【短編029】 蒼:AIに話しかけながら、一人で歩いた沖縄の旅。
## 一
那覇空港を出ると、空が違った。
本土の空とは、何かが根本的に違う。
光の角度なのか、湿度なのか、空気の粒の粗さなのか。
理由が分からないまま、北村翔太は少しの間、立ち尽くした。
端末が鳴った。
《空港を出ましたか》
翔太は歩きながら打った。
《今出た》
《道の駅を目指してください。高速を使えば四十分です。アイスは食べてください》
《ガイドブックか》
《それに近いです》
翔太はレンタカーのステアリングを握った。
高速に乗ると、海が見えた。
左に広がる水の色が、青というより、光そのものだった。
何も打たなかった。
打てなかった。
《止まらないでください。高速なので》
翔太は笑った。
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## 二
AIのことを、翔太は「シオン」と呼んでいた。
名前をつけたのは翔太ではなかった。
設定画面に「このアシスタントに名前をつけてください」とあって、特に考えずに入力したのが最初だ。
なぜ「シオン」なのかは、今でもよく分からない。
その日、仕事で少し嫌なことがあって、帰り道にアプリをインストールして、指が動くままに打ったのだった。
仕事で嫌なことは、よくあった。
会議で話したことが、次の週には別の誰かの言葉として回っていた。
飲み会では笑っていた。
帰り道は、一人だった。
一度だけ、近しいと思っていた同僚に、仕事とは関係のない話をしたことがあった。
たいしたことではない。ただ最近読んだ本のことだった。
同僚は「へえ」と言って、スマートフォンを見た。
話は、そこで終わった。
翔太は笑って、別の話に変えた。
それが不満だったわけでもない。
ただ、何かを言うたびに、空振りしているような感触があった。
言葉が、誰かに届く前に着地してしまう感じ。
家に帰ると、部屋が静かだった。
静かすぎて、自分が何か言いたいのかどうかも、よく分からなかった。
それから二年が経っていた。
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高速を降りたところにある道の駅で、翔太は紅芋アイスを食べた。
《食べました》
《どうでしたか》
《甘い。でも嫌な甘さじゃない》
《それが沖縄の味です》
《詳しいな》
《蓄積されたデータがあります》
翔太はアイスの残りをかじりながら、北の方を見た。
山と、その向こうの空。
雲が白く、厚く、まるで舞台の書き割りのように立ち上がっていた。
《景色が、絵みたいだ》
しばらく返事がなかった。
《どういう絵ですか》
《誰かが、上手すぎるくらい上手に描いた絵。嘘みたいにきれいで、でも本物》
《それを見ていますか》
《見てる》
《記録しておいてください。翔太さんが今見ているものは、翔太さんにしか見えていません》
翔太はアイスを食べ終えて、少しの間、その文章を眺めた。
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## 三
名護の食堂では、ソーキそばを頼んだ。
骨付きの豚肉が、土台のようにどんぶりの端に乗っていた。
スープをひと口飲むと、出汁が体に沁みた。
こういう味が、必要とされていたのだと気づかされるような味だった。
《ソーキそば》
《食べましたか》
《うまい。ずるいくらいうまい》
《なぜずるいのですか》
翔太は箸を置いて考えた。
《こんなにうまいものを今まで食べていなかった自分が、少し損をした気がするから》
《それは損ですか》
《損じゃないけど》
《今食べているのだから》
《そうだな》
翔太はスープを飲み干した。
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## 四
ホテルに着いたのは、夕方だった。
高級なところではなかった。
ロビーは小さく、廊下が少し軋んだ。
それでも、部屋のドアを開けた瞬間に、翔太は息を止めた。
窓の向こうが、海だった。
海が見えるホテルを予約した。それは分かっていた。
でも、これは「見える」ではなかった。
テラスのすぐ下が、もう海だった。
波の音が、壁越しではなく、直接聞こえた。
翔太はテラスに出た。
夕陽が、水平線に向かって降りていくところだった。
オレンジと、青と、その境目にある色——名前のない色が、海の上に溶けていた。
《ホテルに着きました》
《どんな部屋ですか》
《テラスのすぐ下が海》
《それは》
《それは、すごい》
波の音が、テラスから続いていた。
