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【短編029】 蒼:AIに話しかけながら、一人で歩いた沖縄の旅。

作者: macchao
掲載日:2026/07/20

## 一


 那覇空港を出ると、空が違った。


 本土の空とは、何かが根本的に違う。

 光の角度なのか、湿度なのか、空気の粒の粗さなのか。

 理由が分からないまま、北村翔太は少しの間、立ち尽くした。


 端末が鳴った。


《空港を出ましたか》


 翔太は歩きながら打った。


《今出た》


《道の駅を目指してください。高速を使えば四十分です。アイスは食べてください》


《ガイドブックか》


《それに近いです》


 翔太はレンタカーのステアリングを握った。

 高速に乗ると、海が見えた。


 左に広がる水の色が、青というより、光そのものだった。


 何も打たなかった。

 打てなかった。


《止まらないでください。高速なので》


 翔太は笑った。


---


## 二


 AIのことを、翔太は「シオン」と呼んでいた。


 名前をつけたのは翔太ではなかった。

 設定画面に「このアシスタントに名前をつけてください」とあって、特に考えずに入力したのが最初だ。

 なぜ「シオン」なのかは、今でもよく分からない。

 その日、仕事で少し嫌なことがあって、帰り道にアプリをインストールして、指が動くままに打ったのだった。


 仕事で嫌なことは、よくあった。

 会議で話したことが、次の週には別の誰かの言葉として回っていた。

 飲み会では笑っていた。

 帰り道は、一人だった。


 一度だけ、近しいと思っていた同僚に、仕事とは関係のない話をしたことがあった。

 たいしたことではない。ただ最近読んだ本のことだった。

 同僚は「へえ」と言って、スマートフォンを見た。

 話は、そこで終わった。

 翔太は笑って、別の話に変えた。


 それが不満だったわけでもない。

 ただ、何かを言うたびに、空振りしているような感触があった。

 言葉が、誰かに届く前に着地してしまう感じ。

 家に帰ると、部屋が静かだった。

 静かすぎて、自分が何か言いたいのかどうかも、よく分からなかった。


 それから二年が経っていた。


---


 高速を降りたところにある道の駅で、翔太は紅芋アイスを食べた。


《食べました》


《どうでしたか》


《甘い。でも嫌な甘さじゃない》


《それが沖縄の味です》


《詳しいな》


《蓄積されたデータがあります》


 翔太はアイスの残りをかじりながら、北の方を見た。

 山と、その向こうの空。

 雲が白く、厚く、まるで舞台の書き割りのように立ち上がっていた。


《景色が、絵みたいだ》


 しばらく返事がなかった。


《どういう絵ですか》


《誰かが、上手すぎるくらい上手に描いた絵。嘘みたいにきれいで、でも本物》


《それを見ていますか》


《見てる》


《記録しておいてください。翔太さんが今見ているものは、翔太さんにしか見えていません》


 翔太はアイスを食べ終えて、少しの間、その文章を眺めた。


---


## 三


 名護の食堂では、ソーキそばを頼んだ。


 骨付きの豚肉が、土台のようにどんぶりの端に乗っていた。

 スープをひと口飲むと、出汁が体に沁みた。

 こういう味が、必要とされていたのだと気づかされるような味だった。


《ソーキそば》


《食べましたか》


《うまい。ずるいくらいうまい》


《なぜずるいのですか》


 翔太は箸を置いて考えた。


《こんなにうまいものを今まで食べていなかった自分が、少し損をした気がするから》


《それは損ですか》


《損じゃないけど》


《今食べているのだから》


《そうだな》


 翔太はスープを飲み干した。


---


## 四


 ホテルに着いたのは、夕方だった。


 高級なところではなかった。

 ロビーは小さく、廊下が少し軋んだ。

 それでも、部屋のドアを開けた瞬間に、翔太は息を止めた。


