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ショートゴロ(いっぺんに読みたい人はコッチ)

本編をギュッとまとめたやつです。

内容は全く同じです。

カラン、コロンと、どこかで空き缶が転がった。今朝は風がやけに強い。洗濯物なんて干せないのに、ベランダの洗濯竿がギチギチうるさくて、耳障りだった。シンクの前には、昨日の夕飯の残骸。茶碗の底に乾いた味噌汁の膜がこびりついている。フライパンの中には、焦げついた豚肉の脂。箸でつつく気にもならない。そしてなぜか、灰皿代わりに使われた小鉢がひとつ。食器じゃない、ただのゴミ。私は、スポンジを持ったまま少しだけ立ち尽くして、それから一つずつ無心で片付けていく。ソファの方から、かすれた声がした。

「……水……」

父だった。まだ寝てるのか起きてるのかも分からない声だったけど、私に向けての要求だけはいつも明確だ。私は無言で水道をひねって、コップに水を注ぎ、リビングのテーブルに置いた。もちろん氷なんて入れない。入れる意味がない。

「おい、真白(ましろ)……聞いてんのかよ」

また声がした。反応しなかったら、少し語気が強くなった。

「水。持ってこいって言っただろ」

皿をすすぎながら、私は一言だけ返した。

「テーブル置いてあるじゃん」

それっきり、会話は止まる。私は水の音に耳を預けるふりをして、父がどうするかを気にしていた。気にしてる自分に気づくのが、ちょっとだけ腹立たしい。しばらくして、ギシ、とソファのバネが鳴った。父がむくんだ顔でこっちに来て、水を取った気配がする。視線を感じる。見てる。きっと、何か言いたい。でも、それを形にできない。代わりに、こう言った。

「昨日、YouTubeで見たんだよ。昔の試合、俺が出てたやつ。懐かしくてさ。……ショートゴロな。0.5倍速で見たら完璧だった。ステップ踏まずに一塁アウト。今のガキどもにはできねえやつだよ」

その声は少し楽しそうだった。けど私は、箸をすすぐ手を止めなかった。父の話には意味がない。思い出しているだけの独り言。私に聞かせるようでいて、聞かせる気はない。だから、私も聞かない。

「当時の監督がな、“あのプレーを忘れるな”って言ったんだ。あれは誇りにしていいって。……なあ、真白。友達に見せたらさ、“あの鳥谷丈一(とりたにじょういち)の娘さんですか!”って言われるぞ。……はは、ウケるな」

なんもウケない。

私は布巾で皿を拭きながら、ゆっくりと父の方を見た。何も言わず、まばたきもせずに、ただ見た。父は、一瞬で目を逸らした。そのまま、ソファに沈んでいった。

カラン。

風が缶を転がしていた。朝なのに、夜の匂いが抜けてくれない。

ひと通り洗い終わり、リビングへ向かうと、床一面に見覚えのないグローブと、ボロボロのスパイク、そして、汚れたユニフォームが広げられていた。干からびた皮のにおいと、カビくさいような何かが混じって、部屋の空気がいつもより重く感じた。

「さわんなよ」

父の声が聞こえたときには、私はすでにスパイクの紐をまたごうとしていた。でも足を止めた。というより、止めざるを得なかった。その言い方が、いつものぼそぼそした感じと違って、なんというか、痛みに近かったから。

「そこ、通れないんだけど」

私はできるだけ平坦な声で言った。怒ってないふりをしながら、でも明らかに“わざと”そう言った。

「なら遠回りしろよ。踏んだら殺すぞ、そんなもん」

父は座椅子に座ったまま、グローブの指をゆっくりと開いたり閉じたりしていた。ああ、それだけは真面目なんだ。今でも。くだらないって、思った。でも、少しだけ羨ましいとも思った。

