第167話 トラウマの向こう側
この国体代表戦の中でも屈指の天才といわれる高橋秀則は、先天的に手に入れた才能が山程ある。
優れた空間認知能力、物を扱う上での高い器用さ、長けた身体能力、等々。
それら先天的才能以外に、彼には後天的才能を培える恵まれた環境がいくつか存在した。
その1つは、血縁関係にあった。
秀則の父の一番上の姉に当たる叔母。その息子の名は、帯刀灼と言う。
秀則の従兄弟に当たる帯刀灼は、秀則より10歳以上年上で、幼い頃からサッカーが大好きな少年だった。
高橋の近所に住んでいた彼は、年の離れた従兄弟である秀則が可愛くて仕方なく、部活を終えると、よく面倒を見てくれていた。
帯刀愛用のサッカーボールを気に入った赤ん坊の高橋秀則は、あやしてあげたい帯刀の気持ちとは裏腹に、彼がくるたびサッカーボールと戯れていた。
帯刀灼は、とかく並外れた技術やずば抜けた身体能力は無かった。しかし高い空間認知能力を有し、周囲の誰よりも真面目だった帯刀は、その高い得点能力と精神を買われ、秀則が小学校低学年の頃、フォワードとしてプロサッカー選手になる。
若手を育成しようというクラブ方針と、チームメイトからの信頼をすぐに得た帯刀灼は、プロ3年目の時、4試合連続ゴールを記録した。
これが当時の日本代表監督の目に留まり、帯刀は親善試合ながら初めて日本代表に選出される。
周囲は大いに喜んだ。一番喜んだのは高橋秀則。
小さい頃から可愛がってくれた灼のことを「アラ兄ちゃん」と呼んで大いに慕っていた彼は、帯刀が代表選出した際、「やったー!」と大声で叫んだ。
帯刀は、自身の代表選出戦のチケットを、従兄弟の秀則にプレゼントする。
高橋秀則は大いに喜んだ。
しかし、試合当日の朝。高橋秀則は持病の喘息の症状が悪化し、緊急入院をしてしまう。
夕方からの試合を意地でも観ようと焦る気持ちが、秀則少年の回復を悪化させた。
結局、喘息の症状が落ち着く事はなく、その日の代表戦はスタンドでは無く、病棟のテレビ観戦に留まってしまう。
秀則は悔しさから、涙が枯れるまで泣いた。
彼の悲壮が伝わったのかはわからないが、帯刀は後半から出場するも、この試合で見せ場を作れずに試合は終了してしまう。
それ以降、帯刀が代表に呼ばれることは無くなった。
高橋秀則はこの頃から、所属先のサッカースクールにてランニングを多くするようになった。
課題の体力強化のためか、2度と病棟からのテレビ観戦をしたく無いからかは本人にしかわからないが、とにかく走り込みをするようになった。
体力がつきだした頃から、高橋秀則は先天的なサッカーの才能を発揮し、地元でも名が知られるようになっていく。
この頃の帯刀灼との会話を、高橋秀則は今でも鮮明に覚えている。
「また呼ばれなかったわ、日本代表。こりゃ俺がまた呼ばれる前に、秀チャンが先に呼ばれちまうかもな〜。」
「そんなことないよ。だって、アラ兄ちゃんは、俺の目標なんだもん!」
「ハハハ!ありがとな。」
「ねぇ、アラ兄ちゃん?」
「なんだ?」
「アラ兄ちゃんが目標にしてる選手って誰なの?」
「ん?俺の?」
「そう。兄ちゃんの目標にしてる人。」
「うーーーん・・・。強いて言うなら・・・。」
「誰だれ??」
「その日の【MVP】。」
「え!?」
「目標にしてる人がいたとして、その人をもし超えることが出来ちゃったら、俺はきっと満足しちゃうと思う。逆に超えられないって悟ったら、俺は諦めると思う。だから、その試合試合で最高だった人を目標にしたら、俺はずーっと頑張って居られると思うんだ。今日の試合のこの人の凄い所を目指そう。次の試合では、また違うこの人の凄い所を目指そうってね。まぁ、コロコロ変わるのがいけないことかも知れないけど、俺はずーっとそう考えてサッカーやって来た。だから俺は、その日のMVPを目標にし続けるって決めてる。」
「そっか!」
