第143話 クロスの行方
「一週間後、覚えてたら合格な。」
それは高橋秀典に初めて言われた台詞。
なぜ今思い出してしまったのか?
そんなことを考えるべき場面ではないはず。
何せ今、千葉県代表として途中出場した小野健介は、自分の渾身のクロスを、高橋が走るであろう手前側か奥側かのどちらに放つべきか、考えなくてはいけない勝負の瀬戸際。
不要なことを考えている暇は・・・無い。
そんな想いとは裏腹に、高橋との思い出が、走馬灯のごとく駆け巡ろうとする。
それを払拭しようとする理性を、小野は敢えて振り払った。
この思い出を回想することが、現状の局面を打開するヒントに繋がるのでは?という直感の元に。
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小野の進学した市井第二中学は、千葉県内有数のサッカー強豪校だった。
本中学OBの多くは桜台東高校に進学し、近年では花野江高校にも進学するエリートサッカー校である。
とはいえ、それはクラブのジュニアユースや地元強豪クラブを除いた競争率。
必ずしも最上位の者たちが集うとは限らない。
それでも、初めてグランドに立った時には緊張した。
特に噂を耳にしていたから。
年代別日本代表にも名を連ねる高橋秀典が、本サッカー部に入部するという噂を。
初めて彼の姿を見た時、名前しか聞いた事の無い相手のはずだが、絶対にこの男が高橋秀典だと直感できた。
全身からオーラというか、自信が漲っていたからだ。先輩たちを含めた全選手の中で、誰よりも。
すぐに話しかけた。緊張や恐れ以上に、有名人と話せるという好奇心が幸いとなって。
「やぁ、日本代表もやってる高橋くんだろ?オレは小野健介。同級だよ、よろしくな。」
「一週間後、覚えてたら合格な。」
「え???何を覚えてたら???」
「名前。」
「だ・・・誰の?」
「お前の名前だよ。一週間後、まだお前の名前覚えてたら、合格レベルだから。」
「・・・は???」
「下手クソだったら、すぐ忘れるぞ。お前の名前。オレに覚えといて欲しかったら、精々(せいぜい)頑張れや。」
「・・・・・・。」
幸いしたはずの好奇心は、後悔へと変換された。
高橋秀典とは、その高い知名度に比例した自己陶酔者だったのである。
無論、口だけの選手なら言い返せた。
だが、彼は違う。練習初日に痛感した。
技術が、著しく突出していたから。
「これが、本物・・・。」
先輩相手でも徹底的にプレスを回避し、ゴールをバンバン決めていく彼に抱いた感情は、憎悪とも感動とも断定できない不思議なもの。
それは小学校時代はチーム内で抜きん出た才能を見せていた小野が、初めて出会った壁。越えられない壁。
初日にして、折れる心。
しかも市井第二中は、才能至上主義。強豪高校へ選手を送り出すことを第一目標とする本校は、余りに抜きん出た才能を持つ高橋を、放牧状態にしてムラなく成長させようという方針としてしまう。
一年生ながら王様のような態度を崩さない高橋。
当然、上級生は良い気分ではない。全員から総スカン。一瞬にして、彼は干された。
一週間後の朝、高橋と再び顔を合わせた小野。
「お・・・おはよう。」
「おぉ。オッス。」
「よく寝れた?」
「寝るのは得意だかんな。」
「あ、そう・・・。」
「・・・・。」
「・・・・・。」
「お前・・・。」
「・・・ん?」
「小野健介で合ってるか?」
「お・・・覚えたんだ!!」
「あぁ、ギリな。」
「ぎり???」
「オレが名前覚えとくには、ギリギリの才能だわ。」
「!!!!!!!」
状況によっては、慰めてやろうとまで思ってた。なのに、またしても裏切られた温情。
怒りをも通り越した小野を気にもせず、高橋はこの日から、少しプレースタイルを変えた。
味方が欲しいと思った場所に、思ったタイミングでパスをする光景が見られだしたのだ。
次々に決定機もしくは得点を手にする上級生たち。
少しずつ着実に、高橋は信頼を取り戻していく。自分の性格は一切変えずに。