「まだこれ捨ててなかったんだ」

私は小声で言って、すぐに後悔した。案の定、父はその一言に食いついた。

「バカか、お前。捨てるわけねえだろ、こんなもん。……これはな、プロ入って一年目の開幕戦のやつだ。6-4-3のゲッツーに繋がるショートゴロを三つと、普通のショートゴロを一つ捌いた日。全部でアウト七つ。お前、わかるか? 一試合で七つアウトとるってのが、どんな意味かわかんのか?」

本当に何を言っているのか判らなかった。でも、わかったふりをする気にもなれなかった。だから私は、定型文を使った。

「……そっか。すごかったんだね」

「すごかったんだよ。ってか、今もすごいんだよ。こいつはな……今でも投げられる。筋肉の形が違ぇんだよ」

グローブをはめたまま、父が拳を握った。その横顔は、誰かに見せるための表情だった。でもこの部屋には、私と父しかいない。私は遠回りしてキッチンへ向かい、冷蔵庫から牛乳を取り出した。それだけのことなのに、背中に視線がずっと突き刺さっていた。

「……なあ、真白」

父が呼び止めた。

「今の野球って、セカンドが深く守りすぎなんだよな。ショートの守備範囲、信じてねえんだよ。過去宮かこみやとか、原田はらだとか、俺には及ばないにしても『名手』はいるのに……お前、知ってたか?」

「知らない」

牛乳パックをそのまま飲みながら答えると、父はしばらく黙った。その沈黙の長さが、なんとなく苦しかった。

「……俺の時代のショートは、もっと前に出てた。もっと、信じられてたんだよ」

またその声だ。語るんじゃなくて、思い出しているだけの声。懐かしいんじゃない。戻れないってことを、じわじわ味わってる声。私は、牛乳特有の甘さが急に気持ち悪くなって、シンクに戻して吐きそうになるのをこらえた。床にはまだ、あのスパイクがある。父が言った。“踏んだら殺す”。その言葉が、ずっと頭の中で鳴ってた。私はキッチンに立ったまま、冷蔵庫のドアを開けたり閉めたりして時間を潰した。ほんとは逃げ出したいだけだった。やがて父は、家の外に出ていった。



「ガキがよ、ガキがっ……!」

玄関のドアが開いて、靴音が荒く響いた。父が、いつもの薄いスウェットにスリッパを引きずって戻ってきた。私は冷蔵庫の前に立ったまま、何も言わずに彼の様子を見ていた。額には汗、手には何か茶色い袋、口元は吊り上がって、眉間には深いシワ。

「あのクソガキ、調子乗りやがって!石ぶつけやがったんだ、俺に!分かるか?石を!大人にな、顔面に!」

私は黙って水を飲んだ。できるだけ何も言わず、嵐が過ぎるのを待つ。この家のルール。返事をすれば火がつく。目を合わせれば跳ね返ってくる。頷くか、黙るか、それだけでいい。

「……俺が誰かわかってんのか、あのクソガキ!鳥谷丈一だぞ!プロのショートだぞ!? てめえみてぇなガキが石ぶつけていい人間じゃねえんだよ!」

父がビニール袋をテーブルに叩きつけた。中から缶チューハイが転がって、床に落ちて、「ドン」と、重い音を鳴らした。私は視線を落として、それが止まるまで見ていた。

「警察呼ばれてもおかしくねえだろ、こっちは被害者なんだからよ!……なあ真白、お前もそう思うだろ!?」

思わない。

でも言わない。

「俺はよ……昔から誰にも理解されねぇんだよ。ずっとそうだ……あの女もそうだった。お前の母さんもよ。俺をバカにして、いつも上から見てきやがって……」

私はその瞬間、ふっと背中に緊張が走った。“母さん”って単語は、この家では地雷だった。言う側も、聞く側も、そこに踏み込む覚悟なんて持ってない。

「逃げやがって……俺を捨てやがって。お前が生まれてすぐだったな。あいつ、言ったんだよ。“この人は危ない”って。“この子に手を出したら終わりだ”って。お前覚えてねえか?……俺は、ただちょっと、怒鳴っただけだったのによォ……!」