秀則にとってこれは予想外の返事だったが、むしろ感化させてくれる言葉になった。
『その試合のMVPをずーっと・・・目標かぁ。それもカッコいいなぁ〜』と。
最後に帯刀は言う。
「でも秀チャン。俺のことを目標にしてくれて、ありがとな。俺もずーっとお前の目標になれるように、次のステップ、踏み出してみるわ。」
「次のすてっぷ?」
この会話を経た数日後、帯刀灼は、ドイツ2部のクラブへの移籍を発表した。
最近では毎年のように発表されるが、当時はドイツの2部リーグは日本人には未知数で、応援する声も懐疑的な声も聞かれていた。
それでも高橋秀則は、帯刀本人の「次のステップ」という言葉を信じ、大いに喜んだ。
帯刀灼は渡独してすぐ、元代表という肩書きと持ち前のコミュニケーション能力の高さを発揮して、チームの信頼を勝ち取った。
開幕3試合目から、スタメン出場も果たすようになる。
高橋秀則の11歳の誕生日。家に一通の封筒が届いた。
大好きなアラ兄ちゃんである、帯刀から送られたものだった。
中身はチケットと航空券と宿泊券。
チケットは、開幕から10試合目に行われる帯刀のクラブの観戦チケットだった。
秀則少年にとってこれは、人生最高の誕生日プレゼントになる。
家族3人で初めて国際線航空に乗る日の朝、高橋秀則は以前の二の前に成らぬようにと、喘息予防薬を普段の2倍吸入しようとして両親から怒られたことを、祖父母は今も忘れない。
ドイツに到着した高橋秀則は、歴史的建造物やらに一切の興味を持たずに、家族を帯刀のクラブのサポーターグッズ販売店に向かわせた。
大好きな従兄弟の名前がローマ字で書かれたユニフォームと色紙とサインペンを、父に買って貰って喜ぶ秀則。
翌日の試合当日は、全てが鮮やかに見えた。
家族で行ったそのスタジアムは、長い歴史を感じさせる風貌で、武者震いが止まらない。
観客席に着くと、近隣席のドイツ人たちが「タテワーキ!」と弄ってくれたのも、秀則には嬉しかった。
試合のボルテージが最高潮に達したのは、開始から10分のこと。
なんと、この日もスタメン出場だった帯刀が、先制ゴールを決めたのである。
高らかなガッツポーズのゴールパフォーマンスを見せる帯刀。
拳の先にいた高橋秀則は、「うぉーーーー!」と地元サポーター同様、歓喜の最高潮に達する。
しかし残念なことに、試合が盛り上がったのは、ここから数分間だけだった。
帯刀がゴールを決めてから5分後、相手チームに同点ゴールを決められたのである。
静まり返るスタジアム。
しかもゴールを決めたのは、当時まだ10代の新鋭選手。
高橋秀則は声が枯れるまで声援を送ったが、結局その新鋭選手の2得点1アシストの活躍により、帯刀のクラブは1ー3の敗戦を喫した。
試合終了の瞬間、観客席を見渡す高橋秀則。
項垂れる地元サポーターたちの表情の暗さは、少年に恐怖すら感じさせた。
秀則はこの日、日本から遠く離れたドイツの地で、勝利というものの重さを、深く、深く知ったのである。
試合が終わってすぐ、高橋秀則は両親と共に、スタジアムの外に赴いた。チームバスが到着するゲートに。
敗戦を喫しながらも、この日見事に得点を挙げた、従兄弟からサインを貰うために。
大勢のサポーターが集まっていたが、皆、秀則少年の存在に気付くと、道を空けてくれた。観客席同様、「タテワーキ」と言いながら。
バスに乗り込もうと、チームメイトがスタジアムから出てくる。
帯刀も見えた。
しかし、高橋秀則は驚く。
サポーターのほとんどが、帯刀の元へ集まろうとしない。
代わりに、同時に出てきた相手チームの方へと、サポーターは雪崩れ込む。
サポーター達の殆どは、この日2得点1アシストを決めた、若手選手に握手やサインを求めて行ったのである。
再び認識した、勝利の重さ。
サッカーの本場では、得点を決めた日本人になど目もくれず、勝者へと、ヒーローへと人は集うことを、高橋秀則は身を持って知った。
