Act.62「贖罪」
あの事故の日から半年が過ぎた。
千歳お嬢さんはあれから必死にリハビリに励んでいたが、脚にはやはり障害が残り、車椅子生活を余儀なくされる事となった。
だが彼女は、そんなハンディなどものともせず毅然と振る舞っていた。
大輪の薔薇の如く気高く美しいその様は、例えどんな状況であれ人を魅了する。
婚約発表のレセプションパーティーで、彼女が車椅子でありながら堂々と振る舞うその様を目にした時、俺は密かに感動さえ覚えた。
「強いな、アンタは」
会場を後にした車の中でそう言ったら、彼女は一瞬驚いて、けれどすぐに妖艶に微笑みながらこう返した。
「ええ。わたくし、たとえどんな事になろうと、一さんがいて下さるならいくらでも強くなれますから」
その言葉に、俺は思わず胸を打たれ、初めて心から彼女を愛しいと思った。
「お嬢さん・・・・」
「嫌ですわ一さん。わたくし達、正式に婚約したんですのよ?いい加減お嬢さんではなく『千歳』とお呼びになって」
拗ねたようにそう言った彼女に、俺は躊躇いながらその名を口にした。
「・・・・千歳・・・」
「はい。なんですか、一さん」
にっこりと嬉しそうに微笑む彼女に、そっと顔を近づけてキスをした。
そっと触れただけの唇から熱が伝わり、彼女の細い身体を抱き寄せた。
「・・・・・・んっ・・・」
熱い吐息が漏れ、俺はそのまま彼女の歯列を割って中へ侵入し、彼女のそれと絡めた。
背中に腕を回し、抱きしめる腕に力を込める。
そっと唇を離し、彼女の目を見つめると、潤んだ瞳で見つめ返して来た。
「・・・・この先は、帰ってからにしよう」
彼女は頬を赤く染めながら、コクリと小さく頷いた。
あんな事にならなければ一緒になる筈がなかっただろう彼女。
けれど、案外こうなったのは運命だったのかもしれない。
そんなふうに思った。
三カ月後。俺達は正式に結婚した。
俺は富士乃宮グループの正式な後継として本社社長に就任し、富士乃宮グループを支えるトップとして仕事に忙殺される日々が続いた。
千歳は車椅子ながらも妻としての役目を十分に果たし、俺に尽くしてくれた。
時折訪れる心の痛みさえ、彼女の懸命な姿を見ていると忘れられるような気がした。
このまま俺達は夫婦として一生を過ごしていくのだろう。
そう、思っていた・・・・。
―――― 二年後。
俺と千歳は新居で結婚生活を送っていた。
広い屋敷の中、使用人達に囲まれた何不自由ない生活。忙しくも、充実した毎日。
仕事を終えてクタクタに疲れて家に帰ると、千歳の温かい微笑みが待っている。
そんな平和な毎日を過ごしていたある日の事だった。
いつものように書斎で残務処理をしていると、車椅子の千歳が遠慮がちに入って来た。
「一さん、ちょっといいかしら?少しお話があるんですが・・・・」
「ああ、いいよ。仕事は丁度キリがついた所だし。どうした?」
千歳は躊躇いながら口を開いた。
「・・・・ええ。あの、実はその、一さんに、一緒に病院へ行って貰えないかと思いまして」
「病院?急にどうした?リハビリの付き添いなら毎週行ってるだろう?何処か具合でも悪いのか?」
尋ねた俺に、彼女はなお躊躇いがちに言った。
「・・・・違うんですの。あの、その・・・・」
珍しい。いつもきっぱりと物を言う彼女が、こんなに躊躇いがちに言葉を濁すなんて。
何かよっぽどいいにくい事なんだろうか。
「どうした?遠慮しないで言ってごらん」
優しく言うと、彼女はゆっくり言葉を続けた。
「ええ・・・、実は、その・・・・一さんに、検査を受けて頂きたいんですの」
「は?検査?」
突然出た言葉に驚く俺に、彼女は言った。
「わたくし達、子供がなかなか出来ませんでしょう?だからわたくし、この間病院で検査を受けましたの。そしたら、今度は旦那様も検査を受けて下さいって・・・・」
それを聞いて、ようやく得心がいった。千歳が子供を欲しがっているのは知っていたし、子供が出来ない事に焦りを感じているのだろう事も気付いていた。
だがまさか、一人で医者に行くほど追い詰められていたとは・・・・。
「そうか・・・・。分かった。じゃあ、俺も検査を受けよう。仕事のスケジュールもあるから、いつでもという訳にはいかないが・・・・」
ぱぁっと顔を輝かせた千歳に、俺はほっと心の中で安堵した。
この問題については、彼女だけに背負わせるつもりはなかったが、忙しくてなかなか彼女の話をきちんと聞いてやる機会が持てずにいた。
病院に検査に行く事くらいでその穴埋めになるとは思わないが、それでも少しは彼女の力になれるなら。そう思った。
「次の土曜の午前中なら空いてるから、その日でも構わないか?」
「ええ!有難う一さん!病院に連絡しておきますわね」
そう言って嬉しそうに書斎を出いて行った。
―――――― 子供、か・・・・。
ふと思い出す。かつて失った、沙織との間に出来た子供の事を。
―――――― 沙織・・・・。
最後に見たアイツの悲しげな顔が頭をよぎった。
子供を失って、一番辛かったのはきっとアイツなのに、俺は何もしてやれなかったどころか、アイツを更に深く傷付けてしまった。
今頃どうしているのか。また一人で泣いてるんじゃないか。そんな事を思って、胸が苦しくなった。
あの事故の日からすぐ、沙織は会社を突然辞めた。
驚いて彼女の部屋を訪ねた時にはもう、そこはもぬけの殻だった。
彼女に渡していた携帯電話と俺の部屋の合鍵は、それから3日後に送られて来た。
『さよなら』と一言だけ書かれた手紙と共に・・・・。
目の前に置かれた仕事用パソコンの作業机にある、一番上の引き出しを開けた。
その隅にひっそりと置かれた一本の鍵を取り出して呟く。
「こんなもの、もう持ってても仕方ないのにな・・・・」
渡されたまま、返す事さえ叶わなかった合鍵。
二年経った今でも、俺はまだ捨てる事が出来ずにいた。
鍵を見つめながらゆっくりと大きな溜め息を吐き、俺は思考を停止させた。
これ以上考えても仕方ない。今大切なのは、千歳との生活だ。
彼女との間に子供をもうけ、幸せな家族になる。
それが今の俺に出来る、千歳への償いでもあるのだから。
そう思いながら鍵を元の場所へしまい込み、俺は書斎を後にしたのだった。