手が、上がった。

ほんの一瞬だった。

私の前に父の腕が来て、止まった。頬に触れる寸前だった。触れてはいなかった。でも、空気が殴ってきた。

「……やってみなよ」

私は言った。声が、自分のものじゃないみたいに低かった。

「殴れば?また逃げればいいんじゃない、誰かが」

その瞬間、父の表情が変わった。怒っているというより、動揺していた。自分でも、手が勝手に上がったことに驚いてるような、そんな顔。

「……俺は……」

何かを言いかけたけど、最後まで言わなかった。そのまま、手を下ろして、崩れるように椅子に座った。私はキッチンに戻って、水をもう一杯飲んだ。口の中が砂みたいに乾いていたのに、喉は全然潤わなかった。

その背中に向かって、父がぽつりと呟いた。

「ぶつけてやったんだ……俺の方から、先に」

私は聞こえないふりをした。風の音と同じ、ただの雑音として流した。



テレビの音がしていた。音量を絞っても、深夜のニュースのアナウンサーの声は、部屋を妙に真面目な空気にする。私は、消したリモコンをもう一度握って、何も考えずに無音にした。父は布団で寝ている。いつもどおり、酒を飲んで、シャワーも浴びず、煙草の匂いをまとったまま。私の部屋と呼べる場所はなくて、押し入れの前に敷いた布団が“私のスペース”だった。

座って、足を抱えて、ひたすら目を閉じる。

眠れないのはもう慣れてる。眠れない夜が続くと、眠ること自体が面倒になる。

「……ショート……ゴロ……だった……」

突然だった。呼吸と寝息の中に、ぼそりと混じった声。私は、背中に冷たい感覚が走るのを感じた。目は閉じていたけど、耳は勝手に音を拾っていた。布団をすれる音、窓を叩く風、そして、父の寝言。

「……俺が……ちゃんと……」

それきり、声は消えた。

“ショートゴロだった”。

その言葉が、どうしてだか、耳から離れなかった。野球の用語だってことくらいは知ってる。だけどそれ以上の意味は、わからない。

ただ、なぜだか。

あの父が、あんなに無防備な声で、あんな静かなトーンで、それを言ったことが——胸の奥に、引っかかった。

目を開けても、部屋は真っ暗で、何も変わっていなかった。それでも、“何か”が変わった気がした。

些細で機微だけど、無視できない“何か”。私は、毛布の中で小さくつぶやいた。

「……ショートゴロって、何……」

誰にも聞かれてないはずのその声が、壁に当たって、静かに返ってきた気がした。



どうしても眠れなかった。いつものことだけど、今日は少し質が違った。いつもみたいに息を殺して寝る時間じゃなくて、ずっとなにかが、耳の奥に張りついてる感じ。それが何かは、わかってる。父の寝言——あの一言。

「……ショートゴロだった……」

呟きじゃなくて、呪文みたいに響いて、ぐるぐる回ってる。何が“だった”のかも、なぜ今それを言ったのかも、なぜそれを私はこんなに気にしているのかも。わからないまま、でも引っかかってる。私は、そっと布団を抜け出した。玄関の引き戸を開けると、夜風が頬を撫でた。冷たいっていうより、乾いてる。皮膚が薄い紙みたいになっていく感覚。アパートの前の坂道には、空き缶がひとつ、転がっていた。誰かが捨てたやつだ。私の家のじゃない。

蹴った。

ガラン、と転がって、止まった。

もう一度蹴った。

音が少し遠くに行って、それでも響いた。耳から離れないって、こういうことなんだと思った。父の言葉も、部屋の匂いも、あのスパイクの光り方も。ぜんぶ、音になって残ってる。

私は空を見上げた。星はなかった。街灯すらまともについてない坂の途中で、私は初めて“調べてみよう”と思った。それがなんなのか、まだわからない。ただ、父の記憶の中に何かが埋まってて、それが“自分のこと”に繋がってるような気がして。

“あの人を、知らないまま家を出るのは、なんか嫌だ”