その直後、高橋秀則の両親は驚いた。
秀則が従兄弟の帯刀を軽く通り過ぎ、相手チームの元へと進んで行ったから。
秀則少年の脳裏によぎったのは、敬愛するアラ兄ちゃんこと、帯刀とのかつての会話。
『俺はその日の【MVP】を目標にし続けるって、決めてる。』
秀則はその言葉と勝利の重さを知った直後ゆえ、帯刀とは全然違う選手にサインを求めた。
この日2得点1アシストを決めた、相手選手に。
帯刀にとって、敵である選手に。
周囲のドイツ人サポーターからは、批難どころか褒められた。
優しく頭を撫でられる。「分かってるなぁ、日本の少年」とでも言うかのように。
『これが、試合の全て。勝者が全て。ヒーローが全て。』
少年に勝利至上主義を植え付けさせた瞬間であった。
この瞬間を、帯刀は冷たく静観した訳では無い。憤怒した訳でも無い。
大好きな従兄弟が、なんであろうと1つの道を目指したことに、少しながら高揚した。表情は暗かったが。
翌日、ホテルで秀則が目を覚ましたのは、小鳥のさえずりが理由でも、アラーム音でも、昨夜にしばし抱えた後悔からでも無い。
両親が騒然とし、引っ切り無しに電話をしていたことが原因だった。
この日は夕方までドイツを観光し、夕食を帯刀と一緒にとる予定だった。
しかし、何故か両親は予定を変更する。
路面電車に乗るはずだったのに、何故か両親と共に地下鉄に乗らされる秀則。
車内で父は理由を話す。
「(帯刀)灼くんが昨日の夜、事故に遭ったらしい・・・。」
「え?」
身の毛が与奪った秀則。
「命に別状は無いらしいし、意識もはっきりしているそうだ。ただ・・・。」
「ただ?」
父は、それ以上を何故か語ろうとしない。
何故か母は泣き出した。
地下鉄と徒歩で向かった先は、秀則の予想的中となる。
大きな大学病院だった。
入口の前までたどり着くと、父は息子に言う。
「私が見てくるから、お前はお母さんとここで待ってなさい。」
拒む秀則。
「嫌だ!イヤだ!アラ兄ちゃんの所に行く!!」
「ダメだ!見てはいけない!」
何故『見てはいけない』なのか。
少年は言葉の真相を探る暇もなく、父の足にしがみついて拒み続けた。10分以上も。
ついに根負けした父。家族皆で見舞いする事を決めた。
秀則は従兄弟にすぐにでも会いたかったが、受付で時間を喰う。英語が全く通じず、ドイツ語しか話せない職員に対し、「昨日救急外来で搬送された帯刀の親族だ」と伝えるだけで、10分近くもかかってしまった。
ここまでのやりとりだけで、疲れ果てる父。
案内されながら、父は息子の秀則に昨日の事故の続きを話す。
「試合が終わったあと、灼くんは一人で車に乗って、高速道路をドライブしたらしい。その際、カーブを曲がりきれずにガードレールに接触したんだそうだ。相当スピードを出してたらしく、乗ってた車はボロボロ。命に別状が無いのは奇跡だって、灼くんの通訳さんが教えてくれた。ただ、み・・・。」
その次を話そうとした父だったが、ナースが病室のドアを開けて驚く。
息子に全容を話すより先に、帯刀の病室に到着してしまったのだ。
飛びつくように病室に入った高橋秀則。
「アラ兄ちゃーん!!」
薬品のキツい匂いが充満した病室。
その奥のベッドに、帯刀灼は横たわっていた。
身体中を包帯やガーゼが覆っている。
それでも、しっかりと聞こえた呼吸音。
そばに駆け寄ると、秀則は泣きじゃくりながら、灼の名前を連呼した。
何度も呼んで行く中で、秀則は灼の頭からつま先まで身体中を包む包帯を見ていった。
少年は凍りつく。
つま先を見た瞬間に。
左足と比べると、右足の【長さが短く】なっていたから。
「・・・・・・え?」
固まる少年。頭の中が真っ白になった。
説明しきる前に現実を見てしまった息子を見て、父は顔を伏せながら事故の顛末の続きを話す。
