第9話:数学よりも、あなたの横顔
チャイムが鳴ったと同時に、教室の空気が一変する。 机に肘をついていた生徒たちが背筋を伸ばし、前を向く。 小川先生がドアを開け、手にした教科書を胸に抱えて黒板の前に立った。
「じゃあ今日はこの前の続き。連立方程式な。よく寝たやつ、当てるぞ」
(寝てなかったし、大丈夫……)
「じゃ、瀬名さん、やってみて」
(なんでだよ……)
一瞬の間を挟んで、私は立ち上がる。 机の脚がギィと音を立てる。 チョークを手に取り、黒板の前に出た。 視線を感じる。ざわめきが薄く残る中で、一歩ずつ黒板に近づくたびに教室の空気が重たくなる。
(xとy……どっちかを代入……ん?どっちだこれ)
数字と文字が並ぶだけのはずなのに、頭の中はもはや迷路。 式のどこをどうすればいいのか、指先が止まる。 黒板の前に立ってから気づく。チョークって、こんなに滑らないものだったっけ?
後ろからの視線が刺さるようだ。 ざわつきはない。むしろ静かすぎて、息を飲む音まで聞こえそうなほどだ。
「……代入法でいいと思うけど」
その声は、私の後ろから届いた。 思わず首を後ろに動かすと、紗月さんが視線を落としたまま、ノートの端を指先で押さえていた。
「……ほんとに?」
「上の式、xを2y−1にできる。下の式にそれを代入するのが早い」
私は黒板の式に目を戻す。 たしかに、そうだ。見落としてた。
「って、あれ、計算ミスしてない?」
「しそうだったけど、まだ踏みとどまったわ。ギリセーフ」
「怖っ……先生より厳しいじゃん」
「先生は甘すぎるの。連立方程式に同情してもらえると思わないで」
さっきまでの緊張が、わずかに溶けた気がした。 言われた通りに式を変形し、代入して、計算。 ゆっくりと手を動かすうちに、数式がようやく形を持ち始める。
やっとのことで最後の答えまでたどり着き、チョークを置いた。 教室の空気がふっとゆるむ。
「お、正解。よく粘ったな」
小川先生が頷いた。 拍手もない。歓声もない。ただ静かな肯定。 だけど、それがいちばん心に沁みた。
席に戻ると、隣の結城がこっそり肘で私をつつく。
「ねえねえ、今の見た?紗月ちゃん、 完全に“ちょっと気になってます”案件だったよね」
「いやいや、どこからその解釈が出てきた」
「だってああいうふうにアドバイスくれるとか、漫画ならもう次のコマで顔赤くなってるやつだよ?」
「むしろ冷静だったけど」
「それが“わかってる距離感”なんだってば〜」
くだらない会話に紛れながらも、視線だけはちらりと右へ向ける。
紗月さんの席は、私のすぐ右隣。 一応“偶然”ということになっているけれど、その距離感はまるで常時監視モード。
助け舟なんていうほど甘くない。 ほんの助言。 でも、あの助言がなければ、私は黒板の前でもっとずっと凍りついていたと思う。
「さっきの……助かった。ありがと」
自分でも驚くくらい小さな声でつぶやいた。 教室のざわめきの中に消えてしまったかもしれない。 けれど、紗月さんのペン先が、ほんの一瞬だけ止まったように見えた。
「……どういたしまして」
静かな返答だった。 それ以上でも以下でもない。 でも、その一言がとても嬉しかった。
そのあとの授業時間、私は初めて、ノートをちゃんと取った気がする。 数式の意味はまだ半分も理解していないけれど、指先だけはやけに軽かった。
机の右側から、規則正しく走るペンの音。 そのリズムが、不思議と心地よかった。
──そして、その日の授業の終わり際。
「ねえねえ、紗月ちゃん」
結城が突然、軽い声で紗月さんを見た。
「紫音ちゃんのこと、なんて呼んでるの?」
「……瀬名さん、よ」
「え〜、それじゃ他人行儀すぎない? しーちゃんとか、どう?」
「やめて」
私は即答した。
「紫音ちゃん本人が嫌がってるなら却下だね。じゃあ、しおちゃん?」
「どこまで変形する気?」
「愛を込めて、しのぶん!」
「やだよ、そんなの」
紗月さんは何も言わなかったけど、たぶん笑いを堪えてた。 結城が隣にいると、どうにも気が抜ける。
そして私は、ふと自分のノートに目を落とす。 ぐにゃぐにゃの数字。曲がった文字。
「その書き方だと、後で自分でも読めなくなるわよ」
紗月さんの声。
「そういうのは、私が言う前に気づきなさい」
「はい、すみません……」
注意されてるはずなのに、なんだかそれがちょっとだけ嬉しかった。
(……あれ。私、“私”って、いつから……)
気づいたときには、自然と“俺”ではなく“私”と考えていた。 この世界の生活が、ゆっくりと、確実に染みついてきているのかもしれない。 そのことに、少しだけ戸惑いを覚えながらも、私は静かにノートをめくった。