現実的魔法使い その3 ――ぽえみぃ――「けっ」――
社会には、そこにいるだけで他人に<息苦しい思い>をさせるヒトがいるものです。
特に何かをする訳ではない――攻撃など、もってのほか――ただそこにいるだけなのに、他人にきまりの悪い思いをさせて、同席する者を場から退場する様、促すのです。
それも、無言で。
ちょうど"摂"氏がシェイクスピアを熟読している頃のことでした。
ちょうど次の週からテスト期間に入る時でした。
ちょうど教師と生徒がテストとは関係のない話――それをすることが許される、最後の時期でした。
"摂"氏と"華"氏は、部屋で学問的議論をしていました。
白熱していました。
――<はっこう>は、していませんでした。
最後になんとか、"華"氏は教え子を説得することができました。
"摂"氏がまだ勉強をしていない無知――または未知――の分野へと、"華"氏は議論を誘ったのです。
"摂"氏は
「わかりました。わたしはまだ、そのコトを詳しく知りませんので、調べたら後日、細かい部分を突き詰めましょう――センセイ」
と矛を収めました。
"華"氏は面目を保ち、
ほ
としました。
――それでも、"華"氏には もやもや が残ります。
"華"氏は、相手が一時的に黙したことを確認することで
「勝った!――あ、もしかしてお前、涙目?」
などと相手の言い分を聞かずに己の勝利を勝手に結論づけるほど、短絡的ではなかったのです。
議論を終えて、ふたりは片づけをはじめます。
その間、"摂"氏は何か、口を動かしています。
――声は、漏れません。
終わった後、
「それでは」
と
くるり
と
"摂"氏は背を向けました。
躊躇のない背を見て、"華"氏はなにか、言い忘れた気がします。
そして
「おい」
と、"摂"氏の肩を掴もう――と手をのばしました。
――言葉だけでは、立ち去りつつある"摂"氏を止められない様な気がしたのでしょう。
"華"氏は、息苦しさを感じる――
そして、指先には――障害がある
――その様に、思われるのです。
"華"氏の指は、空を掴んだ訳ではありません――あたかも、見えない壁に押しとどめられたように、指はまっすぐ宙に浮かんだまま、静止していました。
その壁の先を、指は進めないのです。
どうしても、その肩を、掴むことができないのです。
進むことに、恐怖を覚えさせるのです。
実際に、二人の間に壁があったわけではありません――少なくとも、"摂"氏にとっては。
しかし、センセイには目の前、大きく――そして――厚い壁が立ちはだかっている様に思われて仕方ありませんでした。
そして、その壁は、<透明>でした。
伸びた手が止まっている――
"摂"氏の去りかけた背中も、止まりました。
"摂"氏はちょうど、斜め前に設置された鏡を反射的に見て――背後――自分を呼びとめようとしている“華"氏を目撃したのです。
それはちょうど、"摂"氏が
「太陽」
と口ずさんだ時でした。
ふりかえり、
「何か?」
と"摂"氏は母国語で尋ねました。
センセイは、壁に邪魔され、宙に浮いていた空手を握り、腕を落としました。
「いや、なんでもない――気をつけて帰れよ」
それしか、言うことが、できませんでした。
ちょうどその時期、
「シェイクスピアがよくわからない」
ために――手始めに――シェイクスピアのソネットを完璧に覚えようと、"摂"氏は決意していました。
覚えれば、覚えないより、マシだと思っていましたから。
よって、"摂"氏は所構わず、ソネットを暗唱していました。
――もちろん、小声で。
"摂"氏にとって、できて当たり前でした――ソネット程度なら、英語を母国語とするヒトなら大人から子供まで、誰でも簡単に暗唱出来るものなのだそうですから。
「そのヒトたちと話すために必要な、最低限な基礎なんだ――出来なきゃオカシイ」
と思い込んでいましたから。
つぶやいている間、"摂"氏の周囲からヒトは、一人、二人と消えたものです。
「気味が悪い」
――はその理由として、十分なのでしょう。
ずっと、"摂"氏は苦労していました。
一度覚えます――しかし、すぐに細部を忘れてしまうのです。
だから、暗唱しなおします。
忘れる度に、何度も――何度も。
そして、忘れていないか、確認のために何度も――何度も。
"華"氏との別れ際、"摂"氏はシェイクスピアのソネット第59番を暗唱していました。
この時は――まだ、この『ソネット第59番』に<バリア>の効果があるとは、"摂"氏は気付いていませんでした。
因みに、この<バリア>は、バースを唱える人間の周囲から<酸素を奪う>ことで発生する代物です。
[――バリアが<物>だと仮定した場合の話です]
ソネットを暗唱すると――ある空間内部にある酸素は、"摂"氏のそばに集まり――密になるのです。
それは、すごく強度のある――簡単には砕くことの難しい――壁となるのです。
だからこそ、その周囲にいるヒトは息苦しくなり、結果的に"摂"氏から離れざるを得なくなりますし―― "華"氏はその身体に触れられない様、思わされるのです。
別言すれば、<オーラ>というのでしょう。
別言すれば、防御魔法といえるでしょう。
部屋から出て行った"摂"氏の響かせる廊下の足音が途絶えた後、"華"氏は再び、
ほ
と息をつきます。
そして、気づくのです。
それまで<焦り>であったものが、小さな小さな<怒り>に化学変化したことを。