「事故に・・・遭って・・・すぐにここに運ばれたんだ・・・。命に別状は無かったんだが・・・右足の・・・指は・・・潰れた車に挟まれて・・・もうレスキュー隊が救い出した時には・・・。」
それ以上父は何も言えなくなっていた。
号泣しすぎて、喋れなくなったから。
父と共に号泣する母。
負傷の真相は、酷にも、こうである。
高橋秀則が敬愛する従兄弟の帯刀灼は、昨晩の事故にて、右足の指全てを、切断してしまったのである。
命に別状は無いというのに号泣する親族を見て、案内したナースは困惑している。父が語る前にドアを開けてしまった彼女を責められはしない。このナースは日本語を全くわからなかったのだから。そして、帯刀がサッカー選手だと知らなかったんだから。
「イヤだ・・・イヤだ・・・。いやだ嫌だイヤだ!!ゴメンなさい!ゴメンなさい!ゴメンなさい!」
事故の要因が、昨日の自分のサインの一件と直感した秀則は、泣きながら詫びる。
秀則の大声に麻酔から覚め、目を開けた帯刀。意識が朦朧としながらも、大好きな秀則が見舞ってくれたことに気付けた。
「おぉ・・・秀チャン・・・。きてくれたんだ・・・ありがと。」
「アラ兄ちゃん!ゴメンなさい!俺があんなことしたから!違う人にサインなんて頼んだから!ゴメンなさい!」
「いや・・・それは・・・違うぞ。」
「・・・え?」
「俺が事故ったのは・・・お前のせいじゃ無い。オレの・・・せいだ。曲がりきれなかった・・・オレのせいだ。」
「でも・・・でも・・・俺が兄ちゃんからサインもらっとけば・・・足は!」
「あぁ・・・右の指な。まだあるようにしか感じないんだけど・・・見たら無いんだよな・・・不思議だよ。」
「ゴメンなさい!ゴメンなさい!」
「いや・・・オレの方こそゴメンな。秀チャン。」
「な・・・にが?」
「もう・・・試合に招待出来そうに、ない。」
この言葉に、秀則の両親は再び号泣する。
秀則は黙って泣いた。泣き続けた。
ここでドクターが病室に到着し、麻酔の量を増やしていく。
再び眠りにつこうとする帯刀。
彼が瞳を閉じようとした瞬間、高橋秀則は何か覚悟を決めた表情をすると、こう誓った。
「オレが・・・こんどはオレが兄ちゃんを、試合に【呼んで】あげるから。」
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高橋秀則は、トラウマの全てを走馬灯のように回想し終えた。
ふと我に帰る。
すぐさま現状を再認識した。
現在の場所はピッチの上。
国体少年の部、第2試合。千葉県代表対広島県代表の一戦の真っ最中である。
自身がバカにしていた、広島代表の畑汪季に前半だけでハットトリックを決められ、高橋擁する千葉県代表は0ー3の劣勢。
後半は、残り30分を切った。
そして高橋秀則は、常に広島代表の選手4人からマークされ、この日は試合開始早々の1回しか、ボールに触れていない。
かつてのトラウマを思い出した高橋が思った事は、1つ。
「こんなんで、こんなザマで、何処に【呼べる】って言うんだよ。」
思いが思わず口から出た。
マークしている周囲の広島代表選手たちは、その意味を理解出来ない。
この高橋のボヤきの瞬間、ボールをキープしていたのは、同胞である千葉県代表の出羽幸助。
無理に攻撃を仕掛けて、カウンターを食らうのを危惧したキャプテンの鈴木の指示により、自陣でボールを回していた最中だった。
出羽はどのようにチャンスを作り出したらいいのか考えながら、横パスをしようとしていた。
しかし、次の瞬間。
出羽は共感覚によって、初めての体験をする。
前線から、眩ゆい光を認識したのである。
眩しすぎて、何色かはわからない。
眩しすぎて、どんな形かもわからない。
あまりに眩かったのだが、その光の中央に、高橋秀則がいたのがはっきりと認識出来た。
次の瞬間、高橋秀則の小声を、距離があったはずなのに、何故か出羽には聞こえた。
「寄越せ。オレにパス、寄越せ。」




