第2話 荷台(みこし)を担げ!
坂の入口――関所。
石壁が狭まり、逃げ道が一本の喉になる場所だ。
関所として敵を食い止められる立地でもある。
「クギャーッ! クギャーッ!」
闇の向こうで、湿った泥みたいな声が何重にも重なった。
畑道の暗さが、そのまま坂を這い上がってくる。
神官セレアは狭まる入口の手前で、地面に杭のようなものを刺し、結界を張っている。
淡い光が彼女の体から杭を通して周辺に広がっていた。
セレアは顔を上げないまま、穏やかな声ではっきり言った。
「風祭さん。安定したら追いつきますから――皆さんをお願いします」
新太は喉の奥の引っかかりを飲み込んだ。
ここで自分は何も役に立たない。
背骨の奥が、じわりと熱を持った。
胸の底で、何かが「合図」を探している。
「……分かりました」
新太は踵を返し、村人の前へ出た。
「押さない! 走らない! 止まらない! 戻らない!」
坂は思った以上に急だった。
足元の泥が靴底を吸い、踏み出すたびに小さく遅れる。
背中に子どもを抱いた母親が息を上げ、杖の先が滑って老人が膝をつく。
「大丈夫ですか!」
若い男が肩を貸した。誰かが背中を押す。
動きが、まだばらばらだ。だが何とか坂を進んでいる。
――そのとき、村人の列が止まった。
荷馬車が、坂の途中で斜めに噛み込んでいた。
車輪が泥に取られ、左右の石壁に当たって身動きが取れない。
荷馬車が道を塞ぎ、後ろからの村人が押し寄せる。
まずい――
「止まって! 止まってください!」
新太は荷馬車の脇へ走り、車輪を見た。
前輪も後輪も軸がいかれて、動かせそうもない。
新太は息を吸って、吐いた。胸の底の熱に合わせるみたいに。
「荷台に子どもと、お年寄りを乗せてください! 皆で担ぎましょう!」
「担げるのか?」
「でも急がないと……」
「子どもを置いていけない……!」
新太は荷馬車の側面に手を当てた。
車輪を蹴り、外せるところから外した。
泥に噛んだ金具がきしみ、夜の冷気に嫌な音が混じる。
誰かが石を拾って楔を叩き、別の誰かが荷台の端を持ち上げる。
「力のある人、手伝ってくれ! さあ、早く!」
新太の熱を帯びた声が辺りに響き、村人たちが突き動かされる。
「やるしかねえ……!」
「持てるのか?」
「坂だぞ……!」
新太は短く言った。
「合図で持ち上げます」
誰かが唾を飲む音がした。
「……せーの、でいきます」
「せーの!」
持ち上げた。
重い。
肩が軋み、腕と指にとんでもない負荷がかかる。骨の奥まで圧が刺さる。
――のに、上がった。
荷台がふっと浮き、泥から離れる。
新太の体が、自分のものじゃないみたいに動いた。
視界の端が、淡く瞬いた。
『担ぎ手:身体能力向上 付与』
『担ぎ手:疲労軽減 付与』
『スキル:条件一部達成』
読み取った瞬間、背骨の熱が一段深くなるのを感じた。
今は――進めるかどうかだ。
「何か……いけそうだ!」
「持ち上げられた……?」
「早く進め!」
荷台が持ち上がり、前に進む。
荷台の上の老人や子どもは怯えながら祈っていた。
唇が震え、指が服を握りしめる。
「行ける! 行けるぞ!」
「転ぶな! 周りも手伝え!」
声が短く、動きが速い。
お互いを引き上げ、支え合い、列がまた前へ進む。
ばらばらの足音が石壁に反響して、少しずつ揃いかける。
怖さを引きずったままでも、前へ進む足音だ。
新太の中で熱を帯びている「何か」が、もう少しで形をなすような気がしていた。
坂を登り切りかけた頃、石の輪が見えた。
境界門。
夜空に穴が開いたみたいな輪。
その内側はただの闇ではなく、水面のように揺れている。
向こう側の淡い灯りが、ゆらゆらと歪んでいた。
「門だ……!」
誰かが呟いた。祈りの声が混ざる。
門の手前で、荷台の子どもたちを降ろす。
泣き声が上がる。母親が「大丈夫」と言いながら涙を拭く。
老人が足を引きずり、若い男が肩を貸す。
「先に、子どもと! お年寄りを!」
村人たちが石の輪に触れた瞬間、体が水へ沈むみたいに揺れて――次の瞬間、向こう側へ抜けた。
「助かったー!」
「お母さんー!」
「うわあぁ……!」
村人から安堵や歓喜の声がこぼれ、境界門の先へ散っていく。
新太は胸いっぱいに息を吸い込み、振り返った。
坂の下、セレアのいる関所は見える距離だ。
淡い光が薄くなっており、揺れている。
そして、その前に――黒い波が増えていた。
「……増えてる」
誰かの声が擦れた。
「こんな数……見たことない……」
関所の真ん中にセレアがいた。
膝をつき、両手を地面に押し当てたまま、頭を垂れている。
淡い光が彼女の肩へ落ち、薄い青髪が揺れていた。
次の瞬間、結界の端が、ぱちん、と弾けるように欠けた。
「クギャーッ!」
裂け目に黒い影が殺到する。
「セレア様が――!」
門の前がざわつく。
「セレア様が……俺たちを守って……まさか」
「ああ……何ということを……」
「祈りましょう……!」
嘆きと祈りが渦になりかけた、そのとき。
新太の裾を、さっき荷台に乗っていた子どもが引っ張った。
「ねえ、セレア様も運んでくれないの?」
新太は、子どもの頭に手を置いた。
「……ああ。運ぶ」
言った瞬間、背中の奥が熱を持った。
怖さが消えるんじゃない。形が変わる。
耳の奥で、太鼓みたいな低い響きが鳴りやまない。
新太は腹の底まで息を吸って――吐いた。
「セレアを迎えに行くぞ!」
そしてもう一段、声を落として
世界に新たな声を解き放った。
「荷台を――担げッ!」
(第3話へつづく)