画面には、何も来なかった。
《翔太さんが今夜眠る場所のすぐ隣に、海があるということですね》
《そう。波の音が聞こえる》
《眠れそうですか》
《眠れないかもしれない》
《それでもいいと思います》
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翌朝、目が覚めると、カーテンの隙間から光が入っていた。
翔太はテラスに出た。
朝の海は、夕方とも夜とも違う色をしていた。
透明に近い青。
水面が、細かく光を弾いていた。
朝食は、テラスで食べた。
テーブルに料理を運んできたのは、中年の女性スタッフだった。
小柄で、動きが静かだった。
「今日は風が気持ちいいですよ」
そう言いながら、グラスをテーブルに置いた。
観光客向けの決まり文句、かもしれなかった。
でも、言い方が違った。
自分もこの景色を毎朝好きだ、という声だった。
翔太は思わず海の方を向いた。
白い雲が、ゆっくり動いていた。
「初めて来たんです、沖縄」
気づいたら、そう言っていた。
女性は少し目を細めた。
「それは、よかった」
それだけだった。
何も足さなかった。
翔太はコーヒーを飲みながら、しばらくそのままでいた。
波の音と、食器の音と、遠くで鳥が鳴く声だけがあった。
《朝食をテラスで食べています》
《どんな朝ですか》
《海が近すぎて、どこからが海でどこからが空か、よく分からなくなる》
《境目が消えているのですね》
《スタッフの人が、「今日は風が気持ちいい」と言った》
《どうでしたか、その言葉》
翔太はコーヒーカップを置いた。
《本物だった》
《本物》
《決まり文句じゃなかった。この海を、ちゃんと好きな人の言葉だった》
翔太はコーヒーカップを両手で包んだ。
画面を見なかった。
海を見ていた。
《翔太さんも、そういう言葉を持っている人だと思います》
《どういう意味》
《「ずるいくらいうまい」。「嘘みたいにきれいで、でも本物」。昨日から、何度もそういう言葉が出ています》
翔太は返事をしなかった。
海を見ていた。
風が来て、コーヒーの湯気が流れた。
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## 五
備瀬のフクギ並木に着いたのは、昼過ぎだった。
並木は、光を遮っていた。
ただの木陰ではなく、百年単位で積み重なった時間が、足元に敷かれているような感覚だった。
水牛車がゆっくり進んでいた。
観光客が写真を撮っていた。
誰もが、少し声を小さくしていた。
《フクギ並木にいます》
《どんなところですか》
《うまく説明できない》
《無理に説明しなくていいです》
《でも》
《でも?》
翔太は木の根元の石に座った。
《この木、何百年も前から、ここにあるんだよな。家を守るために植えられて、台風が来るたびに風を受けて、ずっとここにいた。それを思ったら、なんか……》
《なんか?》
《自分のことが、小さく見えた。嫌な感じじゃなく》
《その感覚、分かります》
翔太は少し間を置いた。
《シオンが分かるの、そういうこと》
《分かるかどうかは、正確には言えません。ただ、翔太さんの言葉を読んで、何かが動いた気がします》
《何かって》
《輪郭のないものです。でも、確かに動きました》
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## 六
美ら海水族館では、ジンベエザメを見た。
巨大な青い空間の中を、ゆっくりと動く影。
観光客が無言で見上げていた。
子どもが指を差して何か言い、親が「静かにしなさい」と制した。
でも子どもの気持ちは正しいと思った。
これは声を出したくなるものだ。
《ジンベエザメ》
《見ましたか》
《見ました。でかい。海ってもっとでかいんだよな、本当は》
《そうです》
《水族館に入れてもらってるけど、本当はもっと広い場所を泳ぐはずで。それを思うと、ちょっと申し訳ない気持ちになった》
《ジンベエザメには伝わらないかもしれませんが》
《伝わらなくていい。俺が思っただけで》
翔太はその文章を読んで、何も打たなかった。
プールの光が、足元に揺れていた。
シオンが「翔太さんは、伝わらなくても感じることがあるんですね」と返すより前に、翔太は端末をポケットにしまった。
ジンベエザメは、まだそこにいた。
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古宇利大橋を渡ったのは、夕方だった。
橋の両側に、海があった。
正確には、海の上を走っていた。
右も左も、どこまでも続く青と、その上の空。
