第10話:白い封筒と沈黙の一秒
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室内が一気にざわついた。 椅子が引かれる音、弁当袋を取り出す音、窓を開ける音、どこからか「今日のハンバーグ当たりじゃね?」という声。 空気が一瞬にして“授業”から“昼”へと切り替わる。
私はノートを閉じ、軽く伸びをしてから教科書をまとめて、机の中にしまう。中に手を入れたとき、何か違和感に気づいた。
……机の中に、見慣れない“白い封筒”が入っていた。
(……え? 何これ)
封筒は真っ白で、印刷もロゴも何もない。ただ、封の裏側、差し出し口の内側にだけ、小さな丁寧な文字で「瀬名さんへ」とだけ書かれている。
まるで誰にも見られたくなかったように、静かに置かれた封筒だった。 結城が私の左で騒いでいる。「これ見て! 卵焼き焦げてるんだけど、芸術レベルじゃない?」 けれどその賑やかさとは裏腹に、私の頭は一気に静かになった。
(誰が? 何のために?)
そっと封を開ける。 中には、薄い便箋が一枚だけ入っていた。
『いつも静かに佇んでいるあなたが気になっています。 よければ、お話しできませんか。 場所は、放課後、図書室の窓際で——』
文面は、達筆でもなければ、派手な装飾もない。 けれど、一言一言が妙に整っていて、真剣な気配が滲んでいた。
(この文体……なんか“教科書っぽい”というか……年上感ある……)
現実味がない。 だって、私は“こういうの”をもらうようなキャラじゃない。 むしろ避けられる側だと思ってた。
「……紫音ちゃん、それなに?」
はっとして顔を上げると、隣で弁当を広げていた結城が、箸を止めてこっちを見ていた。
「封筒……? えっ、なにそれ? それって、まさかの……え、手紙!? 読ませて!」
「ちょっ、だめ」
「えー! ケチー!」
身を乗り出す結城に慌てて封筒を胸の前に抱える。
「ちょっと見せてよ〜。え、なに? ラブレター!? えっ、まさか!? 私!? いやいや、私じゃない!でももし私だったらどうする!? …いや違うって言ったでしょ」
「ほんとに騒がしいな……」
「で、で!? 誰からなの!? クラスの誰!? それとも隣のクラス!? え? えっ!? えっ……紗月ちゃんじゃない?」
そのときだった。
「違うわよ」
紗月さんの声が、思いのほかはっきりと響いた。 教室のざわつきの中でも、なぜかそれだけがくっきりと耳に届いた。
結城はにやっと笑いながら、「おっとぉ〜」と首をすくめる。
「そんな即答されたら逆に怪しくなるってやつだね〜」
「黙りなさい、結城さん」
「え〜!......あれ?この筆跡、なんか見覚えある気しない? ねえ紗月ちゃん、筆跡見せてくんない?」
「断るわ。提出する義務はないもの」
「ぎゃーん、冷たい〜〜! 公開捜査だったのに〜〜」
そして突然、結城が鼻を手紙に近づけてくんくんし始めた。
「…… これ、匂いする。ほら、なんか……柑橘系っていうか、柔軟剤みたいな……え、匂いつき便箋!? 本体の香り!? えっ、恋文の香り!?」
「落ち着いて」
「むり〜。この香り、犯人のヒントでは!? ねぇ、紗月ちゃん嗅いでみてよ」
「嗅がないわよ。くだらない」
その言葉が出た瞬間、紗月さんの表情が微かに揺れた気がした。
そのやり取りを聞きながら、私はそっと便箋をたたみ、封筒に戻す。 机に突っ伏すわけにもいかず、でも手紙の内容がずっと頭の中で繰り返されていた。
(……どうするべきなんだ、これ)
まさか、こんな展開になるとは。 放課後、図書室の窓際。明らかに“話すだけ”の雰囲気じゃない。 でも、断る理由も、行く理由も、どっちも浮かばなかった。
そんな私の様子を見ていたのか、紗月さんが、視線を落としたままぼそっと言った。
「……興味は、あるの?」
「え?」
「その手紙の相手に。会ってみたいとか、話してみたいとか、思ったのかしら?」
「いや……別に、考えてない」
「ふうん。じゃあ、いいわ」
そのあと、ほんの一瞬の沈黙が落ちた。 私は、なんとも言えない居心地の悪さで、ごまかすように水筒を開けて一口飲んだ。
結城が箸を置いて、わざとらしく咳払いした。
「っていうか、紫音ちゃんって、ラブレターもらって戸惑うタイプなんだね」
「そりゃ戸惑うでしょ。こっちは男だぞ」
「……え? どゆこと?」
しまった、と思った。 けれど、すぐに言い直す。
「……いや、ほら、感覚的に。まだそういうのに慣れてないって意味」
「ん〜〜? 怪しいなぁ〜〜? なにそれ、元男子みたいなこと言ってる」
「そっちの方向のネタじゃないから。ちょっと黙ってて」
「い〜や〜〜〜〜」
「ほんと黙りなさい」
紗月さんが鋭く言うと、結城はすぐに「ひゃいっ」と口をつぐんだ。
そして少しして、結城が小さな声でつぶやいた。
「……で、紫音ちゃん、その人に会ったりするの?」
「……さあ、どうだろう」
「一人で?」
その声に、さっきまで黙っていたはずの紗月さんが、ほんの一言だけ割り込んできた。
「……他に誰が一緒に?」
「えっ……誰って、別に……」
「……」
言葉のやりとりはすぐ終わる。 でも、空気の温度だけが妙に変わった気がした。
昼休みの喧騒の中で、私の中だけは静かだった。 だけど、封筒の感触だけが、妙に手に残っていた。