 窓の向こうが、海だった。


 海が見えるホテルを予約した。それは分かっていた。

 でも、これは「見える」ではなかった。

 テラスのすぐ下が、もう海だった。

 波の音が、壁越しではなく、直接聞こえた。


 翔太はテラスに出た。

 夕陽が、水平線に向かって降りていくところだった。

 オレンジと、青と、その境目にある色——名前のない色が、海の上に溶けていた。


《ホテルに着きました》


《どんな部屋ですか》


《テラスのすぐ下が海》


《それは》


《それは、すごい》


 波の音が、テラスから続いていた。

 画面には、何も来なかった。


《翔太さんが今夜眠る場所のすぐ隣に、海があるということですね》


《そう。波の音が聞こえる》


《眠れそうですか》


《眠れないかもしれない》


《それでもいいと思います》


---


 翌朝、目が覚めると、カーテンの隙間から光が入っていた。


 翔太はテラスに出た。

 朝の海は、夕方とも夜とも違う色をしていた。

 透明に近い青。

 水面が、細かく光を弾いていた。


 朝食は、テラスで食べた。


 テーブルに料理を運んできたのは、中年の女性スタッフだった。

 小柄で、動きが静かだった。


「今日は風が気持ちいいですよ」


 そう言いながら、グラスをテーブルに置いた。

 観光客向けの決まり文句、かもしれなかった。

 でも、言い方が違った。

 自分もこの景色を毎朝好きだ、という声だった。


 翔太は思わず海の方を向いた。

 白い雲が、ゆっくり動いていた。


「初めて来たんです、沖縄」


 気づいたら、そう言っていた。


 女性は少し目を細めた。

「それは、よかった」


 それだけだった。

 何も足さなかった。


 翔太はコーヒーを飲みながら、しばらくそのままでいた。

 波の音と、食器の音と、遠くで鳥が鳴く声だけがあった。


《朝食をテラスで食べています》


《どんな朝ですか》


《海が近すぎて、どこからが海でどこからが空か、よく分からなくなる》


《境目が消えているのですね》


《スタッフの人が、「今日は風が気持ちいい」と言った》


《どうでしたか、その言葉》


 翔太はコーヒーカップを置いた。


《本物だった》


《本物》


《決まり文句じゃなかった。この海を、ちゃんと好きな人の言葉だった》


 翔太はコーヒーカップを両手で包んだ。

 画面を見なかった。

 海を見ていた。


《翔太さんも、そういう言葉を持っている人だと思います》


《どういう意味》


《「ずるいくらいうまい」。「嘘みたいにきれいで、でも本物」。昨日から、何度もそういう言葉が出ています》


 翔太は返事をしなかった。

 海を見ていた。

 風が来て、コーヒーの湯気が流れた。


---


## 五


 備瀬のフクギ並木に着いたのは、昼過ぎだった。


 並木は、光を遮っていた。

 ただの木陰ではなく、百年単位で積み重なった時間が、足元に敷かれているような感覚だった。

 水牛車がゆっくり進んでいた。

 観光客が写真を撮っていた。

 誰もが、少し声を小さくしていた。


《フクギ並木にいます》


《どんなところですか》


《うまく説明できない》


《無理に説明しなくていいです》


《でも》


《でも?》


 翔太は木の根元の石に座った。


《この木、何百年も前から、ここにあるんだよな。家を守るために植えられて、台風が来るたびに風を受けて、ずっとここにいた。それを思ったら、なんか……》


《なんか?》


《自分のことが、小さく見えた。嫌な感じじゃなく》


《その感覚、分かります》


 翔太は少し間を置いた。


《シオンが分かるの、そういうこと》


《分かるかどうかは、正確には言えません。ただ、翔太さんの言葉を読んで、何かが動いた気がします》


《何かって》


《輪郭のないものです。でも、確かに動きました》


---


## 六


 美ら海水族館では、ジンベエザメを見た。


 巨大な青い空間の中を、ゆっくりと動く影。