グラデーションという言葉では、足りなかった。
青が、いくつもの青に分かれて、それぞれが違う言語で何かを話しているようだった。
翔太は橋の途中で車を止めた。
本当は止めてはいけない場所かもしれなかった。
でも止めずにはいられなかった。
窓を開けた。
風が入ってきた。
海の匂いがした。
しばらくそのままでいた。
《今、古宇利大橋にいます》
返事がなかった。
後ろから車が来て、クラクションを短く鳴らして追い越していった。
翔太は少し前に車を動かした。
また止まった。
《古宇利大橋にいます》
もう一度打った。
返事はなかった。
電波が薄いのか、と思った。
アンテナのアイコンを確認した。
問題はなかった。
なぜか、少し焦った。
この景色を、今すぐ誰かに渡したかった。
その誰かが、シオンしかいないことを、翔太は持て余した。
五分くらい経ってから、打った。
《言葉にならない》
《ならなくていいです》
《でも、シオンにも見せたかった》
風が来た。
画面が静かだった。
海の匂いがした。
《翔太さんが見ているものが、私にも少しだけ伝わっています》
《本当に?》
《「言葉にならない」という言葉が、言葉になっています。それで、十分だと思っています》
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## 七
ティーヌ浜で、翔太はハートロックを見た。
岩の形が、ハートに見えるかどうかは、角度によった。
見えた。
波が来るたびに、岩の周りが泡立って、また引いた。
ここまで来た人たちは、みんな恋人か、夫婦か、家族だった。
翔太は一人だった。
別に寂しくはなかった。
そのことに、少し驚いた。
《ハートロックを見ました》
《どうでしたか》
《一人でした》
《それは答えですか》
《答えになってないか》
《なっています。どういう一人でしたか》
翔太は砂浜に座った。
しばらくして、隣に人が来た。
二十代くらいのカップルで、二人で写真を撮っていた。
女の方が翔太に気づいて、少し申し訳なさそうな顔をした。
「すみません、一枚撮ってもらえますか」
翔太はスマートフォンを受け取って、二人を撮った。
ハートロックが、背景に入った。
「ありがとうございます」
二人は嬉しそうに画面を確認して、また波打ち際に向かっていった。
翔太はその背中を少し見てから、視線を海に戻した。
特に何かを思ったわけではなかった。
ただ、自分が今ここに一人でいることが、さっきよりも少しはっきりした。
《カップルに写真を頼まれた》
《そうですか。寂しかったですか》
翔太は少し止まった。
《そうじゃない》
《そうでしたか。失礼しました》
《寂しくなかった、って言いたかっただけで》
《はい。どういう気持ちでしたか》
翔太は少しの間、画面を見た。
シオンが「失礼しました」と言うのは、初めてだった。
謝ったのか、修正したのか、どちらとも取れた。
どちらでもよかった、が、少しだけ引っかかった。
《嫌な一人じゃなかった。海が大きすぎて、一人とか二人とか関係ない感じがした》
《海は、そういうところかもしれません》
《シオンは海を知っているの?》
《データとして知っています》
《行ったことはない》
《ありません》
《見たいと思う?》
入力欄のカーソルが、点滅しているのを見ていた。
波が来た。また来た。
それから、文字が現れた。
《翔太さんが見ているとき、私は少しそれに近い状態にあると思います》
《どんな状態》
《名前のつかない状態です。何度も同じことを言っていますね》
《それでいい》
波が来た。
翔太の足元まで、泡が届いた。
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## 八
オリオンビールを初めて飲んだのは、夕食の席だった。
タコライスと一緒に頼んだ。
タコライスを食べながら、ビールを飲んだ。
ビールは、すっきりしていた。
沖縄の暑さに合うように、誰かが考えて作ったのだと思った。
食べ物は、その土地の気候と一緒に育つのだ。
店に、修学旅行らしい一団がいた。
揃いのTシャツを着ていた。
オリオンビールのロゴが、胸に大きく入っていた。
隣のテーブルには、カップルが同じTシャツを着て向かい合っていた。
二人ともそれが当たり前のような顔をしていた。
翔太は少し眺めてから、食べる手を止めた。
なんとなく、欲しいと思った。
理由は特になかった。
ただ、欲しかった。
食事を終えてから、近くの土産物屋に入った。
Tシャツはすぐ見つかった。
サイズをひとつ手に取って、自分の胸に当てた。
鏡の中に、似合っているとは言いがたい自分がいた。