先輩たちが帰った後、グランド整備をしながら、高橋はいつもグチった。
「別にアシストに回るのは構わないけどよぉ、ボールもらいに走り回るのが、面倒くさいわ。」
「でも、信頼回復出来てんだから、良かったじゃん。」
自身はどこまでもお人好しだと感じつつ、話し相手になる小野。
「なんで俺より下の人間たちのために、走らなきゃいけないんだよ。体力は出来るだけとっときたいんだっての。シュートのために。」
「でも、そのシュートもパスが来なけりゃ出来ないだろ?」
「まぁ、そうだけどさぁ。疲れるの嫌なんだもん。」
「贅沢言ってられないって。」
「でもよぉ・・・。」
「ん?」
「贅沢な才能なんか一切持ってない小野に言われても、説得力無いぜ。」
「ん!!!!!?」
卑屈も、ここまで来るとどうしようも無い。
入部一週間にして地位を築いた高橋は、結局1年生からレギュラーでい続けた。
必死にあとを追った小野。2年の前半から試合に出られるようになり、後半からはスタメンになれた。
小野は決して劣等生ではない。才能は十二分にあった。2年生でスタメンになれたのは、高橋以外は彼のみ。ただ、そばにある天秤の重りは、あまりにも大きすぎ、重すぎ、偉大すぎた。
いつしか考えたのは、『自分は自分』という発想。密かに抱いておきたかった自己逃避の先。
「小野!オレ走らせるんじゃなくて、お前が走って苦労しろ!俺と一緒に試合出らるんだから、こんな技術で満足すんな!」
なのに高橋の逃げ場も作らせてくれない鬼畜ぶり。内心ウンザリしていた。
中学3年生の秋、進路を決めねばいけない頃、小野は考えていた。
桜台東に行くべきか、花野江に行くべきか。
高橋は花野江一本に絞っているのは知っていた。
もう彼とは違う道を進みたくなっていた小野は、周囲に桜台東に進学を考えていると告白する。
返事は意外なもの。
「なんで高橋と違う所なの?」
なぜ今、高橋の名が出てくるのか・・・。全く理解出来ない小野。周囲の解答は予想外なものだった。
「だって、高橋と一番仲いいのってお前じゃん。」
この時、小野は初めて気付いた。高橋が、自分以外の人間と会話している時間の短さに。それに対し、自分と会話する時間の長さに。勿論それは消去法。
ただし、差は歴然だった。
当時補欠だった高井などに対しては、高橋は存在すら無視する態度を見せていたのだから。
「俺って・・・認められてるのか?」
歯痒く思うべき状況。
なのに込み上げた感情は、微かな高揚感だった。
考えてみれば、自分はこの中学3年間で、技術も身体能力も随分向上できた。
可能だっただろうか?高橋無くしてここまでの成長が。
実は今の自分があるのは、彼の存在有ってなのでは・・・。
翌日の進路面談で花野江高校を希望した理由は、ほとんど勢いに感けたもの。
高橋は余裕で合格した推薦入試を、イチかバチかの賭けで受けた小野。
幸か不幸か、彼も合格出来た。直後は幸に包まれる。
だが、不幸はすぐに降り注いだ。
県内の猛者たちが集う花野江高校サッカー部に入部した小野。高橋と共に。
先輩たちは尊敬に価する才能ばかり。
すぐに飲み込まれそうになった。
だが、共に進学した高橋は、彼らと肩を並べるどころか、凌駕するほどの技量。
ランニングばかりする自分と違い、彼はすぐにレギュラーに定着した。市井第二中時代の先輩も数名いたことで、連携も支障無い。
一緒に切磋琢磨するような立場ではない。彼は彼。自分は自分。わかっていたこと。いつの日か、また一緒に試合に出られればいい。そんな絵空事を抱く小野。
4月の中頃だった。
練習を終えた後、久しぶりに高橋と顔を合わせる。
「よ、久しぶりだな、高橋。」
中学時代のように、軽く挨拶した。当時を懐かしむように。
なのに、彼の返事は驚きを超えて、悍ましくすら感じる言葉だった。
「えぇっと・・・。お前、誰だったっけ??」
思わず持っていたスパイクを落とす。
3年間、一緒にいたのに。一番関わっていたのに。どうすれば忘れられるのか?
