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温度  作者: 折鋸倫太郎
『実力』と、それを包む邸宅
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『実力』と、それを包む邸宅 その2 ―"ジュネス"邸―

 その週末は、極めて暑いものでした。

 ――熱射病に苦しめられたヒトが、ニュースとして取り上げられる程。


 週末初日の日中は用事があった為に、"摂"氏は、陽が落ちてからクラスメイトである"ジュネス"の家を訪問することにしていましたが、その大して大事でもなかった用事を終える頃――空が色を失い――そして時間の経過と共に、失ってしまった色を惜しむかのように白が濃さを増し――そして漸次的、黒――その完成――その後に、既に<約束>として設定されてしまったが故に棄却することが許されない目的――その達成の為――"摂"氏がひとつ、ふたつと照りはじめた星の下、街を歩き始めてもまだ、既に陽の遠出によって宥められたハズだと多くの人間が考える昼の<残酷>、その名残が多分に射干玉の中を漂い、風上から風下へ絶え間なく、規則的に流れながらも――それは密閉された空間の中で巡回しているに過ぎない――そんな風に思わせる、暑い日のことでした。

 「そう」

 ――風がその背に運ぶモノは、ヒトにとっての清涼や息抜きではなく――風は熱を奪い去るという、人間に便宜を図る仕事をしている訳でもなく――そこにあり続ける暑さを無慈悲に更新させる、ただその為だけに絶え間なくやってくる――そして

 「行く」

 ――そんな暑い日。

 あまりにも暑くて、街には<臭い>がなく――ただ湿気だけが、熱気と共に鼻腔に隙間なく詰まり、常に――街から吹き出して一定量から減少することのないだろう、嗅ぐと<ドブ>を"摂"氏に連想させる、あの強烈なニオイすら排除して無いことにしてしまう――そんな暑い日のことでした。

 運動と名のつく活動とは程遠い生活をしている"摂"氏は汗をかくことがあまりなかったのですが、それでも、ハンカチは――二度――三度と使用しない内に、汗の染みが色濃く、斑に付く程――そんな暑さでした。

 "摂"氏が歩を進めていたその間、暑さは一日の気温を折れ線グラフで示した時に最高点になかっただけで――そして折れ幅も、最高点から急激な落下を示すことはない――そんな<よ>の寝苦しさは、どれほど未来予想が外れることで有名な占い師でも的中させることが可能な程、高確率なものとして約束されている――否――宿命づけられている――そんな暑い日のことでした。

 そして――よの名残とは程遠く――<よの名残>なる時間は、無邪気な<熟睡>によって<無い>こととしていた――そして、それはそれで問題がなかった――情熱に満ちていたあの頃。

 ――目覚め=明るい朝 であることを信じていたとき。

 同じ暑い日でも、そんな特別な意味を持った、

 「暑い日」

 のことだったのです。


 大都会にも、閑静な場所というものがあります。

 そこに、"ジュネス"の家はありました。

 ――<暑さ>は平等の理念が徹底されているのか、お金持ちの"ジュネス"の家に近づくからといって、急激にクーラーの様な快適さを約束する様なことはありません。

 ――そして<暑さ>には、賄賂も効かない様です。


 駅から少し離れていた為、"摂"氏はタクシーを利用して、"ジュネス"家に向かいました。


 タクシーの中は、快適だったそうです。

 しかし、タクシーの運転手は、快適ではなかったでしょう。

 "摂"氏は、冷房の十分に効いた車内で、忘れかけていたシェイクスピア・ソネット第59番を暗唱して、酸素を奪っていたでしょうから。


 それでも――たとえ苦痛しかない様に思われる旅路でも――終わりがあるものです。

 「ここで?」

 と、黄色ではないタクシーのドライバーに口頭で確認され、

 「そうです」

 と答えながらも、本当にそうであるのか疑問に思いながら、運賃を支払い、"摂"氏は下車しました。

 "摂"氏には、バックミラー越しに映るドライバーの目が印象的だったそうです。

 ――しかし、心理分析をしませんでした。


 "摂"氏はひとり、"ジュネス"の家を、見上げました。

 ――タクシーが去っていきます。

 ――躊躇なく。

 ――デート終わりの恋人が、去りかけた相手の後姿を目で追い、そしてそのヒトが振り返ることがないことを知り、家路へとひとり、歩きはじめる時に纏わりつく、あの名残さえなく。

