Act.72「嘘と現実」
「・・・・三年前。あの事故の後の事ですわ。わたくし、沙織さんに病室へ来て頂けるようお願いしましたの」
静かな病室に、千歳の凛とした声が響く。
ゆっくりと語るその目は真剣そのもので、俺は思わず息を飲んだ。
「そして、お願いしたんです。一さんは貴女よりもわたくしを好きになって結婚したいと言って下さった。だから、今後は二度と会わないで頂きたい、と・・・・」
そんな事があったなんて・・・・。
思わず沙織を見ると、彼女は酷く辛そうな表情を浮かべ、じっと千歳を見つめていた。
「沙織さんはわたくしにおっしゃったんです。自分は本当は癌で、死ぬかもしれない。だからもう、二度と会うつもりはない、と・・・・」
千歳はそこで目を閉じ、少しの沈黙の後、ゆっくり言葉を続けた。
「・・・・わたくし、迷いました。一さんに本当の事を伝えるべきか。でも沙織さんは、そんなわたくしにおっしゃったんです。自分の代わりに一さんを支えて欲しい、と」
思わず沙織を見やると、彼女は悲しそうに目を細め、じっと千歳を見つめていた。
「だからわたくし、決めましたの。一さんを支え、同じように沙織さんも支えていこうと。それが、沙織さんから一さんを奪ったわたくしに出来る、唯一の償いだと・・・・」
沙織がこの病院にいたのは偶然では無かった。全ては千歳が手配し、沙織を影から支援し、尽力していたのだ。
驚く俺に向かって、千歳はバッと頭を下げた。
「ごめんなさい!わたくし、脚の事といい、あなたを欺いてばかり・・・。あの事故だって、元々わたくしのせいで!!」
「やめろ千歳!!もういい・・・もう、いいから・・・」
思わず制した。
「・・・・俺が悪いんだ。婚約した筈の君を置いて、沙織に会いに行こうとしたから」
あの時。沙織に別れを告げられた俺は、すぐに沙織に会いに行こうとした。
それを止めようとして、千歳は・・・・。
「いいえ!わたくしがいけないんです。一さんを無理矢理奪って、もう歩けないなんて酷い嘘で縛って・・・。ごめんなさい沙織さん、わたくし、貴女にも酷い事を・・・・」
千歳のその言葉に、それまで黙っていた沙織が、たまらないように口を開いた。
「千歳さんは悪くありません!あたしこそ!もう会わないって約束したのに、お兄ちゃんと・・・・。ごめんなさい・・・・」
唇をかみ、うつむいた沙織に、千歳はふるふると頭を振った。
「謝らないで下さい!悪いのはわたくし。貴女から一さんを奪ったくせに、お世話をする事で許されようなんて、虫のいい事考えていたから・・・・」
そう言うと、千歳は手元に持っていたバッグから一枚の紙を取り出して俺に渡した。
「――――千歳!!これ!?」
渡されたその紙は、俺があの時千歳に渡し、破棄したと思っていた離婚届だった。
「・・・・見てのとおりですわ。ごめんなさい。もっと早くこうするべきでしたのに、勇気が持てなくて・・・・」
そう言って、真剣な目で沙織を見つめた。
「・・・・沙織さん。一さんは貴女にお返しします。その代わり、一つだけ、どうしてもお願いしたい事があるんですの」
「・・・・千歳さん?一体、何を・・・・」
戸惑う沙織の前で、千歳は沙織の手を掴み、まっすぐに彼女の目を見つめて言った。
「お願いします!貴女のお腹の中の子供を、わたくしに下さい!!」
「――――なっ、千歳さん!?何を言って・・・・」
驚く沙織に、千歳は真剣な顔で続けた。
「このままじゃ、貴女もお腹の子供も助かりませんわ。わたくしなら、子供を育てる事も出来ます!!」
「千歳、まさか君は、代理母になるつもりか!?」
俺の問いに、千歳はこちらを振り向いて頷き、それから沙織に向き直って言葉を続けた。
「ねえ沙織さん、お願いです。わたくしに子供を下さい!そして、貴女はちゃんと手術を受けて、生きて下さい!一さんの為にも!!」
つまり千歳は、沙織と子供を両方助ける為、自分のお腹に沙織の子供を移し、代理母となって子供を産み育てると、そう言っているのだ。
まさか千歳が、そんな事を考えていただなんて・・・・。
「沙織さん、お願いです!!迷ってる内にも、子供は大きくなっていきますのよ!?貴女の病気だって・・・・。お願いです。もう一さんを、悲しませないで・・・・」
すがるような瞳でそう言った千歳に、沙織は一瞬躊躇い、それからゆっくりと頷いた。
「・・・・分かりました。千歳さん、この子を、よろしくお願いします・・・・」
愛しそうにお腹を撫でる沙織の身体を、千歳は優しく抱きしめた。
「・・・・ええ。わたくし、絶対無事に産んでみせますから・・・・」
千歳の腕に抱かれながら、沙織は静かに涙を零した。
「・・・・ありがとう、千歳さん・・・・」
――――こうして千歳は、沙織のお腹の子供の代理母になる事となった。
一日も早くしなければ、子供も沙織ももたない。
その判断から、代理母の手術と手続きの準備は急ピッチで進められ、沙織と千歳は数日後に渡米する事が決まったのだった。
その傍ら、俺と千歳は正式に離婚手続きをすませ、俺は離婚の慰謝料の一つとして、千歳に屋敷を譲る事を決めた。
「一さんはどうするんですの?住む所、決まってますの?」
「ああ、大丈夫。すまない。こんな事になってしまって・・・・」
すると千歳は、困ったように微笑んだ。
「そんな顔なさらないで。大丈夫。わたくし、一人じゃありませんもの。だって、これから先、一さんの子供の母親になれるんですから」
「・・・千歳・・・・・」
それ以上言葉がかけられず、俺は黙って頭を下げ、その場を後にしたのだった。
一本の鍵を、その手に握り締めて・・・・。




