4.5:(ヘンリー・アーデン視点)私が手放したものとはいったい……。
2話目です!
報せは、想像よりもずっと静かに届いた。アイリス・ロイゼンが王宮から離れた、と。
「体調不良のため、療養を兼ねて北部へ――」そう届けられた使者の言葉に、ヘンリーは眉ひとつ動かさなかった。
けれど、心のどこかが確かに軋んだ。
(ずいぶん手際がいいな。……まるで、待ち構えていたかのようだ)
誰が命じたのか。ロイゼン公か、それとも彼女自身か。その真相を知ろうとする気も、もはや湧いてこない。だが彼は知っていた。――これは“終わり”の報せだと。
アイリスは、完璧な令嬢だった。
礼儀も、知識も、言葉も、すべてが王妃に相応しい。誰に見せても恥じぬ未来の妻、という“役割”を見事に演じ続けていた。
それが、息苦しいと感じるようになったのはいつからだったか。彼女の瞳が、どこか冷めていくのを感じ始めた頃。あるいは、自分の心が別の温もりを求め始めた頃。
「メリー・アルメリア嬢と、またお会いになって?」
「……ああ」
母后の声には、とげのような意図が滲んでいた。だがヘンリーは、その指摘を無視した。
メリーといるとき、彼は初めて“見られていない”という感覚を持てた。王子としてでなく、ただ一人の男として。
笑い、甘え、揺らぎ、欲を隠さず、何より“求めてくる”。あの少女の瞳は、誰よりも彼を必要としていた。
(それが、どれだけ心地よかったか……)
だがそれは、真の愛情だったのか。それとも、自分自身が誰かに必要とされたいだけだったのか。
答えは出せなかった。
「ロイゼン令嬢との婚約は、解消されるおつもりですか?」
宰相の問いに、ヘンリーは答えなかった。
断言すれば、それが記録に残る。曖昧にすれば、まだ巻き戻せるとでも思っていると取られる。
(どちらでもない。ただ、俺は――)
沈黙は、言葉以上に重かった。
ロイゼン家の馬車が王宮を離れた日、彼は窓の奥からそれを見ていた。口元を覆うことも、言葉をかけることもできず、ただひとりで。
馬車の奥に見えた影。そして、その隣に立っていた――黒髪の男。
執事、サム。
彼の存在を、ヘンリーは知っていた。昔からアイリスに仕え、常に傍にいた男。無言で控え、忠義を尽くすその姿勢が、どこか鬱陶しかった。
(まさか……)
まさか。彼女が、あの男を選ぶはずが――
けれど、彼女がいなくなった今。誰も、何も教えてくれない今。
ヘンリーは初めて、“自分が失ったもの”の輪郭を見つめていた。
それは「妻」ではなかった。「権威」でも、「名家の令嬢」でもない。
――彼のすべてを知ったうえで、なお沈黙を守り、 ただ静かに立っていてくれた“誰か”を、彼は手放したのだ。
それに気づいたときには、もう遅かった。
「……アイリス」
名を口にしたのは、何ヶ月ぶりだったか。
応える声は、どこにもなかった。
ただ静かに、彼の背後で王宮の扉が閉まる音だけが響いていた。
ありがとうございました!
次回は明日となっております!