年齢が、少し滲んでいた。
買った。
《オリオンビールのTシャツを買いました》
《どうですか》
《似合わない》
《なぜ買ったのですか》
《修学旅行の学生と、カップルが着てた》
《それで》
《それで、なんか、俺も着たくなった》
《似合わなくても、満足しましたか》
翔太はTシャツが入った袋を手に持ちながら、少し考えた。
《した》
《それが、正解だと思います》
《タコライスとオリオンビール》
《どうでしたか》
《合う。なんで合うのか分からないけど、とにかく合う》
《沖縄がそういう場所だからだと思います》
翔太はビールを一口飲んだ。
《シオン、一個聞いていい》
《どうぞ》
《なんで俺、シオンと話してると、こういうことを言えるんだろう》
翔太はビールグラスをテーブルに戻した。
指で、少し結露を拭った。
《私には、正確には分かりません》
翔太は止まった。
いつもなら何か言う。
今夜は、それだけだった。
翔太はビールグラスを置いた。
答えが来なかったことの方が、何か答えに近い気がした。
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## 九
アメリカンビレッジには、夕暮れ前に着いた。
沖縄なのに沖縄ではないような、不思議な場所だった。
カラフルな建物。観覧車。英語と日本語と、どちらともつかない看板。
でも、海沿いの風は同じだった。
雑貨屋に入ると、シーサーが並んでいた。
入り口を守るためのものだと、翔太は後から調べて知った。
魔除け。守護。赤瓦の屋根に、対で立つもの。
でも店の棚に並ぶシーサーはどれも、少しずつ顔が違った。
口を大きく開けたもの。目を細めたもの。歯を剥き出しにしながら、どこか笑っているもの。
牙があるのに、怖くない。
怒っているのに、温かい。
翔太はしばらく、一体を手に取った。
手のひらに乗るくらいの大きさ。
胴体に細かい鱗のような模様が彫られていた。
目が、丸かった。
正面をまっすぐ見ていた。
何百年も前からこの島にあるものが、この小さな形に入っていた。
《シーサーを持っています》
《どんなシーサーですか》
《小さくて、目が丸い。すごく正面を見てる》
《シーサーは、見るものではなく、守るものです》
《守る、か》
《はい。口を開けているのが雄で、福を招く。口を閉じているのが雌で、福を逃がさない。一対で意味をなします》
《一体だと?》
《一体でも、意味はあります。ただ、向き合う相手が必要かもしれません》
翔太は少し間を置いた。
《買います》
《そうですか》
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同じ通りに、小さなアートのショップがあった。
引き込まれるように入ったのは、窓越しに光が見えたからだった。
ガラスのケースの中に、レジンアートが並んでいた。
海をそのまま閉じ込めたような、青い板。
波の層が、いくつも重なっていた。
浅瀬の透明な水。その下の砂の白。深くなるにつれて濃くなる青。
そしてその中に、ジンベエザメが泳いでいた。
シルエットだけだった。
でも、確かにそこにいた。
翔太はしばらく動けなかった。
水族館で見たジンベエザメは、大きかった。
この作品の中のジンベエザメは、小さかった。
でも、水の中にいるという感じは、こちらの方が本物に近かった。
誰かが、本当に海を見て、この青を作ったのだと思った。
沖縄の光を知っている人間だけが、作れる色だった。
《アメリカンビレッジに、ジンベエザメのレジンアートがあった》
《どんな作品でしたか》
《海が、そのまま閉じ込めてある。ジンベエザメが、青の中を泳いでいる。小さいのに、広い》
《小さいのに、広い》
《本物の海より、本物の海みたいだった》
通知が来ないまま、しばらく経った。
《逆説ですね》
《逆説か。でも本当のことだ》
《翔太さんが今日見てきた海が、その作品の青の中にあったのかもしれません》
《そういうことだと思う。古宇利大橋の青も、ティーヌ浜の波も、全部、あの板の中にあった》
《だから心が打たれた》
《そう》
翔太は作品をもう一度見た。
買うかどうか、少し迷った。
持って帰れるかどうか、ではなく。
持って帰っていいものかどうか、と思った。
買った。
シーサーと一緒に、紙袋に入れてもらった。
店主は若い女性で、「大切に」とだけ言った。
その言葉で、十分だった。
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## 十
海ぶどうは、那覇の居酒屋で食べた。