そんな風に思ってる自分に、少しだけ腹が立った。でも、そのまま私は、玄関の扉を閉めて、部屋の中に戻った。布団に入って、目を閉じる。眠れないのは変わらないけど、朝が来るのがちょっとだけ怖くなくなった。




新聞は取っていないけど、ポストは見に行く。いらないチラシでも、何もないよりはマシだ。

その朝は、風がやんでいた。前の晩に転がっていた缶は、誰かに片づけられたらしい。というより、風に吹き飛ばされたのかもしれない。階段を下りると、ポストの奥に、小さな封筒が挟まっていた。茶色い紙、のりが黄ばんだ古い封筒。宛名はない。切手も貼られてない。でも、裏に封をするように貼られたセロテープが、妙に丁寧だった。部屋に戻って、テーブルの上で開けた。

一枚だけ、手紙が入っていた。白い便箋。罫線が入っていて、縦書き。字を見た瞬間に、わかった。この字を、私は知っている。

母の字だ。

「——あのショートゴロだけは、彼の誇りだった」

それしか書かれていなかった。

本当に、それだけだった。

誰宛でもなく、名前もない。挨拶もない。けれど間違いようもなく、母の字で、母の文だった。あの人は、たしかに、こんな言い方をする。

“誇りだった”——こんなふうに過去形で言うくせに、否定しない。

“だけは”なんて限定を入れるくせに、すべてを守ろうとする。

気づいたら、手紙をテーブルの上に何度も叩きつけていた。紙だから大きな音はしない。でも、自分の心臓の音だけがうるさかった。

なにこの文。

今さら何。

逃げたくせに、何も言わなかったくせに、私のことなんか一回も振り返らなかったくせに。なぜ今、そんなことを、私に。

ソファの方を見ると、父はまだ寝ていた。口を半開きにして、だらしなく、無防備に。私は立ち上がり、思わず手紙を握ってその顔の前に突き出しかけた。

「……これ、見て言える?」

そう呟きかけた瞬間、足が止まった。いや、言っても、わかるわけがない。わかる人なら、もう少しマシな親父になってる。私はゆっくりと手紙を丸めて、ポケットに突っ込んだ。何もなかったふりをして、台所に立つ。ガスコンロの火をつけて、やかんに水を入れる。その間にも、あの一文が脳内で何度も反復されていた。

“あのショートゴロだけは、彼の誇りだった”

なんなんだよ、それ。なんの話なんだよ。それを知ってどうすればいいんだよ。でも、知りたいと思ってしまった。



三回目を読んだあと、私は手紙を机に押しつけた。

四回目を読んだときには、内容はもう暗記してた。

五回目には、字のかすれ具合を目で追っていた。


たった一行しか書いてないくせに、なぜこんなに、読むたびに違う顔をするんだろう。同じ文で、感情が揺れるなんて、バカみたいだ。

“あのショートゴロだけは、彼の誇りだった”

なんで“だけは”なんだよ。

他には誇れることなんてなかったって意味?それとも、“それ以外は全部ダメだった”ってこと?

しかも“だった”って、過去形。

今はもう、誇りにする価値もないってこと?