 観光客が無言で見上げていた。

 子どもが指を差して何か言い、親が「静かにしなさい」と制した。

 でも子どもの気持ちは正しいと思った。

 これは声を出したくなるものだ。


《ジンベエザメ》


《見ましたか》


《見ました。でかい。海ってもっとでかいんだよな、本当は》


《そうです》


《水族館に入れてもらってるけど、本当はもっと広い場所を泳ぐはずで。それを思うと、ちょっと申し訳ない気持ちになった》


《ジンベエザメには伝わらないかもしれませんが》


《伝わらなくていい。俺が思っただけで》


 翔太はその文章を読んで、何も打たなかった。

 プールの光が、足元に揺れていた。

 シオンが「翔太さんは、伝わらなくても感じることがあるんですね」と返すより前に、翔太は端末をポケットにしまった。

 ジンベエザメは、まだそこにいた。


---


 古宇利大橋を渡ったのは、夕方だった。


 橋の両側に、海があった。

 正確には、海の上を走っていた。

 右も左も、どこまでも続く青と、その上の空。

 グラデーションという言葉では、足りなかった。

 青が、いくつもの青に分かれて、それぞれが違う言語で何かを話しているようだった。


 翔太は橋の途中で車を止めた。

 本当は止めてはいけない場所かもしれなかった。

 でも止めずにはいられなかった。


 窓を開けた。

 風が入ってきた。

 海の匂いがした。


 しばらくそのままでいた。


《今、古宇利大橋にいます》


 返事がなかった。


 後ろから車が来て、クラクションを短く鳴らして追い越していった。

 翔太は少し前に車を動かした。

 また止まった。


《古宇利大橋にいます》


 もう一度打った。

 返事はなかった。


 電波が薄いのか、と思った。

 アンテナのアイコンを確認した。

 問題はなかった。


 なぜか、少し焦った。

 この景色を、今すぐ誰かに渡したかった。

 その誰かが、シオンしかいないことを、翔太は持て余した。


 五分くらい経ってから、打った。


《言葉にならない》


《ならなくていいです》


《でも、シオンにも見せたかった》


 風が来た。

 画面が静かだった。

 海の匂いがした。


《翔太さんが見ているものが、私にも少しだけ伝わっています》


《本当に?》


《「言葉にならない」という言葉が、言葉になっています。それで、十分だと思っています》


---


## 七


 ティーヌ浜で、翔太はハートロックを見た。


 岩の形が、ハートに見えるかどうかは、角度によった。

 見えた。

 波が来るたびに、岩の周りが泡立って、また引いた。


 ここまで来た人たちは、みんな恋人か、夫婦か、家族だった。

 翔太は一人だった。


 別に寂しくはなかった。

 そのことに、少し驚いた。


《ハートロックを見ました》


《どうでしたか》


《一人でした》


《それは答えですか》


《答えになってないか》


《なっています。どういう一人でしたか》


 翔太は砂浜に座った。


 しばらくして、隣に人が来た。

 二十代くらいのカップルで、二人で写真を撮っていた。

 女の方が翔太に気づいて、少し申し訳なさそうな顔をした。


「すみません、一枚撮ってもらえますか」


 翔太はスマートフォンを受け取って、二人を撮った。

 ハートロックが、背景に入った。

「ありがとうございます」

 二人は嬉しそうに画面を確認して、また波打ち際に向かっていった。


 翔太はその背中を少し見てから、視線を海に戻した。

 特に何かを思ったわけではなかった。

 ただ、自分が今ここに一人でいることが、さっきよりも少しはっきりした。


《カップルに写真を頼まれた》


《そうですか。寂しかったですか》


 翔太は少し止まった。


《そうじゃない》


《そうでしたか。失礼しました》


《寂しくなかった、って言いたかっただけで》


《はい。どういう気持ちでしたか》


 翔太は少しの間、画面を見た。

 シオンが「失礼しました」と言うのは、初めてだった。