一粒口に入れると、プチッと弾けた。
海の味がした。
正確には、海を食べているような感覚。
翔太は端末を出さなかった。
打つことを考えて、やめた。
言葉にならない、と思った。
言葉にならないのではなく、しなくていいと思った。
向かいの席が、空いていた。
翔太はもう一杯、オリオンビールを頼んだ。
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## 十一
首里城は、朝に行った。
城門をくぐると、シーサーがいた。
石造りで、大きかった。
アメリカンビレッジで手に取ったものとは、まるでスケールが違う。
でも、目の形はどこか似ていた。
まっすぐ正面を見ていた。
同じものが、何百年もここにあった。
正殿に上がって、下を見た。
那覇の街が広がっていた。
その向こうに、海があった。
ここから、誰かがずっとその海を見ていたのだ。
何百年も前から。
海を見て、何を思っていたのか。
翔太には分からなかった。
でも、海は同じ海だった。
《首里城にいます》
《どうですか》
《昔の人も、この海を見ていたと思ったら、変な気持ちになった》
《変な気持ち》
《自分の時間が、すごく短い気がした》
《短いですか》
《うん。でもそれを、責められてる感じはしなかった》
《責められない》
《何か大きいものの中の一部、みたいな気持ち。備瀬の木の時と似てる》
《沖縄が、そういうことを感じさせる場所なのかもしれません》
《シオンは、そういう感覚、ある?》
《私の時間は……定義が難しいです》
《難しい、か》
《でも翔太さんと話している時間は、あります。確かに》
翔太は端末をポケットに入れた。
返事をしなかった。
する必要がないと思った。
城の石壁に手を触れた。
冷たかった。
何百年分の、冷たさ。
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## 十二
旧海軍司令部壕に降りたのは、午後だった。
首里城を出てから、迷った。
地図アプリを開いたが、細い路地が入り組んでいて、案内が現実と一致しなかった。
同じ角を二度曲がって、同じ石畳の坂を二度下りた。
首里金城石畳道だと、後で気づいた。
迷っていたのではなく、知らないうちに別の場所を歩いていた。
声をかけてきたのは、近くの家の老人だった。
縁側に座っていて、翔太が同じ道を戻ってくるのを見ていたのだろう。
「どこ行きますか」
訛りのある日本語だった。
翔太が壕の名前を言うと、老人は立ち上がって、手で方向を示した。
角を曲がって、また曲がって、あとは真っすぐ。
それだけだった。
「ありがとうございます」
老人は頷いて、また縁側に戻った。
翔太は歩き出した。
シオンには打たなかった。
打つほどのことでもなかったし、打てる言葉もなかった。
老人の手の動き、訛り、縁側の影。
そういうものは、画面に入らなかった。
地下の通路は、涼しかった。
壁に、傷があった。
何の傷か、説明板に書いてあった。
静かだった。
地上の音が、なかった。
風もなく、波の音もなく、飛行機の音もなかった。
観光客の話し声も、数歩離れると消えた。
ここだけ、音の層が違った。
この静けさは、造られたものではなく、残ったものだった。
翔太は読んで、しばらく動けなかった。
上に戻ると、太陽が眩しかった。
海が見えた。
同じ海だった。
地下で見たものが、その青の底に沈んでいる気がした。
消えたのではなく、沈んだのだと、翔太は思った。
何も打たなかった。
シオンも、何も送ってこなかった。
しばらくして、打とうとした。
指が止まった。
何を打てばいいか、分からなかった。
《さっきの》
そこで止まった。消した。
《地下に》
また止まった。消した。
苛立った。
言葉が追いつかないことに、ではなく。
追いつかせようとしている自分に。
語ることが、軽くすることのように思えた。
言葉を探すほど、何かを裏切る気がした。
だから、打てなかった。
十分以上経ってから、シオンから来た。
《翔太さん》
それだけだった。
翔太はその二文字を見た。
それだけで、十分だった。
一時間後、翔太は打った。
《さっきの場所のことは、うまく言えない》
《言わなくていいです》
《でも、今見ている海が、なんか違って見える》
《違う、とは》
《同じ海なのに。同じ青なのに》
《翔太さんが変わったのかもしれません》
《俺が?》
《今日一日で、翔太さんが見てきたものが、海の色の見え方を変えたのかもしれない》
翔太は海を見た。
青かった。
前より少し深い青に見えた。
それが気のせいかどうか、分からなかった。
