『実力』と、それを包む邸宅 その5 ―さ ね まんぺしぇ ぱ でくりーる―
バック・ドアを抜けると、風が吹き抜けました。
皮膚を撫でるというより、細胞と細胞の間を縫っていく様な印象でした。
風が出てきたことに気付き――
<<夜にかけて、さらに吹けばいい――もしそれが、灼熱を和らげることに効果的であるなら>>
と、"摂"氏は望みます
――叶うことなど、無いのに。
そしてその時、"ジュネス"邸の玄関スペースにはクーラーが効いていなかったことに、"摂"氏は気付きました。
"ジュネス"邸裏庭に、風はありますが、音はしません。
そして表で感じた暑さと同じモノがあり、"摂"氏は――不快に思いませんでした。
それでも"ジュネス"は、手を扇にして、舌を出しています。
それだけでなく、
「あっちーな?」
と、当たり前のことを当たり前に表現します。
その時、"摂"氏は――何故か――暑さにも関わらず、汗が出ていないことに気がつきました
――できったのか――身体が慣れたのか?
そして、耳が静寂に慣れていることにも、気がつきました。
ベートーベン『月光』第三楽章が――
聞こえて来ないのです。
そして、もうだいぶ前――正面玄関ドアを抜けて"ジュネス"に挨拶をした時――から既に、聞こえていなかっただろうことに、気がつきました。
<<あのピアノは、何処から聞こえてきたのだろう?>>
目の前に、プールが――
しかし、プールがあるからといって、視覚的イメージを媒体として内なる<清涼感>を起こす役には、すこしも立たなかった様子です。
裏庭、正面から左手に掛けて長く伸びるプールは――幅は10m位あるでしょうか?――夜の中、<沼>の様に、澱んで見えましたから。
勿論、汚れてはいないのでしょう。
"ジュネス"家は"館"(やかた)に住む大金持ちですから、プールに塩素を使うだけの余裕があるのでしょう。
それでもその日、汗だくのヒトを飛び込む様に誘うファタールな魅力はありませんでした
――すくなくとも、"摂"氏には
――そして、"ジュネス"にも。
古びていないのに、まるで、流しの演歌歌手の様なヤサグレ感が、水の上に、浮いていました。
プールサイドには、お金持ちがリゾート地の浜辺に面したホテルで寝そべる、あの折り畳み式ではない――座る部分に生地が張ってある――汗を吸い取りそうな――リクライニングシートが平行に、いくつも並んでいます。
しかし、誰もいない空の椅子には、侘しさが
――ありませんでした。
――寂滅とも、ほど遠し。
恐らく、リクライニングシートというモノは、座るヒトが<誰であるか>は問題ではなく、それそのものに気品があり、故に誰であろうと座るヒト皆に優雅さ、という付加価値を与えるものなのでしょう
――勿論、坐る部分がスカスカビニールテープで出来ていて、サイドテーブルにはシャンパンではなく、ビールが乗っていたら、話は別です。
そんな裏庭には光がなく、全てはくすんで見えました
――裏庭には、電燈が無ければ、ライトもないのですから
――少なくとも、点いていないのですから
――公道にも、面していないのですから。
その時、"摂"氏は思う所があり、空を見上げました。
空には大きすぎる月がありました。
満点の輝きでした。
しかし、目を落とすと、月の光は、落ちてはいませんでした
――水の湛えられた暗いプールの表面には。
プールは波立ってさえ見えず――絵画や文学に登場するあの、<水面の朧>を描いてはいませんでした。
残念でした。
そして、そんな暗夜な地上で、"摂"氏は気がつきました――プールサイドの地面にはタイルが敷き詰められているのですが、それは、<大理石>ではないのだと。
タイルは安物ではないのでしょうが、"館"の礎程度の高さを持つ木製階段を境に、はっきりと質が分けられて、ありました
――色は、同じでしたが。
何故か、自分の物でもないのに、"摂"氏は再び、残念に思いました。
"摂"氏は視点を転じます。
"摂"氏が立つ、正面ポーチと同じ様に床が御影石だろう"館"(やかた)裏のポーチ部――しかし、表と異なり、屋根がない――にはバーベキュー用のグリルと、ベンチがあります。
一目で、高級素材と高級デザインを使っていることが分かるベンチでした
――もう分かったよ。とにかく、すごい高そうな家具とかがある家なんでしょ?――"ジュネス"邸は。
「その通りです――でも、描写を止めませんよ」
「あっち」
と"ジュネス"が、裏庭の右手を指しました。
そこには、小屋があります。
三角屋根のそれは、母屋とは繋がっていませんでした。
離れていながら
「ぽつん」
と、孤高に建って――いませんでした。
それは角ばった建物で――属性は、母屋とは正反対です。
しかし、饅頭の様なラインを見せる母屋とは異なり、<毅然>とはしていました。
性格の悪いヒトなら、小屋のラインを
「痩せ我慢」
と評するのでしょうね。
何はともあれ、そこにも、光はありませんでした。
二人は、そこへ向かって、歩き始めていました。
「あそこはゲス――<客間>になっているんだ。昔はあの場所に木がたくさん植えられていたらしいんだけど、オレのソフ(祖父)が死んでから、ウチの親が全部切って、あれを建てたんだよ」
――そう、"ジュネス"。
そして、二人は小屋に訪れました。
小屋の外壁は、白でした。
"ジュネス"は鍵をドアノブに挿し、くるり、と廻して――引き抜いて――そして
「どうぞ」
――ふ、と"摂"氏には、海のにおいが。