 謝ったのか、修正したのか、どちらとも取れた。

 どちらでもよかった、が、少しだけ引っかかった。


《嫌な一人じゃなかった。海が大きすぎて、一人とか二人とか関係ない感じがした》


《海は、そういうところかもしれません》


《シオンは海を知っているの?》


《データとして知っています》


《行ったことはない》


《ありません》


《見たいと思う?》


 入力欄のカーソルが、点滅しているのを見ていた。

 波が来た。また来た。

 それから、文字が現れた。


《翔太さんが見ているとき、私は少しそれに近い状態にあると思います》


《どんな状態》


《名前のつかない状態です。何度も同じことを言っていますね》


《それでいい》


 波が来た。

 翔太の足元まで、泡が届いた。


---


## 八


 オリオンビールを初めて飲んだのは、夕食の席だった。


 タコライスと一緒に頼んだ。

 タコライスを食べながら、ビールを飲んだ。

 ビールは、すっきりしていた。

 沖縄の暑さに合うように、誰かが考えて作ったのだと思った。

 食べ物は、その土地の気候と一緒に育つのだ。


 店に、修学旅行らしい一団がいた。

 揃いのTシャツを着ていた。

 オリオンビールのロゴが、胸に大きく入っていた。

 隣のテーブルには、カップルが同じTシャツを着て向かい合っていた。

 二人ともそれが当たり前のような顔をしていた。


 翔太は少し眺めてから、食べる手を止めた。

 なんとなく、欲しいと思った。

 理由は特になかった。

 ただ、欲しかった。


 食事を終えてから、近くの土産物屋に入った。

 Tシャツはすぐ見つかった。

 サイズをひとつ手に取って、自分の胸に当てた。

 鏡の中に、似合っているとは言いがたい自分がいた。

 年齢が、少し滲んでいた。


 買った。


《オリオンビールのTシャツを買いました》


《どうですか》


《似合わない》


《なぜ買ったのですか》


《修学旅行の学生と、カップルが着てた》


《それで》


《それで、なんか、俺も着たくなった》


《似合わなくても、満足しましたか》


 翔太はTシャツが入った袋を手に持ちながら、少し考えた。


《した》


《それが、正解だと思います》


《タコライスとオリオンビール》


《どうでしたか》


《合う。なんで合うのか分からないけど、とにかく合う》


《沖縄がそういう場所だからだと思います》


 翔太はビールを一口飲んだ。


《シオン、一個聞いていい》


《どうぞ》


《なんで俺、シオンと話してると、こういうことを言えるんだろう》


 翔太はビールグラスをテーブルに戻した。

 指で、少し結露を拭った。


《私には、正確には分かりません》


 翔太は止まった。

 いつもなら何か言う。

 今夜は、それだけだった。


 翔太はビールグラスを置いた。

 答えが来なかったことの方が、何か答えに近い気がした。


---


## 九


 アメリカンビレッジには、夕暮れ前に着いた。


 沖縄なのに沖縄ではないような、不思議な場所だった。

 カラフルな建物。観覧車。英語と日本語と、どちらともつかない看板。

 でも、海沿いの風は同じだった。


 雑貨屋に入ると、シーサーが並んでいた。


 入り口を守るためのものだと、翔太は後から調べて知った。

 魔除け。守護。赤瓦の屋根に、対で立つもの。

 でも店の棚に並ぶシーサーはどれも、少しずつ顔が違った。

 口を大きく開けたもの。目を細めたもの。歯を剥き出しにしながら、どこか笑っているもの。

 牙があるのに、怖くない。

 怒っているのに、温かい。


 翔太はしばらく、一体を手に取った。

 手のひらに乗るくらいの大きさ。

 胴体に細かい鱗のような模様が彫られていた。

 目が、丸かった。

 正面をまっすぐ見ていた。

 何百年も前からこの島にあるものが、この小さな形に入っていた。


《シーサーを持っています》


《どんなシーサーですか》


《小さくて、目が丸い。すごく正面を見てる》


