Act.69「狂気」
※病気・医療・不妊治療・ドナー等に関する描写は現実と異なる場合がございます。
恐れ入りますが、予めご了承の上お読み頂けますよう宜しくお願い致します。
翌日。
俺はいつものように仕事の合間を縫って沙織のいる病室を訪れた。
彼女に、ある事を伝える為に・・・・。
(――――ん?)
ドア越しに微かな話し声が聞こえ、俺は開けるのを躊躇った。
『――――沙織さん、どうか治療を受けて下さいな。このままじゃあなた、本当に死んでしまいますのよ?』
(この声は・・・・千歳!?)
ぼそぼそと聞こえてくるその声は、確かに千歳のもののようだった。
(どうしてここに?それに治療って、一体何の話だ?)
意味深な言葉に興味を持った俺は、ドアの前で様子を伺う事にした。
『――――出来ません。だって私は、お兄ちゃんの・・・・・』
沙織が何事か話した。声が小さくて、最後まで聞き取れない。
『何ですって!!あなたまさか、だから治療を拒んでたんですの!?』
千歳の声が驚愕と怒気に彩られた。
(治療を拒む!?どういう事だ!?)
思わず耳を澄ませる。
『――――ええ。私は・・どうせ・・・から、せめて・・・だけでも・・・』
沙織の声は小さくて、途切れ途切れにしか聞こえない。
中へ踏み込もうとした時、扉の向こうから一際大きく千歳の声が響いた。
『どうして!?どうしてアナタが!!一さんの妻は、わたくしですのに!!』
『―――― 千歳さん!?』
次の瞬間、悲鳴のような千歳と沙織の叫び声と、争うような物音が響き、俺はたまらず病室へと踏み込んだ!
「沙織!!千歳!?」
病室の中には、窓辺に立つ沙織と、果物ナイフを手に、“立っている”千歳の姿があった。
「どういう事だ!?千歳!!君は、歩けない筈じゃ・・・・!?」
千歳はこちらを振り向き、妖艶に笑った。
「あら一さん、ちょうどいいところに。今、嘘つきの魔物を退治するところですのよ」
その目に、いつもの気高さは無い。あるのは・・・・
―――――― 狂気!!
思わず叫ぶ。
「千歳!!やめろ!!沙織は悪くない!!悪いのは全部俺なんだ!!」
すると、千歳はさも可笑しそうに笑った。
「いやですわ一さん。貴方はこの魔物にたぶらかされただけ。だって、子供が出来たから治療を受けたくないだなんて、そんな馬鹿みたいな嘘吐くんですのよ?」
「なっ・・・・子供・・だって・・・・!?」
ツカツカと二人の方へ歩み寄りながら問いかけた。
「どういう事だ!?子供って、まさか俺の・・・・?」
沙織はこちらを見て、震える声で答えた。
「ごめん・・・・あたし・・・・」
その声を遮り、千歳が金切り声をあげた。
「黙りなさい!!こ、子供だなんて!!ゆ、許せません!!アナタなんか、アナタなんか!!」
ナイフを持った千歳が、沙織に向かって歩を進める!
――――――― まずい!
全力で走り出す。
――――――― 間に合え!!
滑り込むように沙織の前に立ちふさがり、手を広げた。
「・・・・・ぐっ・・・・!!」
痛みが走る。
「お兄ちゃん!!」
後ろから沙織の悲痛な声が響いた。
俺はホッと安堵の息を吐き、振り向いた。
「・・・良かっ・・た・・。無事・・で・・・」
刺された腹が、焼けそうに熱い・・・・。
カラン!
ナイフが、目の前に落ちた。
「・・・・わ・・わたくし・・・何・・を・・・」
千歳は真っ青な顔で、震えながらこちらを見た。
「・・・・ちと・・せ・・・・」
名を呼んだ。
直後、グラリと視界が揺れた。
「・・・・ごめ・・ん・・・・約・・束・・・守れ・・なく・・・」
最後まで発せず、そのまま崩れ落ちた。
「一さん!?」
瞬間、薔薇の香りに包まれた。
「しっかりして下さいまし!!一さぁああああん!!!!」
微かに聞こえた、悲鳴のような呼び声。
嗅ぎ慣れた甘い香りの中、俺の意識は、途切れた―――・・・・。