なにこの言い方。なにこの温度。

たぶん——いや、絶対、母だ。あの人の文体、語尾の使い方、漢字の偏り、癖のある“の”の形。字をなぞっているうちに、声の質まで思い出していた。

あんなに忘れたつもりだったのに。もう二度と関わることはないって思ってたのに。いまさら、たった一枚の紙切れで、心臓の奥を撫でてくるなんて。

「……クソが」

小さく声に出した。

でも声は震えてなかった。たぶん。

ポケットから手紙を出して、もう一度見る。破いて捨ててやろうかとも思った。けど、指が勝手に折り目を揃えてた。

意味なんかないのに。これを読んだからって何が変わるわけでもないのに。

私の今が、楽になるわけじゃないのに。

……なのに。

なのに、これをもらってちょっと嬉しかったと思ってしまった自分が、一番腹立たしい。

私だって、忘れられてないって証明されてしまった。

私のことを、母はまだ知ってる。この家に、私がいると知ってる。だからこの手紙が届いた。

知ってしまった。気づいてしまった。

——それが、一番、きつい。



朝、リビングのテーブルに手紙を置いたまま、私はコップに水を注いだ。父はいつもより遅く起きて、無言でその手紙を見た。

——というイメージが、頭の中で何度も再生された。

けど現実の私は、手紙を机に置かなかった。水を注ぎに行くことすらしなかった。

そんなことしても、どうせ「なんだこれ」で終わる。

あるいは「見せるな」と怒鳴られる。どっちにしろ、こっちが損をするだけ。

結局、私は手紙をノートの間に挟んで、鞄に突っ込んだ。父は寝ていた。また、昨晩のチューハイの空き缶がいくつか、倒れたまま床に転がっている。

私は小さなため息をついて、部屋を出た。

学校には行かなかった。制服のまま、コンビニのイートインに入って、ホットミルクを買って、無料のWi-Fiに繋いで、スマホを開いた。なんのつもりでやったのか、自分でもわからなかった。

ただ、無意識に、検索欄に名前を打っていた。

「鳥谷丈一」

しばらく読み込みが続いて、検索結果が表示された。

けれど、出てきたのは、古い寄せ集めの野球ブログとか、2ちゃんの過去ログとか、“同姓同名の別人”のFacebookとか、そういうのばっかりだった。

Wikipediaすらない。

元プロ野球選手なのに?

私は眉をひそめて、キーワードを増やしてみた。

「鳥谷丈一 ショートゴロ」

……なし。

「鳥谷丈一 引退試合」

……出ない。

私はスマホの画面を指でスクロールしながら、胸の奥がざらざらしていくのを感じた。情報が“ない”ことの不気味さって、こういうことだ。

検索ワードを工夫すれば出てくるんじゃなくて、そもそも、最初から存在が曖昧にされてる気配。

まるで——

まるで「誰かがこの人をネット上から消そうとした」みたいに。

“有名人だった人”の痕跡がこんなに薄いなんて、どう考えてもおかしい。私はホットミルクの紙コップを持ち直して、もう一度“ショートゴロ”という言葉だけで検索した。そのプレーの意味を、知っているわけじゃなかった。でも、父が寝言で言って、母が手紙に書いた、その言葉の重なりに何かがあると思ってしまった。

検索結果には、教科書的な野球の解説サイトが出てきただけだった。何もヒントにはならなかった。

でも逆に、何も出てこないことが、いちばんの手がかりなんじゃないかと、思ってしまった。



市立図書館は、昼過ぎのくせにやけに静かだった。平日のこの時間、いるのは老人と浪人生だけ。その中で制服のまま一人、古い新聞の縮刷版に食い入るようにしている女子高生は、たぶん少し浮いていた。

私は「鳥谷丈一」を検索したスマホを鞄にしまい、閲覧PCでアーカイブを探し始めた。キーボードを打つ手はなんだか落ち着かないで、震えている。別に誰に見られてるわけでもないのに、気持ちがざわざわしていた。

——まずは、プロデビューの年から。

スポーツ欄の片隅に、父の名前が確かにあった。

「期待のルーキー、川岳高専のドラ1鳥谷、開幕スタメン」

「軽快な守備でプロ初試合、3ゴロ処理」

読んだこともない父の人生が、活字になって目の前にあった。なんだよ、ちゃんとすごかったじゃん。

そう思った自分に腹が立った。

少しずつ年を追って読み進めていく。怪我の記録もある。交代要員としての登録、ファーム落ち。徐々に名前が記事から消えていく。

それでも、私は知っている。父は、ある年に突然、すっぱりと姿を消した。その年を目指して、新聞を繰った。

——だけど。

その年の、シーズン最終戦の記事だけがなかった。

5日前の記事はある。3日前も。だけど、その試合の日付だけ、アーカイブが空白だった。破られてるわけでもなく、ただ——抜けている。

図書館のスタッフに聞いたけど、「そこの一冊だけ、返却されてないみたいですね」と言われた。本当に“返却されてない”のか、それとも、意図的に隠されたのか。判断する材料はなかった。けれど、私の中ではすでに決まっていた。