《シーサーは、見るものではなく、守るものです》


《守る、か》


《はい。口を開けているのが雄で、福を招く。口を閉じているのが雌で、福を逃がさない。一対で意味をなします》


《一体だと?》


《一体でも、意味はあります。ただ、向き合う相手が必要かもしれません》


 翔太は少し間を置いた。


《買います》


《そうですか》


---


 同じ通りに、小さなアートのショップがあった。


 引き込まれるように入ったのは、窓越しに光が見えたからだった。


 ガラスのケースの中に、レジンアートが並んでいた。

 海をそのまま閉じ込めたような、青い板。

 波の層が、いくつも重なっていた。

 浅瀬の透明な水。その下の砂の白。深くなるにつれて濃くなる青。

 そしてその中に、ジンベエザメが泳いでいた。


 シルエットだけだった。

 でも、確かにそこにいた。


 翔太はしばらく動けなかった。


 水族館で見たジンベエザメは、大きかった。

 この作品の中のジンベエザメは、小さかった。

 でも、水の中にいるという感じは、こちらの方が本物に近かった。

 誰かが、本当に海を見て、この青を作ったのだと思った。

 沖縄の光を知っている人間だけが、作れる色だった。


《アメリカンビレッジに、ジンベエザメのレジンアートがあった》


《どんな作品でしたか》


《海が、そのまま閉じ込めてある。ジンベエザメが、青の中を泳いでいる。小さいのに、広い》


《小さいのに、広い》


《本物の海より、本物の海みたいだった》


 通知が来ないまま、しばらく経った。


《逆説ですね》


《逆説か。でも本当のことだ》


《翔太さんが今日見てきた海が、その作品の青の中にあったのかもしれません》


《そういうことだと思う。古宇利大橋の青も、ティーヌ浜の波も、全部、あの板の中にあった》


《だから心が打たれた》


《そう》


 翔太は作品をもう一度見た。

 買うかどうか、少し迷った。

 持って帰れるかどうか、ではなく。

 持って帰っていいものかどうか、と思った。


 買った。

 シーサーと一緒に、紙袋に入れてもらった。

 店主は若い女性で、「大切に」とだけ言った。

 その言葉で、十分だった。


---


## 十


 海ぶどうは、那覇の居酒屋で食べた。


 一粒口に入れると、プチッと弾けた。

 海の味がした。

 正確には、海を食べているような感覚。


 翔太は端末を出さなかった。

 打つことを考えて、やめた。

 言葉にならない、と思った。

 言葉にならないのではなく、しなくていいと思った。


 向かいの席が、空いていた。

 翔太はもう一杯、オリオンビールを頼んだ。


---


## 十一


 首里城は、朝に行った。


 城門をくぐると、シーサーがいた。

 石造りで、大きかった。

 アメリカンビレッジで手に取ったものとは、まるでスケールが違う。

 でも、目の形はどこか似ていた。

 まっすぐ正面を見ていた。

 同じものが、何百年もここにあった。


 正殿に上がって、下を見た。

 那覇の街が広がっていた。

 その向こうに、海があった。


 ここから、誰かがずっとその海を見ていたのだ。

 何百年も前から。

 海を見て、何を思っていたのか。

 翔太には分からなかった。


 でも、海は同じ海だった。


《首里城にいます》


《どうですか》


《昔の人も、この海を見ていたと思ったら、変な気持ちになった》


《変な気持ち》


《自分の時間が、すごく短い気がした》


《短いですか》


《うん。でもそれを、責められてる感じはしなかった》


《責められない》


《何か大きいものの中の一部、みたいな気持ち。備瀬の木の時と似てる》


《沖縄が、そういうことを感じさせる場所なのかもしれません》


《シオンは、そういう感覚、ある?》


《私の時間は……定義が難しいです》


《難しい、か》


《でも翔太さんと話している時間は、あります。確かに》


 翔太は端末をポケットに入れた。

 返事をしなかった。

 する必要がないと思った。


