第13話:朝の静けさと、思わぬ声掛け
目覚ましが鳴る前に目が覚めてしまった。
まぶたを開けた瞬間、時計の針はまだ6時前を指していた。
本来なら二度寝したっていい時間。でも私は、迷わず布団を出て洗面所に向かった。
水で顔を洗う。冷たい感触が皮膚に染みて、頭の奥の眠気をごっそり持っていってくれる。
鏡に映る自分は、昨日と同じ制服を身につけていた。
でも、なぜかほんの少し、立ち方が変わっているような気がした。
「……いや、気のせいか」
昨日の夕方、図書室で白原先輩と話したこと。
観察。ずれ。指の動き。
ふと思い出すたびに、なんとも言えない気持ちが胸の奥でうずく。
(別に、悪い感じじゃなかったけど……)
重くもなく、軽くもない。けど、それは確かに“会話”だった。
(誰かと、ちゃんと話すって、こういう感じだったっけ)
制服の襟を直しながら、ふと自分が昨日よりほんの少しだけ整っているような気がした。
自分でも、何が変わったかは分からないけど。
登校時間よりも早く家を出た。
通学路はまだ人影がまばらで、朝の空気は少しひんやりしていた。
(……早く起きるって気持ちいな)
学校に着いて昇降口に入ると、やっぱりほとんど誰もいなかった。
靴箱の前で一呼吸置いて、スリッパに履き替える。
教室に向かう階段を上るとき、ふと昨日の自分の足取りを思い返してしまった。
(火曜日から立ち方が変わった……とか言ってたよね)
それが本当かはわからない。
けれど、あの人が言うと、全部真実味があるのがまた腹立たしい。
教室のドアを開けると、まだ誰も来ていなかった。
「……ふう」
席に座って、鞄を机に置く。
窓の外を見ると、朝陽が少しずつ昇ってきていて、校庭の隅をやわらかく照らしていた。
誰もいない静かな教室。
この感じ、落ち着く。
「……早いのね、来るの」
その声がしたとき、私はちょっとだけびくっとした。
「白雪さん……おはようございます」
「おはよう。驚かせたならごめんなさい。まさか、あなたが一番とはね」
「眠れなかったんです」
「そう。……理由は聞かないわ」
紗月さんはそう言って、すっと教室に入ってきた。
髪も制服も、どこも乱れがない。
まるで、さっきまで教科書の中にいた人物が現実に歩いてきたような雰囲気。
「白雪さんは……いつも早いんですか?」
「ええ。朝は、教室がいちばん無音に近いから」
「なるほど……。それ、わかる気がします」
「ふふ。似たもの同士かもしれないわね、私たち」
窓際の席に向かいながらそう言う紗月に、私は思わず聞いた。
「……昨日のこと、何か……気にしてましたか?」
「昨日のこと?」
「白原先輩と……話してたの、見ました?」
「ええ。たまたま廊下を通った時に、少しだけ。気になったの」
「……そうなんですね」
「でも別に、咎めるつもりはないのよ。むしろ、あの人と話せるなんて、あなた結構すごいわ」
「え、すごい……んですか?」
「彼は、誰にでも興味を示すようでいて、そうじゃない。観察対象は、絞ってる」
「……だから、気をつけた方がいい……とか?」
「そうね。人によっては、観察っていうのは“解剖”に近いものになるから」
私は思わず、自分の手を見た。
何かを隠してるつもりはない。でも、知られたくないことは山ほどある。
「でも、彼があなたを見てる理由……なんとなく、わかる気もする」
「……どうしてですか」
「あなたって、“作ってる”感があるの」
「……」
「いい悪いじゃない。私だってそう。でも、彼はそういうのをちゃんと見抜いて、興味を持つ。だからこそ、彼の言葉に振り回されすぎないでね」
「……はい」
返す言葉は、それしかなかった。
でもその「はい」は、嘘ではなかった。
(言い当てられた……のかもしれない)
紗月さんは、もう私から顔を逸らして教科書を開いている。
それ以上は何も言わなかったけれど、その横顔が、なぜか妙に静かだった。
(変な人ばっかりだ、この学校)
けど、そう思ってる自分が、少し笑っているのにも気づいてしまった。
そのとき、教室の扉ががらりと開いた。
「おはよ〜っ、あれ? 早くない?」
結城だった。元気な声が教室に響き、さっきまでの静けさが一気に吹き飛ぶ。
「うわ、うるさいのが来た……」
私がつぶやくと、紗月さんはそっと目線をそらして、静かに教科書をめくった。
まるで、さっきの会話は全部夢だったかのように。
結城は私の席に来て、机に手をついてぐっと顔を近づける。
「なになに、なんか面白いことあった? てか、朝から何話してたの?」
「べ、別に……」
「ふ〜ん……なんか怪しい。紗月ちゃんと二人っきりで会話してたとかレアだし」
私が黙っていると、ふと目に入った紗月さんの横顔。
視線は教科書にあるけど、ページはまったく進んでいない。
チャイムが鳴る。
朝の始まりの音が、教室の空気を少しずつ動かし始めた。