水泳と悪魔 その1
"摂"氏には、同級生がいました。
性格の良い――明るい――日によく焼けて、まっ黒な同級生。
同級生でしたが、友達ではありませんでした。
その名前を、仮に"♣" としましょう。
"♣"は、水泳選手でした。
しかし、学校でのスポーツ活動において、万年補欠でした。
学校にはエースがいて、その人物がいる限り、"♣"が実力を発揮するために必要な競技レーンは用意されないのです。
"♣"はそれまで一度として、大会に出ることをコーチに許されたことがありませんでした――が――少なくとも――仲間を傍らで応援するのに、手を抜くことはありませんでした。
ある時、水泳という競技において、他校と対抗試合が行われる、という話が、教室でありました。
「みんな応援に来てよ」
と"♣"が発言した時、"摂"氏は「みんな」という言葉に、自分のことが含まれていないと思いました。
その後、何人か集団でかたまって雑談をしている時、"♣"は、クラスでも胸部が突出していることで陰ながら話題になっていた生徒を、
「試合に来てよ――暇だったら」
と直接、誘いました。
紅潮していました。
「どうしようかな」
と、性を過剰に表出させた生徒が、気を持たせました。
「考えとく」
それから、その生徒は、水泳部のエースに、視線を投げかけました。
これで、この話は終わりだろう、と"摂"氏は予想しました。
その時、"♣"と目が会いました。
すると、
「お前も来てよ――暇だったら」
"摂"氏は眉を顰めました。
「あなたが、試合に出るのですか?」
しばし無言の後、"摂"氏は、相手にとって不快になる発言をしてしまったと反省し、謝罪しました。
謝罪は受け入れられました。
それまで"摂"氏は、<水泳>という競技について、理解することは出来ましたが、自分が実際、進んでそれを行おうとは微塵も思いませんでした。
泳ぐ、という行為は、水の中に沈むこと――並びに窒息すること――それらを防ぐこと。
とすると、"摂"氏にはその技術を進展させて大勢の中、速さを競わなければならない理由が、ピンとこなかったのです――"摂"氏は教育と努力によって最低限、泳ぎの技法をマスターしていました――それに、何より、溺れる可能性のある状況にわざわざ自分を置かなければならない必然性が見えませんでした。
それでも、他人が<泳ぐ>ということに必死になっていたり――活動を通じて他の生徒とコミュニケーションを取っていたりする――ことを、馬鹿にする様なことはありませんでした。
「それは、彼らにとっては、必要なことなのだろう」
それだけでした。
その後、偶然、二人きりになった時がありました。
"摂"氏は、"♣"に尋ねました。
「あなたは、試合に出ることを希望されているのですか?」
「うん」と"♣"。
「ところで、試合に出られるのならば、負けてもいいと思っているので?」
「そりゃ、勝てれば勝ちたいよ」
「つまり、あなたは勝ちたいんですね?」
「そう」
「では、勝てることが出来るのなら、試合に出なくてもいい」
「そうじゃなくて…」
「ああ愚問でした。試合に出なければ、勝ちも負けもないですね」
"♣"は笑いました――かなしそうに。
その視線の先には、水泳部のエースの後姿がありました。
自信満々で――オレンジの夕陽の下――沈みかけた太陽と同じ位、光り輝いて見えました。
"♣"と別れてから"摂"氏は、いつもの様に、"華"氏の部屋を訪ねました。
センセイの部屋には、外国語で書かれた古い本がたくさん並んでいます。
"摂"氏は、少しだけ外国語が分かります。
ずっと背表紙を指で追っていくと、
『召喚の手引き』
という、ラテン語の本がありました。
「キミはそんなものに興味があるのかね?」と"華"氏。
「勉強に不必要なものは無いと思います」と"摂"氏。
「キケロを読みなさい――基本だから」
「はい」
「そんなもの古すぎる――暇つぶしにはいいのだろうが――そんなくだらないもの、いまの時代にあわないのだから、もっと生産的な本を読みなさい――時間の無駄だ」
アドバイスを受け、"摂"氏は、キケロと一緒に――生産的であると"華"氏がいう多くのラテン語著作と混ぜて――その本を借りていきました。
――勤勉な"摂"氏にも、暇はありましたから。
帰宅し、宿題を終えてから、辞書を片手に、『召喚の手引き』という本を読み始めました。
それは、セレブのディナーパーティーにお呼ばれした時に庶民が順守しなければならないマナーを解説した本――ではありませんでした。
それは、火の起こし方だったり、獣を呼ぶ方法など、生活に必要なことを記した書物でした。
それは――現代の様に――文明の利器が発達した世の中では、極めて原始的に見える解説でした。
"摂"氏には、奇妙に思われました。
――勿論、タイトルが奇妙に思われた訳ではありません。
「火を起こすだけなら、単に火打ち石を打ったり、木をこすったりすればいい」
「獣を呼ぶなら、口笛か、ラッパを吹けばいい」
しかし、『召喚の手引き』には――不思議なことに――目的を達成する為に必要な単純作業以外にも、しなければならない規則を記載した行がすごく多いのです。
例えば、火を起こすだけでも、
「○○と言わなければならない」
起こした後も、
「指定の品を火にくべながら、指定の文句○○を正確に言わなければならない」
という指示が、事細かに付け足されています。
それは、歴史書と云うより、まるでレシピ本でした。
指示通り、やってみました。
呪文と共に火が起こされ、必要なものを火に与えます。
火は燃え――煙が出――
「ぱちぱち」
という音がずっと空間に木霊しています。
しかし、何も起こりません。
すると、隣りの部屋で、ビープ音がしました。
行くと、"摂"氏の姉が置いていた、ポケベルが鳴っていました。
ちょうど、流行っている時代でした。
当時、"摂"氏は勿論ポケベルなど、
「必要ないから」
と所有しませんでしたし、所望することもありませんでした。
だからといって、多くのヒトが持っているというそれを、軽蔑することもありません。
見ると、画面には数字の羅列があります。
ポケベルは鳴り続けます。
その時、
「あ、火の用心」
と、残してきた火の元へ駆けつけます。
火はただ、小さく燃えています。
何も起こりません。
"摂"氏は、火を消しました。
すると、ポケベルも鳴るのを止めました。
移動して、ポケベルを再び見ると、先程と同じ数字の羅列が依然としてあります。
"摂"氏は、ポケベル記号解読の素養がありましたから、吟味してみます。
しかし、何か具体的な意味をあらわしているようには見えません。
「おはよう」
であるとか、
「(待ち合わせに)遅れるね」
といった意味の、誰もが使う定型を、数字は成していないのです。
その時、家の固定電話が鳴りました。
それは、姉でした。
「お前、ポケベル触ってねぇだろうな」
下品な話し方だ、という感想を押しとどめ、"摂"氏は事実を告げました。
姉は信じていない様子でした。
彼女のためにすべきこと――つまり家事――を命令すると、電話を一方的に切りました。
画一的な信号が耳に届き、電話をフックに乗せる時"摂"氏は、ふ、と思いました。
「あの数字の羅列は電話番号じゃないか?」
それは、直感ではなく、単なる連想でした。
ただ、すぐに、かけてみます。
「もしもし?」
と受話器越しに、声がしました。
しかし、"摂"氏は、何と返せばよいのか、分かりませんでした。
それは、ラテン語でしたから。