呟く男
私はアメリカのとある有名な大型スーパーで支店長をしています。
スーパーといっても、国内ばかりでなく海外に広く店舗をもち、商品は食料品から家電や衣類、生活に必要とされる物を全て取り扱っております。まさしくその名の通りの大型スーパーであり、その名は世界中に知られているのです。そんな会社ですから、私もその会社の一社員として、誇りを感じています。
人の上に立つ役職で一つの会社に長くいると、いろんな人が部下として働くわけですから、去っていく人を見るのはそう珍しいことではありません。
名前さえ思い出すことができない人もいますし、名前を聞いたとしても顔を思い出せないような相手というのは山程おります。
逆に言うならば、それが普通なのかもしれません。
しかしながら、私にはどうしても忘れられない人物が一人います。
今尚、彼がどこの支店で働いているのかさえも気になっているのです。
初めて彼と会ったのは、僕のいる支店に彼が配属となった日の朝です。
彼は僕のオフィスに挨拶にやってきたんです。
事前に本社からフロリダ支店より配属異動された男性がくるとの連絡を受けて、私はいつもより少し早い時間に出勤してコーヒーを片手に朝の書類に目を通していました。
すると半分開いていたオフィースのドアの前に立つ人の気配に気づきました。
そこには、片手に書類を手にした三十代後半の黒人男性が黙って私の様子を見ていたんです。
ああ、彼が新しく来たその人だなと思いました。
「おはよう、どうだい調子は?」
私は軽い挨拶を彼にかけたのですが、返答はありませんでした。
どうやら明るく覇気があるタイプではないらしく、無表情でただ黙っているといった感じでした。
彼が持ってきた経歴書にざっと目を通すと、彼は半年ぐらいでいろんな支店から移動していました。
この時にはなぜ彼が一年もたたないうちにいろんな支店に異動になっているのか、私には検討がまるでつきませんでした。
彼が有色人種であったということもあって、そういった事情が関係しているのかな?と自分の中で勝手に問題を解釈していたのでした。
本当に会社や職場の中で、業務に支障がでるような人となると会社としては解雇という選択もあるので、彼が異動になる原因というのはきっと大きな問題ではないんだと思ったんです。
私としても、彼がごく普通に業務をこなしてくれるのならば、口数が少ないとか愛想がない、有色人種であるなんてことは全然問題ではないと考えていたのです。
その日から彼は働き始めましたが、職場の噂の中にも会議の中にも彼の名前はでてきませんでした。
そんなものだから、正直彼の存在自体しばらくは忘れていましたよ。
初めて会議で彼の名前が出てくるまではね。
あれは、彼が働き始めて三ヶ月後くらいたった頃です。
その日は年明けの一週間前で、在庫保管場所にはセール品と通常価格品のものが山のように積んでありました。
従業員も客も、新しい年を目前にしていたというのもあって、忙しく動いていたんです。それが大きなミスを生んでしまったのでしょう。
品物の値付け間違いが起こってしまったんです。
通常価格の品物にセール品の値段を誰かがつけてしまったんですよ。
品物が、通常価格よりも十ドルも下がっていれば、客もここぞとばかりにカートに入れてしまうでしょ?
それで、レジでは大混乱が生じました。
クレームをつける人があちらこちらで出まして、ただでさえ忙しい時期だったのもあって、店のサービスカウンターはクレームと返品の列が出来ました。
そんなことがあった訳なので、当然週の終わりのマネージャー会議では、その責任追及が行われた訳です。
会議は、各部署のリーダーとそれに関わった人物、そして支店長である私で行われました。
この件で、「関わった人物」というのが彼がだったんですよ。
彼が誤った値をつけた「その人」だったんです。
会議ではどうしても問題となる部分の追求となりますから、厳しいやりとりになることもあります。
それだけに、言葉はできるだけソフトにと皆さん心がけてはいるのでしょうけれど、そこはやっぱり人間ですから、時に激しく言い合うこともあるんです。
もちろん、最後には問題解決に向けての指針を出すのが目的になるんですけどね。
この時の会議は、年末というのもあって皆さんかなり疲れも見えていて、感情的になりやすかったんです。
リーダー達は、あってはいけないとされるミスにかなり苛立っていました。
そして、一番短気な日用品のリーダーが「つまるところ、値付けをしたのは誰なんだ!」と大きな声を出したんです。
会議の中の雰囲気はかなり悪くなってしまって、見ている限り誰もがその場から逃げ出したくなるような重い空気でした。
値をつけられた商品を並べた一人が静かに黒人男性の彼を指差したんですよ。
そしたらリーダーのボルテージも一気に上がったようで、「お前がやったのか!」という勢いで叱責を始めたんです。
「大人しくしてれば仕事がミスなく進むと思ってるのか?こんな忙しい状況だからこそ自分よりも長くいる人やリーダーの誰かに確認をしなくちゃならないんじゃないのか?」
最初こそ、しなければならないとされる事を並べ立てていたんですけど、途中から彼の怒りということが先行しているような感じでした。