——これは、偶然じゃない。

誰かが、あるいは父自身が、その日だけをこの世界から消したんだ。例の“ショートゴロ”が行われた、たったひとつの試合。

そこには何かがある。

私は縮刷版を閉じて、少しだけ目を閉じた。浮かんできたのは、寝言をつぶやいていた父の顔。

「……ショートゴロだった……」

それは誇りだったのか、それとも後悔だったのか。母が言った“彼の誇り”って言葉は、皮肉なのか、それともほんとの感情なのか。

分からない。

でも分かんないままでいるのは、もう嫌だった。



帰ったら、部屋の空気が少し違っていた。昼間の陽が残ってるわけでもないのに、やけに温度が高かった。

酒の匂いじゃない、もっと汗っぽい、生っぽい空気。

父はソファに寝転んでいた。テレビは点いていない。電気もつけていない。彼の顔は、何かを飲み込んだ直後みたいに重たくて、沈んでいた。

私は靴を脱いで、静かに部屋の中を通った。手紙のことは言わなかった。図書館に行ったことも。何も話す気にならなかった。代わりに、自分の布団に入って、うつ伏せになった。目を閉じても、脳のどこかがずっと動いてた。

あの新聞の空白。

検索しても出てこない引退記録。

ネットにさえ残ってないプレー。

まるで、全部“無かったこと”にされてる。

でも母は書いていた。

“あのショートゴロだけは、彼の誇りだった”って。じゃあ、誇りになるほどのプレーが、なぜどこにも残ってないの?

父は、酒の勢いで語りたがるくせに、肝心なことだけ絶対に話さない。その矛盾が、ずっと喉の奥でひっかかってた。

「……ショートゴロだった……」

また、あの声がよみがえる。

寝言で、何度も何度もつぶやいていたあの言葉。私の目の前にあるのは、酒と嘘でぶくぶくにふくれた、どうしようもない男。でも、もしかしたらその奥に、

“何かを選んだ一瞬”が、ちゃんとあったんじゃないかって思い始めていた。

母はそれを知ってる。

きっと知ったうえで、家を出ていった。

じゃあ私は?

何も知らないまま、“クズだったから”って理由だけで、この人を切り捨てていいの?

違う。

違うんじゃないかって、少しだけ思ってしまった。そして、その“少し”を自分で潰せなかった。私は布団の中で、天井を睨みながら、喉の奥で言葉を作った。

探すしかないじゃん。

誰も言ってくれないなら、自分で調べるしかないじゃん。あの人が何をしたのか、ちゃんと見届けるしかないじゃん。

——だって私は、

この人の“娘”なんだから。




「鳥谷丈一? あー、懐かしい名前だな」

男は笑いながらそう言って、ベンチの缶コーヒーを口にした。グラウンドには、草野球チームの中年たちがボールを投げている。土ぼこりと湿った汗の匂いが、どこか懐かしく感じた。

男の名前は三井誠(みついまこと)

父と同じ球団で3年だけ在籍していた、元控えのセカンド。今はこの町で、小さなクラブチームのコーチをしている。学校の職員でもないのに、体育倉庫みたいなところにデスクを持っていて、なんとなく威厳がある。

「親父さん、元気か?」

「……まあ、一応は生きてます」

私がそう言うと、三井は少しだけ視線を逸らして笑った。“察した”顔だった。でも何も言わなかった。

「鳥谷のショートはね、キレッキレだったよ。足が速いわけじゃないけど、反応がバケモンだった。特に正面のゴロ、あれは芸術だったな。背番号6番で、構えてるだけで画になるやつだった」

