Act.53「見えない心」
・・・・・・・鳥の声が聞こえる。
俺はまだぼんやりする意識の中、ごろりと寝がえりを打った。
「お兄ちゃん、もう起きないと、遅刻しちゃうよ?」
ガバッと布団をはがれ、途端に冬の寒気が身体を襲う。
ぶるぶると体を震わせ、俺は不満気に口を開く。
「沙織、頼むからいきなり布団をはぐのはやめてくれ」
「いきなりじゃありません。さっきから何度も声かけてるのに、全然起きてくれなかったじゃない。いい加減起きなさい!!」
もう、と腰に手をあて呆れ顔を浮かべている彼女に、俺はしぶしぶ立ち上がり、その場で大きく伸びをする。
「ん~~~~!今日もいい天気だな。寒いけど」
「仕方ないよ。雪がないだけで、こっちもまだまだ冬だもん」
パタパタと足音をたてて台所へと行く彼女の後ろ姿を見送った後、俺は窓の外を眺めつつ両手にハーッと白い息を吐いた。
「ストーブ点けないのか?」
問いかけると、台所からカシャカシャという音と共に彼女の声が返って来た。
「点けてたよー。でもすぐ消したの」
「え~、何で~?」
俺の不満そうな問いかけに、彼女はジュワッというフライパンの音を響かせながら、あからさまに不機嫌そうに答えた。
「お兄ちゃんが起きないからに決まってるでしょ~。あったかいと起きてもすぐ寝ちゃうんだもん!まったく!」
おかげで自分まで寒い思いをしている、と、随分おかんむりの様子の彼女に、さすがにちょっと罪悪感を覚えた。
「悪かったよ。明日はちゃんと起きるから」
「本当~~?何か毎日同じ事言ってる気がするけど・・・・」
言いながら彼女は、お盆に朝食セットを載せて部屋に戻って来た。
今日の朝食は、出来たてで湯気のたつ卵焼き、味噌汁、ご飯、きゅうりの漬物に味のり。
小さなテーブルに並べられた見事な朝食セットを前に、俺はもう「待て」を言い付けされた犬のごとく腹をぐぅぐぅ鳴かせながら問いかける。
「うんうん。明日こそ大丈夫だから。な、もう飯食っていい?」
「だぁめ!ちゃんと顔と手を洗って来なさい。ご飯はそれからね」
子供を叱るような口調で言う彼女に、俺は大袈裟に肩をすくめて見せた。
「はぁい。ふぅ、うちの奥さんは相変わらず厳しいねぇ」
もう何度発したか知れない“奥さん”という単語に反応して、彼女の頬がみるみる赤く染まる。いい加減慣れないものなのだろうか。こういうところが、彼女は本当に可愛いと思う。
「ばかっ!もう!早く顔洗って来なさい!!」
彼女に追い立てられ、俺はすごすごと洗面台へと向かう。いつもと変わらない朝の風景だ。
こんなふうに彼女の部屋で過ごすようになって、もうじき半年になろうとしている。
最初は別に部屋を借りようと言ったのだが、自分の部屋は二間続きで部屋があって広いから二人でも大丈夫だ、という彼女の主張で、ならばと俺がここに来る事になった。
とはいえ、まだ正式に籍を入れてはおらず、泊まり込みに来ているだけの半同棲状態に過ぎないのだが。
プロポーズを受け入れてくれたのも束の間、直後、俺は彼女に言い渡された。
『お互い安心して一緒に暮らして行ける自信が出来るまでは結婚はしたくない。婚約も公表しないで欲しい』と。
最初は強引に納得させようと試みたが、どうしてもと懇願され、断る事が出来なかった。
ならばせめてと一緒に暮らす事を提案したのだが、最初は婚前に同棲するなんて、とそれすら断られそうな勢いだった。
『安心出来るかどうかは、一緒に暮らして見ない事には分からないじゃないか』とゴリ押しして渋々納得させ、今に至る訳だが。
――――それにしても、一体いつまで待てばいいんだろう。まさか彼女、本当は結婚する気なんかないとか?俺が強引に迫ったから断れなかった、なんて事・・・・。
有る訳ないと思いたかったが、あの夜の自分の強引さを思い出すと、途端に罪悪感と不安が胸に押し寄せて来た。
それでも、たとえそうなんだとしても、俺はもう彼女を手放す気は毛頭ない。あの夜よりずっと前、キスの雨を降らせたあの日から、俺の心はもう決まっていたのだから。
今は多少強引でも、いつか彼女に心から受け入れて貰えるよう、俺が自分で努力していけばいいだけの話だ。鏡に映る自分に相対し、俺はそんなふうに無理矢理納得させた。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
洗顔と手洗いをすませて食卓に戻った俺は、ようやく朝食の席につく事を許された。
「ん、今日の卵焼きはじゃこ入りか。いいね、これ、美味い!」
「本当!?良かったぁ」
ぱぁっと顔を輝かせる彼女に、俺は微笑みを浮かべた。
「ああ、本当。お前は本当に料理上手だよな」
彼女の頬が再び薔薇色に染まり、小さく「ありがと」と呟かれた。
――ああもう!そんな顔されたら堪らないって。
思わず箸を止めて彼女の顎をくいっと持ち上げた。
「こっちも頂きたい」
「・・・・・んっ!・・・・ふっ・・・・!」
小さなテーブル越しに顔を伸ばし、塞いだ唇から熱い吐息が漏れた瞬間、ぐいっと腕が伸びて来て、俺はテーブルの反対側に押しやられた。
「・・・・もう。食事中はだめっていつも言ってるでしょ」
「仕方ないだろ。お前が可愛いんだから」
すると彼女は「またそんな事言って」と拗ねたような口調で顔を赤く染めた。
「本当だよ。いつになったら信じてくれるのかな?俺の奥さんは」
「・・・・まだ、奥さんじゃないもの。ほら、早く食べないと二人とも遅刻しちゃうよ?」
ズシン。
胸にかかる重みに、俺は一瞬言葉を失った。
「はいはい。悪かったよ」
小さく溜め息を吐き、食事へと戻るのを見て、彼女も安堵したように食事に戻る。
これも、いつもの光景。
――――本当、いつまで待てばいいのかな。
滲む不安を見ないフリして、俺は朝食を平らげるのだった。