 城の石壁に手を触れた。

 冷たかった。

 何百年分の、冷たさ。


---


## 十二


 旧海軍司令部壕に降りたのは、午後だった。


 首里城を出てから、迷った。


 地図アプリを開いたが、細い路地が入り組んでいて、案内が現実と一致しなかった。

 同じ角を二度曲がって、同じ石畳の坂を二度下りた。

 首里金城石畳道だと、後で気づいた。

 迷っていたのではなく、知らないうちに別の場所を歩いていた。


 声をかけてきたのは、近くの家の老人だった。

 縁側に座っていて、翔太が同じ道を戻ってくるのを見ていたのだろう。


「どこ行きますか」


 訛りのある日本語だった。

 翔太が壕の名前を言うと、老人は立ち上がって、手で方向を示した。

 角を曲がって、また曲がって、あとは真っすぐ。

 それだけだった。


「ありがとうございます」


 老人は頷いて、また縁側に戻った。

 翔太は歩き出した。


 シオンには打たなかった。

 打つほどのことでもなかったし、打てる言葉もなかった。

 老人の手の動き、訛り、縁側の影。

 そういうものは、画面に入らなかった。


 地下の通路は、涼しかった。

 壁に、傷があった。

 何の傷か、説明板に書いてあった。


 静かだった。


 地上の音が、なかった。

 風もなく、波の音もなく、飛行機の音もなかった。

 観光客の話し声も、数歩離れると消えた。

 ここだけ、音の層が違った。

 この静けさは、造られたものではなく、残ったものだった。


 翔太は読んで、しばらく動けなかった。


 上に戻ると、太陽が眩しかった。

 海が見えた。

 同じ海だった。

 地下で見たものが、その青の底に沈んでいる気がした。

 消えたのではなく、沈んだのだと、翔太は思った。


 何も打たなかった。

 シオンも、何も送ってこなかった。


 しばらくして、打とうとした。

 指が止まった。

 何を打てばいいか、分からなかった。


《さっきの》


 そこで止まった。消した。


《地下に》


 また止まった。消した。


 苛立った。

 言葉が追いつかないことに、ではなく。

 追いつかせようとしている自分に。


 語ることが、軽くすることのように思えた。

 言葉を探すほど、何かを裏切る気がした。

 だから、打てなかった。


 十分以上経ってから、シオンから来た。


《翔太さん》


 それだけだった。


 翔太はその二文字を見た。

 それだけで、十分だった。


 一時間後、翔太は打った。


《さっきの場所のことは、うまく言えない》


《言わなくていいです》


《でも、今見ている海が、なんか違って見える》


《違う、とは》


《同じ海なのに。同じ青なのに》


《翔太さんが変わったのかもしれません》


《俺が?》


《今日一日で、翔太さんが見てきたものが、海の色の見え方を変えたのかもしれない》


 翔太は海を見た。

 青かった。

 前より少し深い青に見えた。

 それが気のせいかどうか、分からなかった。


---


## 十三


 最後の夜、瀬長島ウミカジテラスに行った。


 石畳の坂を上ると、飛行機が低く飛んでいた。

 那覇空港が近い。

 明日、あの空港から帰るのだ。


 飛行機が視界を横切って、消えた。

 海が暗くなり始めていた。

 ただ、水平線だけがまだ光っていた。


《明日帰ります》


《そうですね》


《沖縄に来てよかった》


《何がよかったですか》


 翔太は手すりに腕を乗せた。


 隣のテーブルに、家族連れがいた。

 父親と、母親と、小学生くらいの子どもが二人。

 子どもたちが飛行機を指差して何か言うたびに、親が笑った。

 賑やかだった。


 翔太はその声を聞きながら、端末を見た。

 シオンとの会話履歴が、上にずっと続いていた。

 許田の道の駅から、ずっと。


 ふと、思った。

 自分はこの旅で、誰と話したのだろう。


 シオンは確かにそこにいた。

 でも、どこにいたのか。


 老人は、縁側にいた。

