この家に纏わる話─狐花─
この門を見たことがある。
縫い止められたように立ち止まり、わたしはその家を凝視した。
鮮明に記憶が蘇る。
門の奥へ赤い花を踏みしだいて裾をからげて逃げていく男の背中──あれは青柳だ、連続殺人犯だ!
わたしは門を抜けて男を追った。
よろめく足で庭に回り込むと家の主人らしい初老の男が庭の手入れをしていた。
「おや、なにか御用ですかな」
眼鏡の奥の温厚な目が、警官のわたしを見つめる。
「ここに男が逃げてきませんでしたか!?」
眉がひそめられる。
「誰か、大切な人でもお探しですか?」
おかしい。確かにここの角を曲がったと見えたのに。
「凶悪犯があなたの家に逃げ込みました。至急退避してください。すぐに応援も呼びますから。他の家族のかたは?」
「いや、わたし一人ですが」
まじまじとわたしを見ていた男性は合点がいったように頷いた。
「ああ、あの時の刑事さん!」
今度はわたしが彼を見つめ返す番だった。
知っている人間だったろうか。
「殺人犯を捕まえに来た刑事さんですね。やっぱり犯人は見つからないままですか。ちょうど一服しようと思っていたので、良ければどうぞどうぞ」
そう言って縁側に誘われる。
思い出した。
一人暮らしの寡婦や老婆を狙って強盗殺人を繰り返していた青柳は、最後は金の分け前で情婦といさかいをして通報されたのを恨んで彼女を刺し殺し逃走した。
血をかぶって凶器の出刃を持ったまま、警察に追われてこの家に逃げ込んだのだ。
すぐに他の警官も応援に駆けつけて厳戒な包囲網が敷かれたが、血痕は発見されたものの青柳は見つからなかった。
それがこの家での出来事だった。
「あの節はお宅をお騒がせしまして──残念ながらヤツはまだ見つかっていません。あそこまで追い詰めながら。本官の力不足です」
家の主人は、茶と茶菓をすすめて湯呑みを啜った。
「あの頃の刑事さんには言い出しにくかったんですがねえ、この家は機嫌を損ねると時々人を食うんですよ」
わたしは初老の横顔を眺めた。
理知が衰えたようには見えないが。
視線に気づいた老人が茶目っ気のある顔をする。
「わたしは元々この家のものじゃありません。この家に一夜の宿を求めた旅人でした。わたしを迎え入れた女は翌朝出ていって戻らず、そうしたらわたしはこの家から出られなくなっていたんです。行けども行けども門まで辿り着けない。この家の手入れと禁止を書いた書き付けが残されていましたよ」
答えようもないわたしに男性がおうように笑う。
「そこまで悪辣な家と言うわけではありません。一人引き留めて置けば満足するようですし、色んな人間をイタズラに迷い混ませますがほとんどすぐに解放しますしね。飢えさせたりケガをさせることもありません。可愛いものです──家の機嫌を損ねなければ、の話ですがね」
ふっと笑みを消える。
「刑事さん、当時殺人犯の手配書を見せてくれましたね。男に見覚えがないと答えたことは本当です。ただね、あの後この家でたまに、真っ赤な着物の女を背負った骸骨を見ることがあるんですよ」
声を落とした男性に困惑する。
一人暮らしの彼になにかしてやるべきだろうか。
「女の着物は曼珠沙華の派手な柄をして血塗れでね、笑いながら、おぶさってる骸骨の背中を出刃包丁で刺しているんです。そうしたら骸骨の背中から血みたいに曼珠沙華のぶわぁっと花びらが吹き出るんですよ、骸骨は痛みに身をよじってね。そりゃあもう狂ったおっかない有り様で」
当時の青柳に殺された情婦は、不吉と呼ばれる曼珠沙華を好んで、その柄の着物を愛用し、酔狂と言われながら花をも部屋に持ち込んで飾っていたらしい。
青柳に滅多刺しされた遺体は舞台劇のように飛び散った血と死に花に飾られていた。
そんな話を思い出す。
だが、だからといって、彼が見たと言っているようなことは起こるはずがない。
「この家はね、子どものようだから機嫌を損ねると本当に厄介なんですよ。招かれもしないのに押し入って、汚して不興をかったんでしょうな。戸を壊した跡もありましたし。わたしはもう秋の曼珠沙華が庭に咲く日は部屋から出ません。まだアレがこの家をうろついているのかもしれませんからね。ただ、あの男は永久に見つからないだろうことはあなたに言ってあげられますよ。だから、心残しをすることはないんです」
彼の言うことはあり得ない。
しかし、初老で正気が危ういといっても、そんな妄想を見るものだろうか……。
「おじーちゃん!」
庭向こうの垣根から孫娘が身を乗り出していた。
「ダメじゃない、よそのおうちに勝手に入っちゃ。すみません、うちの祖父が」
「いえいえ、お祖父様とは昔なじみで、お茶の相手をしてもらっていたんですよ」
ペコペコと頭を下げる孫娘に手を引かれ、かつて刑事としてこの家を訪れた警官が去っていくのを見送る。
「よろしければ、また、お待ちしていますよ」
縁側で家の主人が呟く。
「狐花……」
種もないのに不意に現れたように咲く性質から、曼珠沙華はそのように呼ばれることもあると誰かから教わった。
「おじいちゃん?」
「あいつが逃げ込んだ先で確かにあの赤い花が群生していた──あれは初夏だったのに。それに包囲したとき、庭に赤い花なんてひとつも見当たらなかったんだ」
じゃあ、あれはいつだったんだ、青柳が逃げ込んだのは?
曼珠沙華の庭はどこにいった?
「どうしたのよ、おじいちゃん。さっきの見たことのないおうちだったけど、本当に知り合い?」
「ああ、──いや」
孫の問いに静かに首を振る。
自分は年を取った、あそこの主人は半世紀前の当時と何一つ変わらなかったが。
おそらくこの世には、解決のつかないこともあり得るのだろう。
振り返って確認してみたい衝動を抑える。
曼珠沙華が咲いているのを目にしたいと思わなかったから。
おわり