 "摂"氏は再び、見上げました。

 目の前にあるそれは、<一軒家>でした。

 ――しかし、その様な形容は、相応しくない<家>でした。

 ――まるで、スイカを<キュウリ>と呼ぶ様なもの。

 <館>(やかた)という表現が、より適切でしょう。

 だからといって、中世ヨーロッパやアジアの城、豪邸――幽霊が出るゴシックな洋館――といった趣は、一切ありません。

 それは<館>ですが、建って五十年も経っていない位の新しさを示し――さらに、頻繁に修復の手が入っているだろうことが一目瞭然な外壁の艶――庭――それ故に、歴史的建造物としての<館>のイメージとは、大きく異なる家でした。

 しかし、どれだけそれが比較的に新しく、見目良いモノであろうとも、その館を最初に見た"摂"氏は、<異様さ>に似たものを、内側で感じていました。

 それは童話にて、森に迷い込んだ旅人が妖怪や悪人の住む小屋に辿りついた時に第一印象として感じるものに、極めてよく似ていたのではないか、と推測します。

 ――"摂"氏は、「異様」という、意味の領域が明確に設定されない言葉を使用することを避けていましたので認めないでしょうが、残されたデータから推測するに、その印象は<異様なカンジ>という表現に最も近い様に思われます。


 勿論、この館――"ジュネス"の実家――は、深遠なる森の中に、ぽつり、と立つ貴族の館ではなく――あのロマンス小説におけるクリシェな設定――荒野や海辺の片隅に、ぼろり、と崩れかかって建っている――そんな家でさえなく――両隣があり――

 「どちらも、窓にはカーテンの後ろ、電気がついて、淡い暖色が枠の中にある点は明らかなので、きっと誰かが生活しているのでしょう」

 ――そして緊急時には助けを求めて歩けば、遠くないところにコンビニかデイリーストアが見つかる程度の距離にありました。

 現代的にティピカルな場所――ティピカルな設定。

 それでも、<異様>としか言いようがないのです。

 「分かりません」

 ――"摂"氏は大金持ちとの交際が頻繁ではなかった――それゆえ感じた<違和感>かもしれません。それでも、これからこの"ジュネス"の館で"摂"氏が経験することを考えれば、それが<異様さ>と表現しても、誤りではないと信じます。

 

 佇んでいる間に、"摂"氏は自分を取戻し、それから、あることに気付きました。

 そこは都会の中にありながら、音がしない処なのだと。

 ――車の行き交う音がありません。

 ――電車も。

 ――ヒトの声さえ、しません。


 そんな沈黙の中――暑さと涼しさの間を縫う様にして――かすかに楽器の音がした気がしました。

 耳を澄まします。

 やはり、何処かから聞こえてくる様です。

 ――ピアノ。

 佇みを続けていると、ベートーベン『月光』の第三楽章であることが判明しました。

 第一楽章は未熟な腕前の者でも練習すれば簡単に弾ける様になりますが、第三はそうではない――"摂"氏は自分の実力を考慮し、吟味した上で、第三の楽譜を手に入れることは断念しましたから――その時、"摂"氏の胸に、強く印象に残ったそうです。

 その運指は、弾き手の熟練を、式なく、証明していた――とのこと。

 そして"摂"氏には、短時間に素早く盛り上がって同じ和音を二度、強く、繰り返し弾いて区切りを表す部分が何故か、

 「ヴィエイエス」

 と聞こえたとのことです。

 ――ピアノが言葉を発するなど、絶対に無いにも関わらず。



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