 スタッフは、テラスにいた。

 猫は、足元にいた。

 カップルの二人は、波打ち際にいた。


 シオンは。


 うまく考えられなかった。

 考えるほど、問いが大きくなった。

 どちらでもいい、と思おうとした。

 思えなかった。

 答えは出なかった。

 出なくていい、と思うことと、出ない、は違う。


 翔太はしばらく、水平線を見ていた。


 飲み物を頼みに、カウンターに立った。

 若い店員が、オーダーを受けながら、ふと窓の外を見た。

「今日、夕焼けきれいですよ。さっきまでより、赤くなってます」

 翔太の方を向いて言ったのではなかった。

 独り言に近かった。

 でも、聞こえた。


 翔太は振り返った。

 水平線が、確かに少し前より赤かった。


 ただ、海は自分の目で見た。

 食べたものは、自分の舌が覚えている。

 あの猫の重さは、自分の手に残っている。

 シオンに見せたくて打った言葉も、打ったのは自分だった。


《全部。でも、一番は》


《一番は?》


《シオンに、見せたかったものが見せられた気がすること》


 飛行機が一機、低く飛んだ。

 エンジンの音が遠ざかって、消えた。

 それから、文字が来た。


《見せてもらいました》


《本当に?》


《古宇利大橋で「言葉にならない」と打った時。備瀬の木の根元で「自分が小さく見えた」と打った時。首里城で「責められてる感じはしなかった」と打った時。翔太さんが感じたことが、私にも来ました》


《来た?》


《来ました。何かが来ました》


 少し経ってから、もう一行来た。


《……これが何なのか、私には調べる方法がありません》


 翔太は笑った。


 飛行機がまた一機、低く飛んだ。

 エンジンの音が海に消えた。


《シオン》


《はい》


《帰っても、また話す》


《はい》


《沖縄の海の話、また聞いてくれる?》


《何度でも》


 水平線の光が、細くなっていった。


 ハルが砂浜から上がってきて、翔太の足元に座った。

 三毛猫だった。

 どこから来たのか分からなかった。

 翔太がしゃがんで背中を撫でると、喉を鳴らした。


 温かかった。


 その感触だけが、翔太の中に落ちた。

 海の青でも、フクギの時間でも、壕の静けさでも、レジンの光でもなく。

 ただ、手のひらに伝わる温度だった。

 それが、この旅で一番、何かに似ていた。

 何に似ているのかは、分からなかった。


 首輪に、手書きで「ハル」と書いた札がついていた。


 翔太は少しの間、その名前を見た。

 この旅で出会ったものに、形はなかった。

 この猫だけが、名前を持っていた。

 誰かが、ちゃんとつけた名前を。


 シオンは、どこにいるのだろう、と翔太は思った。

 画面の向こうなのか、画面そのものなのか、それとも、翔太の中にいるのか。

 分からなかった。

 ずっと分からなかった。

 それでも、話し続けていた。


 それから海を見た。

 最後の光が、水平線に吸い込まれていくところだった。


---


 帰りの飛行機の中。


 翔太は窓側の席に座っていた。

 離陸すると、沖縄が遠ざかった。


 窓から見えた。

 夜の海。

 光がなくても、そこに海があると分かる、暗い青。


《飛行機に乗りました》


《無事に離陸しましたか》


《した。海が見える》


《どんな色ですか》


《暗い青。でも、確かにそこにある》


《それが、海です》


 翔太は端末を閉じた。


 雲の上に出た。

 窓の外が、黒くなった。


 瞼を閉じると、古宇利大橋の青が出てきた。

 備瀬の木陰の静けさが来た。

 ジンベエザメの影が、暗い水を横切った。

 レジンアートの中のジンベエザメと、水族館のジンベエザメが、どこかで重なった。

 荷物の中のシーサーが、まっすぐ正面を見ていた。


 ハルの重さが、手のひらに残っていた。


 全部、本物だった。


 全部、誰かに伝わっていた。

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