水泳と悪魔 その2 -あるぶす―
「サ、サルウェ」
"摂"氏は、どもりながら挨拶を返しました。
この時こそ、"摂"氏がはじめてラテン語を使って会話した瞬間でした。
"摂"氏は、ラテン語で会話をする機会など一生ないと思っていましたから、たいへん驚きました。
しかし、続いて――何を話せば良いのか、分かりません。
無言が続きます。
沈黙に耐え切れず、
「クイス チュ ホモ エス?」
と、"摂"氏は、相手が正体を先に名乗る様、促します。
「ホモ?」
相手は溜息をつき、否定しました。
どうやら
「人間ではない」
ようです。
人間ではないその声は低く、チョコレートの様に甘い、大人のものでした。
"摂"氏は、続けて何を言えばいいのか、分りません。
"摂"氏はやっと、
「今日はいい天気――」
と、母国語でいいました――相手は黙っています。すると、
「キド チビ ウィース?」
つまり、
「何の用?」
と問いかけてきます。
「えー」
であるとか、
「あー」
等といった発声で"摂"氏は誤魔化そうとしましたが、いくら時間を稼いでも、最初から無い<用事>など、突発的に作り出すことはできません。
すると、
「トレス オプタシオーネ チビ ド」
とのこと。
「キド(何ぃ)!?」
どうやら――受話器の受け口、まるい蜂の巣から滲み出てくる声は、
「何でも好きな願いを三つ、叶えてくれる」
そうです。
"摂"氏は状況を把握しかね、混乱していました。
すると突然、
「面倒くさいなぁ」
と相手が、小馬鹿にした調子で、発言しました。
「これだから人間は」
"摂"氏は、通話相手が"摂"氏の母国語を話せるのだ、と思いました。
しかし、そうではありません。
相手は依然として、ラテン語で話しています。
しかし、何故か"摂"氏は、突然ラテン語が理解できるようになったのです――そして、頭の中から、ラテン語でなんと言えばいいのか、語彙が溢れてくるのです。
――この時はまだ、"摂"氏のラテン語は未熟であったのに。
何はともあれ、"摂"氏から気後れがなくなりました。
「三つの願い?」
と"摂"氏は、ラテン語で流暢に聞きかえします。
「だからそう言った――愚かな人間は、いつもわたしから、それを求めている」
どうも"摂"氏は、天使か悪魔か、小人か妖精か、またはランプの魔人を、その電話口に呼び出したようです。
このエピソードの後も、何度かこの相手と電話で話す機会があるのですが、"摂"氏は相手が何者か、一切尋ねませんでした――だから、相手が何者か、結局分かりません。
"摂"氏曰く、
「相手に、『あなたは悪魔ですか?』と訊くなんて、大変失礼だ」
とのこと。
"それ"は飽くまでも、天使でも小人でも妖精でもランプの魔人でもない<対象>です。
しかし、名前があります――"アルブス"というのが、それです。
「願いは何だ?」
と"アルブス"氏は繰り返しました。
「何故わたしに?」
と"摂"氏はラテン語で尋ねます。
「何故わたしだけ?―-他にも、それを必要としているヒトはいる」
すると、
「『幸運は、勇敢な者を助ける』」
「テレンティウスですね?」
"アルブス"氏は、驚きの声を上げました。
「馬鹿の癖に生意気な」
という意味なのでしょう。
問題は――"摂"氏には、叶えてほしい願いが無いということです。
その時――何故か――ふ、と頭の中に、同級生"♣"の顔が浮かびました。
悲しげな笑顔――その横顔。
だから、"摂"氏は願いました――"♣"の泳ぎが速くなるように、と。
「どれくらい?」
と"アルブス"氏。
「最速」
と"摂"氏。
「最速?――魚より?」
と"アルブス"氏。
「違う違う。人間の中で、最も速く」
「分かった」
"アルブス"氏は続けます。
「次の願いは?」
その時、"摂"氏の頭に、水泳部のエースの後姿――そして夕陽――の映像が浮かびました。
連想というものは、ひとたび始まれば、後はスムーズな様です。
――それを邪魔するモノは、論理と呼ばれるのでしょう。
「水泳部のエースが、試合の日だけ体調が悪くなるようになってほしい」
と"摂"氏が願うと、
「エースとは誰だ?」
"摂"氏は名前を告げました。
「どれくらい?」
「何がですか?」
「体調だよ――どれくらい悪く?」
「(症状が)たいへん重くて、動けなくなるくらいだが、次の日にはすぐに治る程度」
「わかった。ウィデリケッ――その人物が、○○月○○日だけ、体調が悪くなればいいのだな?」
「お願いですから、痛くさせないでください――重症になって、後遺症が残る様なこともやめてください。ただ試合に出られない程度でいいのです」
「わかった。三つ目は?」
"摂"氏は息を吸い込みました。
もう三つ目は、二つ目を願っている間に、思いついていたのです。
「わたしのラテン語能力を、あなたに会う前のレベルに、戻してほしい」
"アルブス"氏は、怪訝そうに、何か音を出しました。そして、
「何故?――ラテン語が流暢なら、便利だろう」
「わたしは自分が努力することで、ラテン語が出来るようになりたいのです。わたしは自分の力で、あなたと澱みなく話せるようになりたいのです」
「わかった――この馬鹿野郎」
続いて、"アルブス"氏は言います。
「フィニス――ワレ」
そして、電話が切れました。
"摂"氏は、
「<我>って――割れて?――どういう意味だっけ?」
そして、
「ワレ」
の意味を思い出すと、母国語でいいました。
「さよなら」
そして、受話器を親機に戻します。