黒人の彼は、ただ俯いて黙って聞いているようでしたけど、さすがに彼も耐えかねたんでしょう。
数分間でしたが、俯いていた顔を上げてリーダーを睨みつけるような強い視線を返し始めました。
リーダーがそれに気がついて、「なんだよ、その顔は!」と言ったかと思うと、彼は激怒しているリーダーの前まで歩み寄ったんです。
「これはさすがにまずい」と私も思ったので、二人の間に入って止めようと身構えたんです。
そしたら彼は、みんなが緊迫して見つめている状況で、リーダーの顔を真っ直ぐに見つめ何か呟いたのです。
「ボソボソボソボソ……」とこんな感じにね。
彼の声が特に小さいという訳ではなかったんですけど、彼の呟いた言葉に誰もが「?」と思いました。
それは明らかに英語ではない言葉でした。
私も聞いたことがないもので、「なんだろう?何を言ったんだ?」と思いました。
同じく、そこにいた一同が首を傾げ、「何?」というような表情をしました。
そして彼は呟いた後にニヤリと笑ったんです。
なんでしょうね。
言葉に表現し難いのですが、なんとも嫌な気分がするような笑みでした。
とりあえず会議を進展のあるものにしようと、以後確認を徹底するということ 日用品のリーダーはよほど腹を立てたのでしょう。
「まったく!」と言って部屋を出て行きました。
その翌日のことです。
パートタイムの女性が私に「いつまでたっても日用品部のリーダーが来ないんです」と言いに来たのです。
自宅に連絡を入れるても確認はとれず、しばらく待ってみたところ、ポリスマンから確認の電話が入りました。
リーダーは、仕事に向かう途中にタンクローリーの事故に巻き込まれて病院に運ばれたということでした。
肩の骨折があるものの、命には別状がなかったので安心はしたのですが、何せ昨日あんなことがあったものだから、本当に心配しました。
それから年が明けて、店内では春の商品の入れ替えの準備が始まりました。
年末やクリスマス商品を全て引き下げて、春の商品を陳列するための置き換え作業です。
全ての人に入れ替え図面がプリントアウトされ、期日までに春の商品を配置しなければなりません。入れ替え期日は三日と予定をたて、各部署は日常業務をこなしながらの配置換えでした。
この時にも大きなミスが出ました。
あの「彼」が、配置棚の場所を間違えて春の商品を並べてしまったんです。
それでまたもや、週末のリーダー会議に彼が呼ばれたんです。
彼が間違えて陳列した棚は、家電部のところでした。
なので、家電部のリーダーがかなり苛立っていました。
そのリーダーは、とても几帳面な人でしたので、期日までに仕事が終わらないというのが我慢できなかったのでしょう。
日用品のリーダーが怒った時のような叱責はしなかったものの、彼への仕事の注意や評価はかなり厳しく指摘していました。
「ただ大人しいというあなたの態度は、職場ではコミュニケーション不足を招きます。あなたの以前の失敗にしてもそうですが、今回もあなたが周囲の人に確認したり、状況や進行の度合いを他の人に聞くということを怠ったのが原因です。今回の場合は、あなたの失敗により他の部署の人にまで仕事の遅れや失態という責任も負わせているんですよ!」
この時も彼は、前回と同じように始終俯いたままで一言も発言しません。
そのことが余計に相手を苛立たせて、怒りを増幅させてしまうのでしょう。
リーダーが「具体的に改善すべき点をあなたの口から聞きたいですよ!」と詰め寄ったんです。
リーダーが彼のまん前に歩みでると、彼はゆっくりと顔を上げてリーダーの目を数分見つめました。
そして、呟いたんです。
「ボソボソボソ……」
年末の会議にいた人も多かったので、彼の態度を見て「またか……」と思った人がいたと思います。
そういう私も、同じように思いました。
リーダーは彼がニヤリと笑う顔を見て腹を立てたのでしょう。
「支店長、次に彼のせいでミスが起こった場合にはそれなりの処置を考えてください!」
そういうと会議はまとまらないまま、解散という形になってしまいました。
その日は、職場内での人間関係が悪化をなんとか回避できないものかと、いろいろ考えておりました。
夕方になり配送の大型トラックの入庫の時間がきて、「それを終えた後にでも家電部のリーダーと少し話してみるか……」と思っていたんです。
ところが、入庫作業中に家電部のリーダーが大型トラックがバックする際に巻き込まれるという事故が起こりました。
幸い大怪我ではなかったのですが、足の骨折がありしばらく入院することになってしまいました。
短い期間の間に、二人のリーダーが入院ということになり困っていました。
ここは田舎ですから、いい人材の確保というのは容易なことではないんです。
どうにか「彼」のうまい使い方はないものかと考えて末に、本社に彼がいた支店での経歴をオンラインで確認してみたんです。
各支店の改善提案書をオンラインでは見ることができ、それを読むことで、その支店であっただいたいの出来事やミス等を見ることが出来るんです。
私は彼が初日にもってきた彼の経歴書を片手に、彼が過去にいた支店で彼がいた時期というのを見ていくと、各支店で仕事中の怪我や通勤途中の事故というものが重なっていました。