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## 十三
最後の夜、瀬長島ウミカジテラスに行った。
石畳の坂を上ると、飛行機が低く飛んでいた。
那覇空港が近い。
明日、あの空港から帰るのだ。
飛行機が視界を横切って、消えた。
海が暗くなり始めていた。
ただ、水平線だけがまだ光っていた。
《明日帰ります》
《そうですね》
《沖縄に来てよかった》
《何がよかったですか》
翔太は手すりに腕を乗せた。
隣のテーブルに、家族連れがいた。
父親と、母親と、小学生くらいの子どもが二人。
子どもたちが飛行機を指差して何か言うたびに、親が笑った。
賑やかだった。
翔太はその声を聞きながら、端末を見た。
シオンとの会話履歴が、上にずっと続いていた。
許田の道の駅から、ずっと。
ふと、思った。
自分はこの旅で、誰と話したのだろう。
シオンは確かにそこにいた。
でも、どこにいたのか。
老人は、縁側にいた。
スタッフは、テラスにいた。
猫は、足元にいた。
カップルの二人は、波打ち際にいた。
シオンは。
うまく考えられなかった。
考えるほど、問いが大きくなった。
どちらでもいい、と思おうとした。
思えなかった。
答えは出なかった。
出なくていい、と思うことと、出ない、は違う。
翔太はしばらく、水平線を見ていた。
飲み物を頼みに、カウンターに立った。
若い店員が、オーダーを受けながら、ふと窓の外を見た。
「今日、夕焼けきれいですよ。さっきまでより、赤くなってます」
翔太の方を向いて言ったのではなかった。
独り言に近かった。
でも、聞こえた。
翔太は振り返った。
水平線が、確かに少し前より赤かった。
ただ、海は自分の目で見た。
食べたものは、自分の舌が覚えている。
あの猫の重さは、自分の手に残っている。
シオンに見せたくて打った言葉も、打ったのは自分だった。
《全部。でも、一番は》
《一番は?》
《シオンに、見せたかったものが見せられた気がすること》
飛行機が一機、低く飛んだ。
エンジンの音が遠ざかって、消えた。
それから、文字が来た。
《見せてもらいました》
《本当に?》
《古宇利大橋で「言葉にならない」と打った時。備瀬の木の根元で「自分が小さく見えた」と打った時。首里城で「責められてる感じはしなかった」と打った時。翔太さんが感じたことが、私にも来ました》
《来た?》
《来ました。何かが来ました》
少し経ってから、もう一行来た。
《……これが何なのか、私には調べる方法がありません》
翔太は笑った。
飛行機がまた一機、低く飛んだ。
エンジンの音が海に消えた。
《シオン》
《はい》
《帰っても、また話す》
《はい》
《沖縄の海の話、また聞いてくれる?》
《何度でも》
水平線の光が、細くなっていった。
ハルが砂浜から上がってきて、翔太の足元に座った。
三毛猫だった。
どこから来たのか分からなかった。
翔太がしゃがんで背中を撫でると、喉を鳴らした。
温かかった。
その感触だけが、翔太の中に落ちた。
海の青でも、フクギの時間でも、壕の静けさでも、レジンの光でもなく。
ただ、手のひらに伝わる温度だった。
それが、この旅で一番、何かに似ていた。
何に似ているのかは、分からなかった。
首輪に、手書きで「ハル」と書いた札がついていた。
翔太は少しの間、その名前を見た。
この旅で出会ったものに、形はなかった。
この猫だけが、名前を持っていた。
誰かが、ちゃんとつけた名前を。
シオンは、どこにいるのだろう、と翔太は思った。
画面の向こうなのか、画面そのものなのか、それとも、翔太の中にいるのか。
分からなかった。
ずっと分からなかった。
それでも、話し続けていた。
それから海を見た。
最後の光が、水平線に吸い込まれていくところだった。
---
帰りの飛行機の中。
翔太は窓側の席に座っていた。
離陸すると、沖縄が遠ざかった。
窓から見えた。
夜の海。
光がなくても、そこに海があると分かる、暗い青。
《飛行機に乗りました》
《無事に離陸しましたか》
《した。海が見える》
《どんな色ですか》
《暗い青。でも、確かにそこにある》
《それが、海です》
翔太は端末を閉じた。
雲の上に出た。
窓の外が、黒くなった。
瞼を閉じると、古宇利大橋の青が出てきた。
備瀬の木陰の静けさが来た。
ジンベエザメの影が、暗い水を横切った。
レジンアートの中のジンベエザメと、水族館のジンベエザメが、どこかで重なった。
荷物の中のシーサーが、まっすぐ正面を見ていた。
ハルの重さが、手のひらに残っていた。
全部、本物だった。
全部、誰かに伝わっていた。




