水泳と悪魔 その3 ―オチ―
水泳の試合日が近づきます。
"摂"氏は、"♣"に尋ねます。
「あなたの、同競技における平均タイムはどれくらいですか?」
"♣"は胡散臭そうな顔を向けました――が、教えてくれました。
そして、試合日になります。
"摂"氏は、水泳という、彼にとって生きる上で不必要に思われる活動をするために用意された会場に向かうことに、躊躇はありませんでした。
観戦は、
「時間の無駄」
とも思いませんでした。
――それでも、多くの同級生たちの様に、クラスの仲間を応援するつもりは、これっぽっちもありません。
"摂"氏は、ストップウォッチだけを忘れず、持っていきます。
会場では、水泳部のエースが体調を崩していました。
エースは
「這ってでも出る」
と根性を見せましたが――水中でどう「這う」のか疑問ですが、些細なことは忘れましょう――結局、倒れた後、救急車で運ばれていきました。
見送った後、コーチは"摂"氏の同級生である"♣"に、
「代わり」
となるよう、命じます。
"♣"は、すごく嬉しそうでした。
悲しみも陰も自虐もない"♣"の笑顔をその日、"摂"氏は初めて目撃しました――入学して、出会ってから、はじめて。
勿論、対外的には、"♣"は真剣な顔つきをしているのでしょう――しかし、喜びは隠しきれない様です。
それは、鹿爪らしい、笑顔なのです。
そんな"♣"は、ちら、客席に視線を向けました。
その視線の先には、"摂"氏がいました。
"摂"氏が振り返ります。
後方の席に、胸部が大変発達した生徒が、同性の友達と一緒に腰掛けていて――噂話に夢中な様です。
背後で行われるくだらない話など意識する必要がありませんから、"摂"氏は再び"♣"を見直しました。
プール際にて、学校のジャージ姿で立ち、ストレッチをする"♣"を見ると、
「集中」
という形容が適切な顔をしています。
――"♣"が客席を目を向けることはその後、二度とありませんでした。
そして、試合の時間となります。
「位置について」
「よーい」
「パン!」
"摂"氏は目撃しました――誰よりも速くスタートした"♣"を。
誰よりも速く、泳ぐのを。
息継ぎをした時、微笑んでいるのが見えます。
"摂"氏は、目を見張りました――"摂"氏は、何故か、空の左手を強く握りしめていました。
右手に置いたストップウォッチの画面が、高速で進んでいきます。
数字を目で、ひとつひとつ、追うことはできません。
同時に、"♣"の泳ぎをひと掻きひと掻き、追うことも難しい。
それでも――"摂"氏には――等しく感じられました。
レース半分の距離まで来たとき、既に"♣"は他の生徒を、足の指先のさらに後方まで、残しています。
同じ水の中、競争しなければならない他校の生徒が驚いていて、ペースを乱している顔が、息継ぎの時に露骨です。
そして、最後――
"摂"氏は、手に持っていたストップウォッチを止めようとして――
――“♣”の身体が――
止まりました。
小さな衝突音が聞こえ――そのまま――籠った悲鳴が、客席を包みました。
終着した"♣"は、レーンの中、俯せに、ちからなく浮かんでいました。
すぐに、競泳水着を着た陸上の誰かが飛び込み、"♣"を抱えて仰向けにしました。
ボディが水から引き上げられる頃になって、他校の生徒が続々と、ゴールしていきます。
選手たちは、タイムを刻む時計を見てから――陸に持ち上げられ、応急手当を受けている"♣"を見ました。
しばらく、誰も水から、上がりませんでした。
遠目からでも、プールに血の赤い跡が見えたといいます。
"摂"氏はそれが、
「赤い太刀魚の様だ」
と思ったそうです。
不謹慎ですね。
しかし、このエピソードは、"摂"氏が
「誰かのために、何かをしてあげよう」
と思わなくなったきっかけでした。
それは他人には不謹慎でも、"摂"氏にとっては、大切な思い出なのでしょう。
"摂"氏はその後――"♣"の事故に起因する、会場に満ちた衝撃と狼狽が和らぐ前に――手元にあるストップウォッチを見ました。
時計は止まっていました。
そして、その数字は、当時の同競技の世界記録から優に一秒、少ない数字でした。
それを確認して、何かを記入してから、"摂"氏は時計をゼロに戻しました。
そして足早に、公衆電話に駆け寄りました。
これは公式試合ではなかったですし、事故発生の衝撃の大きさ故に、誰も"♣"のタイムに関心をもっていないことは明らかです。
結局、"♣"はその試合、棄権扱いとなっています。
"摂"氏が電話をかけて――ラテン語で――相手と話している間に、"♣"は担架と救急車に乗せられて、病院に向かったそうです。
翌日、"♣"は学校を休みました。
次の日、鼻に大きなガーゼを当て、腕に包帯を巻いた"♣"が学校へ来ました。
本人曰く、鼻と手首と指先を、骨折したそうです。
それでも、
「びっくりした――あの日すごい調子よくてさ、このままいけると思ってラストスパートかけたら突然、壁が前にあってそれにぶつかったんだよ――調子よすぎて、勢いあまったかな」
"♣"は、笑っていました。
少しも、痛々しく、ありませんでした。
結局、記録はありません――怪我だけがあります。
それでも、"♣"は満足そうでした。
水泳部のエースも、その傍で、笑っていました。
恨みも、嫉妬も、苛立ちも、焦燥感もありません。
その後、傷が治ってから、自分の目を疑ったコーチによって――試しに――"♣"はもう一度だけ試合に出る機会が与えられたということです。
――しかし、次からはまた、以前のように万年補欠となり、
そのまま卒業しました。
それから十数年経って、"摂"氏が、彼のセンセイであった"華"氏と仲違いして場を追い出された後、街を歩いていると偶然、"♣"を見かけたことがありました。
"♣"は、<教師>を職業としていました――それも、水泳の。
その学校は、誰も強豪校と、噂をしていません。
その学校は、世界で強豪たちと互角に戦う様な選手を輩出していません。
それでも、声をはりあげて、"♣"は生徒を熱心に指導しています。
"♣"は穏やかな顔です。
生徒たちも、穏やかな顔で――
わらっています。
勿論、どこの部活や集団にもある様に、<いじめ>や<嫉妬>等、どろどろしたモノが底に澱として、あるのでしょう。
それでも"摂"氏の険しい目には、それらは穏やかに写ったのです。
生徒に囲まれた"♣"は、ふ、と元・同級生であった人が、少し離れて立っていることに気付きました。
一度、驚いた顔をしてから、手を挙げて挨拶しました。
それを"摂"氏は無視しました。
そして、立ち去りました。
"摂"氏はちょうどその時、<感覚増強剤>なる薬品の研究を終え、それを世に出そうと計画していました。
誰がどの様なアドバイスをしても――"華"氏がどれだけ邪魔をしても――それを商品化して、
「世の為」
「人の為」
となるよう、依怙地になっている時期でした。
しかし、大人になった"♣"と、彼を慕う生徒たちを見た時、"摂"氏は<感覚増強剤>を公表するのを止めることにしたそうです。
だからこそ、いまでも<感覚増強剤>は、データの中でしか存在していない――流通していないのでしょう。
それに、それが社会に於いて必要とされているかどうかは、別問題。
――「水泳と悪魔」の了――