけながら、汚物を見るような視線をぶつける。
「……どうやら死にたいようですね」
『痛い痛い痛い! 違う違う、変な意味に取ってんじゃねー!! 正式な契約をするためには、それが必要だとあれだけ言っただろ!』
「要求が変態と何も変わらないんですが」
『うっせえ! しょうがないだろ、それが俺の特性なんだよ!』
そっぽを向いて、ギンが叫ぶ。
──と、そこで、天音たちはようやく自室の前へと辿り着いた。
ギンが天音を見上げてくる。
『俺の仕事はここまで良いな?』
「え、ええ、そうですけど……」
『どうした? まだ何かあるのか?』
「いえ、ドッグフードの方を──」
ぽん。
天音が台詞を紡ぎ終わる前に、ギンが音をたてて姿を消した。おそらく、精霊たちが住む別の世界に帰って行ったのだろう。
しかし、なんとも、できた精霊である。
せっかく、天音がお礼をしようとしたのに。
「……ありがとうございました」
先程までギンがいた空間に向かって、天音は感謝の言葉を口にすると自室に戻った。
部屋に入ると、すぐに寝間着に着替えて布団の中に潜り込む。途端に疲れがドッと襲いかかり、瞼が重くなった。
ふと、視線を上げて机の上を見ると──そこには、窓から差し込んだ月光に照らされる一枚の写真があった。
所々黄ばんでいる昔の写真。
写っていたのは、笑い合っている幼い頃の、天音と氷華だった。
小学生の途中までは、天音と氷華は仲が良かった。本家と分家関係なしに、ずっといつも遊んでいたし──何をするにも、一緒だった。
けれども。
いつの間にか、遊ぶ回数は減っていき──消えてしまった。
案外と、幼馴染とはそういうものなのかもしれないが。
小学校三年生あたりから、急に、氷華が天音から離れていき──疎遠になったのだ。
今では、目があってもお互いに逸らしてしまう。
まるで、昔の関係などなかったように。
知らなかったふりをしてしまう。
別に何かしたわけではない。
だが──なんとなく気まずいのだ。
昔はあんなに仲良くしていたのに、ずっと話しかけていないことが、余計に天音に一歩を踏み出させない原因を生み出している。
だから、話せなくて。
そして──余計話しかけるタイミングを見失ってしまうのだ。
それが、もう何年も続いてしまっていた。
いったい、いつから言葉を交わしてないのだろうか。
いったい、いつから知らないふりを始めたのだろうか。
いったい、いつから──
「……明日、久しぶりに話しかけてみましょうか……」
内に秘めた決意を、誰ともなく静かに呟いて。
天音は微睡みの中に意識を埋めた。




