表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/13

第9話:数学よりも、あなたの横顔

チャイムが鳴ったと同時に、教室の空気が一変する。 机に肘をついていた生徒たちが背筋を伸ばし、前を向く。 小川先生がドアを開け、手にした教科書を胸に抱えて黒板の前に立った。


「じゃあ今日はこの前の続き。連立方程式な。よく寝たやつ、当てるぞ」


(寝てなかったし、大丈夫……)


「じゃ、瀬名さん、やってみて」


(なんでだよ……)


一瞬の間を挟んで、私は立ち上がる。 机の脚がギィと音を立てる。 チョークを手に取り、黒板の前に出た。 視線を感じる。ざわめきが薄く残る中で、一歩ずつ黒板に近づくたびに教室の空気が重たくなる。


(xとy……どっちかを代入……ん?どっちだこれ)


数字と文字が並ぶだけのはずなのに、頭の中はもはや迷路。 式のどこをどうすればいいのか、指先が止まる。 黒板の前に立ってから気づく。チョークって、こんなに滑らないものだったっけ?


後ろからの視線が刺さるようだ。 ざわつきはない。むしろ静かすぎて、息を飲む音まで聞こえそうなほどだ。


「……代入法でいいと思うけど」


その声は、私の後ろから届いた。 思わず首を後ろに動かすと、紗月さんが視線を落としたまま、ノートの端を指先で押さえていた。


「……ほんとに?」

「上の式、xを2y−1にできる。下の式にそれを代入するのが早い」


私は黒板の式に目を戻す。 たしかに、そうだ。見落としてた。


「って、あれ、計算ミスしてない?」

「しそうだったけど、まだ踏みとどまったわ。ギリセーフ」

「怖っ……先生より厳しいじゃん」

「先生は甘すぎるの。連立方程式に同情してもらえると思わないで」


さっきまでの緊張が、わずかに溶けた気がした。 言われた通りに式を変形し、代入して、計算。 ゆっくりと手を動かすうちに、数式がようやく形を持ち始める。


やっとのことで最後の答えまでたどり着き、チョークを置いた。 教室の空気がふっとゆるむ。


「お、正解。よく粘ったな」


小川先生が頷いた。 拍手もない。歓声もない。ただ静かな肯定。 だけど、それがいちばん心に沁みた。


席に戻ると、隣の結城がこっそり肘で私をつつく。


「ねえねえ、今の見た?紗月ちゃん、 完全に“ちょっと気になってます”案件だったよね」

「いやいや、どこからその解釈が出てきた」

「だってああいうふうにアドバイスくれるとか、漫画ならもう次のコマで顔赤くなってるやつだよ?」

「むしろ冷静だったけど」

「それが“わかってる距離感”なんだってば〜」


くだらない会話に紛れながらも、視線だけはちらりと右へ向ける。


紗月さんの席は、私のすぐ右隣。 一応“偶然”ということになっているけれど、その距離感はまるで常時監視モード。


助け舟なんていうほど甘くない。 ほんの助言。 でも、あの助言がなければ、私は黒板の前でもっとずっと凍りついていたと思う。


「さっきの……助かった。ありがと」


自分でも驚くくらい小さな声でつぶやいた。 教室のざわめきの中に消えてしまったかもしれない。 けれど、紗月さんのペン先が、ほんの一瞬だけ止まったように見えた。


「……どういたしまして」


静かな返答だった。 それ以上でも以下でもない。 でも、その一言がとても嬉しかった。


そのあとの授業時間、私は初めて、ノートをちゃんと取った気がする。 数式の意味はまだ半分も理解していないけれど、指先だけはやけに軽かった。


机の右側から、規則正しく走るペンの音。 そのリズムが、不思議と心地よかった。


──そして、その日の授業の終わり際。


「ねえねえ、紗月ちゃん」


結城が突然、軽い声で紗月さんを見た。


「紫音ちゃんのこと、なんて呼んでるの?」

「……瀬名さん、よ」

「え〜、それじゃ他人行儀すぎない? しーちゃんとか、どう?」

「やめて」


私は即答した。


「紫音ちゃん本人が嫌がってるなら却下だね。じゃあ、しおちゃん?」

「どこまで変形する気?」

「愛を込めて、しのぶん!」

「やだよ、そんなの」


紗月さんは何も言わなかったけど、たぶん笑いを堪えてた。 結城が隣にいると、どうにも気が抜ける。


そして私は、ふと自分のノートに目を落とす。 ぐにゃぐにゃの数字。曲がった文字。


「その書き方だと、後で自分でも読めなくなるわよ」


紗月さんの声。


「そういうのは、私が言う前に気づきなさい」

「はい、すみません……」


注意されてるはずなのに、なんだかそれがちょっとだけ嬉しかった。


(……あれ。私、“私”って、いつから……)


気づいたときには、自然と“俺”ではなく“私”と考えていた。 この世界の生活が、ゆっくりと、確実に染みついてきているのかもしれない。 そのことに、少しだけ戸惑いを覚えながらも、私は静かにノートをめくった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