何も返事できず、通り過ぎる高橋の背中を追うことも出来なかった小野。今までの思い出も、今までの努力も、積み重ねた友情も、全て否定されたと考えた小野少年。あまりに悔しすぎて、家路を急ぎながら彼は、泣いた。
翌日から、小野は誰より走り、誰よりグランドを綺麗にする。また認められたいからでない。最早、ただの意地。
3日後、高橋と再び会った時、彼はこう言った。
「思い出したよ。お前、小野だったよな。てか、同中だろ?」
殴り飛ばしてよければ、今すぐそうしてやりたかった。半殺しにしてよければ、喜んでそうする。だが、天才児と世間で騒がれてる彼へ、そんな仕打ちは許されない。
翌日から、小野は再び高橋と会話するようになった。
しかし、そこに心はない。いくら自分の名を出そうとも、一度離れた心はもう戻る気配も無かった。まるで、離婚届けに判をついた主婦のように。
いつの頃からだろう?同じ中学ということで、先輩たちから自己陶酔者のお目付け役に自然と指名される。
別にやっても構わない。演じるだけだ。心はもう、そこにないのだから。
「そういうこと言うなっての!高橋!!」「喧嘩売る態度はやめろっつーの!」「文句ばっか言うんじゃねぇ!」
この国体代表になってからもそうだった。軽口に対しての説教。それが自分に課された役割。演じ続ければいいだろう。
故に、この兵庫県代表との試合に途中出場する直前、彼を形容した言葉は『自己中のクソ野郎』。
ただし・・・朝比奈監督はそう思っていない。
自身の持ち味は、高橋との連携が容易に出来るという認識にある。実に・・・実に不幸なことに。
それはいつしか、彼に一つの反骨心を植え付けた。
『だったら、どんな方法だろうと輝いてみよう』と。
『ただの高橋のお目付け役ではなく、試合で魅せられる選手になろう』と。
それが、どんな形であろうとも。どんな状況であろうとも。
それが自分に出来る、唯一の抵抗だから。
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上記の回想録を巡らせたのは、実際は時間にして3秒足らず。
さて、走馬灯のごとき回想を終えた小野は、何をしたか。
ただただ慌てた。
「ヤバい!!!こんなに思い出したのに、高橋がどっちに走るかのヒントが一個も無い!!!!!!」
手前側か奥側。高橋がどちらに走るのかが焦点だったのに、回想の中でヒントになるような素材が一つも無かったのだ。
考えてみれば高橋の気持ちなど、今まで禄に理解できたことは無い。
収まらない動揺。
「うわ!!!ボール来る!!!目の前くる!!!どうしよ!!!」
考える猶予をもう少し欲しいが、鈴木のボールは微塵のミスも無い精度。
刹那、再び思い出そうとした過去の情景。されど、再び浮かんだのは高橋の悪態ばかり。
「走り回るのが、面倒くさいわ。」
「体力は出来るだけとっときたいんだっての。」
「疲れるの嫌なんだもん。」
「オレ走らせるんじゃなくて、お前が走って苦労しろ!」
ボールが自身の眼前まで落ちた時、小野は、ふと考えた。
「あれ?そろそろ高橋・・・【疲れた】んじゃね?」
落下するボールをダイレクトにて、小野は左足で蹴ってクロスを放つ。
彼が狙った先は、高橋の手前側か奥側か。
否
小野が選択したのは、第三の場所。
高橋は、どちらにも【走りこまない】だろうと選択したのだ。
出羽の体力消耗を考慮して、大っ嫌いな運動量の浪費を代行した高橋は、そろそろ【休みたく】なっているだろうと。
その予想は皮肉にも、【的中】した。
走り込む素振りを見せていた高橋は、小野がクロスを上げる寸前にブレーキをかけたのだ。
必死に追いかけようと走っていた平岡は咄嗟のことにブレーキをかけるのが遅れる。
二者の間に距離を設けることに成功出来た。
バランスを崩しながらも左サイドから放った小野のクロス。見事なものである。
2011年に開催されたアジアカップ決勝で、李忠成に送った長友のクロスと瓜二つ。直後の決勝点となるボレーシュートの情景と重ね、観衆は吠えた。
フリーとなって自身に向かってくるボールを眺める高橋。彼はつぶやく。
「ったく。妥協せずに必死こいてりゃ、マトモなこと出来んじゃねぇか。小野なりによぉ。」
マークを外され、顔が青ざめる平岡。兵庫県代表キーパーは急いで飛び出すも、微妙な距離。
「撃てぇーーーーー!!!!!」
観衆も、スタメンも、ベンチも、小野も。千葉県代表を応援する全員が叫ぶ。
少し体を後方に捻り、落下するボールを目で追う天才児。
眼前にまで降下したボール。
高橋は全力で、右足を振った。
スカッ
「え???」
ボールを直撃出来なかった、高橋の右足。
まさかの空振り。
「うっそ・・・」
会場全員が驚きのあまり失語した。




