5:こんなに緊張したのは初めて王宮に行った時以来でした。
本日1話目です!
朝靄に包まれた王都の街を馬車が進んでいく。揺れる窓越しに見えるのは、まだ眠りから覚めきらない石畳の道と、開店準備をする店々。だが、その景色に目を向ける者は、馬車の中にひとりもいなかった。
淡く光を帯びた薄藤色のドレスに身を包んだアイリスは、静かに指先を重ねて座っていた。隣にはサムが控えていたが、彼女の表情には気軽に話しかけられる余地はなかった。
手紙を出してから数日が経っていた。そして、王宮から返ってきたのは、形式的な言葉を整えた簡潔な招待状だった。
“王室顧問官がお話を伺いたい”それだけ。
だが、それ以上の意味を、アイリスは理解していた。
婚約者の令嬢が王宮の儀礼から離れることを申し出るなど前例がない。それはすなわち、静かなる背信。王家に対する“最初の拒絶”――その一歩に、王宮がどう応じてくるか。今日の呼び出しは、その回答に他ならなかった。
馬車が止まったとき、サムが先に降りて扉を開いた。
目の前に広がるのは、白亜の石造りの大門。王宮。かつては婚約者として何度も出入りした場所。だが今日は、まるで別の空気がそこに漂っているように感じられた。
アイリスは、深く息を吸い、何事もなかったかのように一歩を踏み出した。
顧問官室は、こぢんまりとした応接間だった。そこに並んでいたのは、見覚えのある老齢の顧問官と、ふたりの若い補佐官。ヘンリーの姿はなかった。
会話は表面的には丁寧だった。誰も声を荒げず、嘲るような物言いもない。だがその裏に流れる雰囲気は、紛れもなく警戒と探りと、そして――圧力だった。
「ご令嬢が婚約に関して“不安定な噂”に心を痛められたこと、誠に遺憾に存じます」
「私が気にしているのは噂の真偽ではありません。私は“自分がどう扱われているか”を確かめたかったのです」
アイリスの言葉は静かだったが、その瞳はごまかしを許さぬ冷たさを宿していた。
「婚約は形式です。それはわかっています。ですが形式であるなら、それを互いに守る努力くらいは、必要ではないかと」
顧問官は笑みを保ちながら頷いた。そして、次に続いた言葉で、場の空気がわずかに変わった。
「実は、王子殿下もこの件についてはご反省の意を示しておられます。つきましては、今後の婚約の在り方について、こちらからも一案がございます」
アイリスの眉がわずかに動いた。顧問官は、それを見逃さず、続けた。
「令嬢には、しばらく王宮の行事にはご出席いただかず、その間に――殿下には公的に“別の方との接触”を自粛していただくことになります」
一見すれば、妥協案。だが本質は、「おとなしくしていてほしい」という要望だった。
アイリスはしばし沈黙したのち、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとうございます。ご提案の意図は理解いたしました。ですが……私には必要のないご配慮です」
顧問官たちが、わずかに顔を強ばらせた。
「私は、自分の誇りのために行動したまでです。殿下が“反省”されたとのことですが、それは私のためにするものではありません。ただ、ご自身の行いが、どれほどの軽蔑と侮辱を含んでいたか、よく考える時間になることを願っております」
そのまま、アイリスは頭を下げた。深く、丁寧に。それは貴族令嬢として完璧な礼儀でありながら、明確な線引きだった。
帰路の馬車の中、サムは静かに彼女の横顔を見ていた。
「……怖くは、ありませんでしたか」
「少しだけ。でも、それよりずっとすっきりしているわ」
そう答える彼女の表情は、どこか晴れやかだった。たとえ、その背後に冷たい波紋が広がっていたとしても。
夜。ロイゼン公爵邸に、別の知らせが届いた。
――男爵令嬢メリー・アルメリアに、宮廷での補佐役の打診。将来を見越しての“教育”との名目だが、それが何を意味するのか、アイリスにはすぐに察しがついた。
(あの子が、選ばれたのね)
もしかすると、これは王家からの警告なのかもしれない。“あなたが降りるなら、代わりはいる”と。
だが、アイリスは黙って便箋を閉じた。それは、予想していた未来のひとつにすぎない。
問題は、これからどう生きるかだ。そして――サムの言葉が、心のどこかでそっと響いていた。
「アイリス様が、心を偽らずに生きる道を選んでくださったこと。それが、どれほど多くの者を救うか……私にはわかります」
彼は、自分のためにではなく、誰かの人生のためにそう言った。その想いを、今のアイリスはちゃんと受け取っていた。
夜風が、カーテンの隙間から入り込む。薄明かりの中、彼女は静かに決意する。
もう、誰にも支配させない。愛されるために黙るのはやめる。自分を大切にできなければ、誰の愛も意味を持たない。
そのとき、ようやく彼女は――ほんの少し、未来を信じてみようと思えた。
次回は18時頃を予定しております。