第11話:図書室の影と、正体不明の待ち人
放課後。
教室の中には、もはや私一人きりだった。 机の上には閉じたノートと教科書、そして鞄。その中に一通の手紙。
白い封筒に、丁寧な文字で私の名前が書かれていた。 “瀬名さんへ”。
あの時は、ただのいたずらだと思いたかった。けれど、便箋に綴られた文章は淡々としていて、それでいて不思議な熱を帯びていた。
私は、なぜかそれを無視できなかった。
「……ほんと、何やってんだろ、私」
誰もいない教室で呟いてみても、返事は返ってこない。 鞄を肩にかけて、立ち上がる。 夕暮れの陽が、窓から斜めに差し込んでいた。
廊下に出ると、すれ違う生徒は誰もいなかった。 掃除の時間も終わり、部活動の声すらこのあたりまで届かない。
校舎の奥、図書室へと向かう。
途中、窓に映った自分の姿に足が止まった。 制服を着ている。 スカートを履いて、髪を結び、“女子高生”の格好をしている。
(……慣れてきたと思ってたけど……)
転校してまだ数日。 いや、それ以上に、“自分が女の子である”という現実に、私はまだ完全に馴染めていなかった。
だからこそ、今日のあの手紙は戸惑いしかなかった。
誰が、何のつもりで——
図書室の前に立ち、ゆっくりと扉を開ける。
キィ……という音が、やけに大きく感じた。
本棚が並ぶ静かな空間。 窓際に、ひとつだけ人の姿があった。
(......あの人?)
背筋の伸びた、その人物は机に肘をつくこともなく、じっと窓の外を見ていた。 夕日を背に、その輪郭だけが浮かび上がる。
一瞬、女子かと思った。 だが、細身ではあるが背は高く、制服の着こなしも整いすぎていて——どこか“完成された”感じがした。
近づくにつれて、その姿がはっきりしてくる。
そして、相手がこちらに気づいて、ゆっくりと椅子から立ち上がった。 振り返ったその顔。
端正で、どこか中性的。 けれど声は、はっきりとした“男”のものだった。
「瀬名さん、ですよね」
その声を聞いた瞬間、私の中で何かがはじけるような感覚が走った。
(……あっ、そうだ。見たことある。あの時——)
転校初日。 昇降口で先生に案内される途中、階段の上で誰かが立ち話していた。 その時、ちらりとだけ目が合った。
声は交わしていない。 それなのに、妙に印象に残っていた。
今、目の前にいるのは——その時の人物。
私は無意識に、手に持った鞄の紐をきゅっと握りしめた。
「……あなたは?」
「白原 澪。三年生です」
その名前に聞き覚えはなかった。 でも、“白原”という響きに、どこか上品な印象を受けた。
「手紙、読んでくださってありがとうございます」
「……何が目的ですか?」
思わず、語気が強くなった。 澪は驚いた様子も見せず、微笑を保ったまま言った。
「目的、というほど明確なものではないです。 ただ、初日にあなたを見かけて、それから何度か……廊下で、図書室で、偶然ですけど」
「偶然、ですか」
「ええ。見るつもりがあったわけじゃなくて。でも、目に入ってしまうというか……」
「それって……ただのストーカーみたいな言い方ですけど」
私の皮肉に、彼は困ったように笑った。
「……確かに。弁明の余地がありませんね」
「満面の笑みでストーカー発言されても怖いだけなんですけど」
「怖がられるのは本意ではないので、今日こうしてちゃんと話せてよかったです」
「あなたの“本意”って、まだ不明なんですけど」
「そう言われると、反論できません……」
彼の口調は、妙に丁寧で、でもどこかズレていて。 真面目なのに、それが会話としてちょっと面白くなってしまう。
私は、思わずふっと息を漏らした。
「……ちょっとだけ、マシな印象になりました」
「ありがとうございます。マイナスからゼロへは大きな進歩です」
その真顔が、またなんか面白い。
「……で、何がそんなに気になったんですか」
「あなたの“ずれ”です」
「……え?」
「歩く時、立ち止まる時、座る時。少しだけ、周囲とズレてるような……。 それが、誰かの型をなぞっているように見えたんです」
(……気づかれてる?)
「観察好きなんですか?」
「興味のある対象には、少しだけ」
「“少しだけ”って、どのくらいです?」
「一週間でノート三冊くらい使います」
「完全に変態じゃん」
「事実に誠実なだけです」
(その笑顔やめろ。中身まで見通してくるタイプのやつじゃん……)
「話しすぎてすみません。もし眠くなったら、寝ても大丈夫です」
「寝ないから。どんな面談だよ」
その時だった。 私が澪の向かいの椅子を引こうとしたとき—— ギギギギ……と、思っていたよりずっと大きな音が図書室に響いた。
静かな図書室だったから、その音がやたらと目立つ。 まるで「はい今から座ります!注目!」みたいに自己主張してきて、私は一瞬固まった。
(うわ……なんでこんな音鳴るの。図書館のくせに椅子鳴りすぎでしょ……)
対面の澪も、目をぱちぱちさせて一瞬きょとんとしていた。
会話は奇妙な方向に進みながらも、なぜか自然だった。私自身も、少しずつ“この空間”に馴染んでいるのを感じる。 けれど。
「でも、やっぱり変ですよ。 私なんかに手紙送って、ここで待ってたって……どう考えても漫画の導入」
「でも、こうして物語は始まったわけです」
「物語って……」
「違うと思ったら、ここで終わってもいいんです」
そう言って、澪は穏やかに微笑んだ。 その笑顔の奥に、何かがあるような、ないような。
私は、曖昧なうなずきを返しただけで、静かに彼の向かいの椅子に腰を下ろした。 ギギギ……とまた鳴った。