私のいる支店で起こっている事故や怪我と同じようにね。
単なる偶然なのか、それとも彼の呟きと何か関係があるのか。
私の中では何かが繋がっているような気がして、それでも人権に関わるようなことですから、推測の段階では何も結論が出せないもどかしさがありました。
そうこうしている間に、今度は彼がパートタイムの女性と揉めました。
彼女は行動力があり何事も積極的に動くような女性でしたから、彼とは意志の疎通のようなことがきっかけになったのでしょう。
入庫のチェックを二人でしていたのですが、彼の仕事の要領の悪さに苛立ってしまったようです。
私が他のパートタイムの女性から「支店長!パートタイムの女性が黒人男性と揉めてます!」と報告を受けて彼らのいるところに走っていくと、パートタイムの女性は彼に汚い言葉を浴びせている最中でした。
「まずい、彼と揉めるとひょっとしたら彼女まで病院行きになってしまう」と頭の中をよぎったんです。
そしたら彼女が、「あんたの背中には魔物を封じるバツ印でもはいってんじゃないの?」と嘲り笑いをしたんです。
その瞬間、彼の顔色が変わりました。
彼は、今までに見せた事がないような動揺を見せたんです。
「驚いた」というような顔でした。
誰かが彼に言った言葉に見せる反応で、彼がハッとしたような表情を見せるのは初めてだったので、ひょっとしたら彼女がいった事は事実なんじゃないのか?と考えました。
彼は激しく怒りを見せると、前の二回と同じように彼女に向かって何かを呟いたんですよ。
この時に、私気がついたんですよ。
彼が呟いていたのは、呪文じゃないのか?って。
とりあえず私は二人を引き離して、彼女と少し話をしてみたんです。
彼女が言うには、「最初は普通に仕事してたんですけど、あの人ルイジアナ出身だっていうから、変な言葉をつぶやいたという話しを彼に尋ねてみたんです。呟いたのはあの辺りにある宗教の……呪文なんじゃないの?って。そしたら彼がすごい勢いで私を睨みだしたんです。仕事もしないでただ立ったまま、私のことをずっと睨むんですもの」
正直、困っちゃいましたよ。
今度は彼女に何か災いが降りかかるのかと思って。
案の定、彼女は仕事を終えて帰る時に駐車場で客の車に撥ねられましたよ。
これで私の支店で、三人目の病院行きですから。
彼女は車に跳ねられて倒れた拍子に、頭をコンクリートにぶつけて頭蓋骨の骨折をしました。
命には別状なかったんですけれど、また病院です。
その夜、私も支店長としての責任を感じまして、一体どういうことなのかを調べてみることにしたんです。
夕食を終えて一人パソコンに向かい、検索をしてみました。
何をキーワードにしようか。
彼がびっくりしたような反応を見せた「バツ印」、彼の出身である「ルイジアナ」、この二つの言葉だけだとピンとくる情報は出てこなかったんです。
そこで推測の域である言葉を加えようと思いました。
私は三つ目のキーワードに「宗教」と入れてみたんです。
検索結果に現れたのは、様々なブードゥーのサイトでした。
ブードゥーでは、バツ印というのは「魔物を封印する」という意味があったんです。
彼がバツ印ということに驚いた反応を見せたのは、もしかして本当に彼には印があるのでは?と思いました。
もし印があるとしたら、彼は魔物なのか?と……。
魔物が使うブードゥーというと、やはり答えは呪文。
彼についてのいろいろなキーワードが、これで全て繋がったような気がしました。
そして、これ以上私の支店から病院行きの人を出してはいけないと決心を固めたんです。
翌日の朝、私は本社に彼を異動させるべく異動要望書をファックスしました。
まだ彼には何も告げてはいなかったんですけど、何がなんでも急いで事を進めなければいけないような気がしたんです。
通常だと、誰かの異動要望書というのは本社から理由の提出やら話し合いという手続きがきたりするんですが、この時は異動要望書受理が翌日の朝にファックスで届きました。
そして、ファックスが届いたと同じ朝に、私は彼をオフィスに呼んだのです。
彼がオフィスに入ってきた時に、もう気づいているんじゃないかと思いました。
なぜなら、彼は自分のロッカーの荷物を袋にいれて既に持っていたんです。
「私の力量では君の能力をうまく引き出せない。本来ならば事前に話しをすべきことなのは十分承知の上なんだが……。今朝、異動届けが本社に受理された。本当に突然で申し訳ないが、君には違う支店に異動してもらう」と言ったんです。
彼はただ俯いて私の話を聞いてました。
こうして、彼は私の支店から異動をしていったのです。
次に働く店の支店長も、また私と同じように彼の異動を要請していくでしょう。
本社が彼をクビにしないのですから、彼は延々と会社の支店を渡り歩き続けるんだろうと思います。
きっと、誰も彼にはクビとは言えないでしょう。
私の隣のベットに、スキーで骨折したという男性が足を吊るされたまま「信じられない」という顔をした。
ああ、それから……、私が差し出した異動書類を受け取って、彼はもちろんニヤリと笑って呟きましたよ。
だから、私は今あなたの横で同じようにベットに寝ているんですよ。
漢字の訂正をしました。 あるとさん、ありがとうございます。