「そうですか」

私は一応うなずいた。けど、内心は浮つかなかった。

“画になる”とか、そういう話が聞きたかったわけじゃない。

「……最後の試合、覚えてます?」

それを聞いた瞬間、三井の顔がほんのわずかに変わった。口元の力が抜けて、視線が遠くへ向いた。

「ああ。あれね」

風が吹いて、砂埃がベンチに入り込んだ。三井は肩をすくめながら、しばらく黙った。

「……なあ、あれ、お前にとってはどういう話なんだ?」

「まだ、わかってないです。ただ、母から“ショートゴロが誇りだった”って手紙がきて。父は酔ってるとよく寝言でそれを言うんです。“ショートゴロだった”って」

三井はその言葉を聞いて、驚いたような、懐かしがるような、どっちつかずの表情をした。

「誇り、ねぇ……まあ、あれを誇りにしてるなら、皮肉だけどな」

「……どういう意味ですか?」

「……鳥谷は、あのとき、わざと落としたように見えたんだよ」

私は、一瞬呼吸が止まった。

「……ボールを、ですか?」

「うん。セカンドとショートのちょうど間に飛んだゴロだった。でも、俺から見たら、あれは“鳥谷が一歩目を遅らせた”ようにしか見えなかった。あいつなら、取ろうと思えば取れたと思う。でも、ほんの一瞬だけ、迷った。いや、迷ったっていうか——演技みたいな間が、あった」

私は、その“演技”という言葉に引っかかった。

「じゃあ……わざとだったんですか?」

三井は首を横に振った。早すぎるくらいに、即答で。

「それはない。絶対にない。鳥谷はそういうやつじゃなかった。あいつ、バカみたいに真面目だったから。

……でも、“誰かのために負けよう”っていう顔はしてた。あんなの、俺、あの試合で初めて見たよ」

あの父が、誰かのために負けようとした?

その“誰か”って、誰?そして、なぜ?

「……真白ちゃん、だっけ。悪いこと言わない、あの試合の話は、ちゃんとした記者に聞いたほうがいいよ。俺らプレイヤーには話されなかったこと、たぶんある。特にスコアに関することとかはね」

「記者……?」

「そう。地元の夕刊紙にいたやつがずっと追ってたんだよ、あの頃。名前は、たしか……志藤、だったかな」

志藤。聞いたことのない名前だった。でも、何かが引っかかった。三井の表情じゃなくて——その声の重さに。

「……ありがとうございました」

私は立ち上がった。お礼の言葉は一応口にしたけど、心はもう、次に向いていた。父は誰かのために、ボールを落とした。“取れた”のに、“取らなかった”。それが誇りだとしたら——私の知らない父は、いったいどんな顔をしていたんだろう。



「探してたのこれで合ってるかわかんないんですけど……」

図書室の隅で、ビデオテープを差し出したのは、放送部の後輩だった。顧問の先生に頼んで探してもらったら、古いスポーツアーカイブの中に、地元球団の最終試合の録画が一本だけ残ってたらしい。市販のDVDとかじゃない。地元のケーブル局が記録用に保存してた、VHSのダビング版。

「……ありがとう。マジで助かった」

「いえ、てか、そんなの何に使うんですか?」

「ちょっと、課題で」

私はそれだけ言って、カバンに詰め込んだ。“父の過去を追ってる”なんて、言葉にするのも野暮ったかった。

——家に帰って、デッキをつなぐのに手間取った。コードの接触が悪くて、再生ボタンを何度も押し直す。

画面がぶれたりノイズが走ったりするたびに、心臓が変なリズムで動く。やがて映像が安定し、「〇〇球団、今季最終戦」というタイトルが流れた。音声はくぐもっていたけど、実況の声は入っていた。名前を呼ばれることはなかった。映っていたのはただ、フィールドをゆっくりパンするカメラと、荒い解像度の画面。

父がいた。ショートのポジション。背中に「TORITANI」とプリントされたユニフォーム。キャップの下からのぞく黒髪。あのだらしない寝顔とはまるで違う。立っていた。ちゃんと。

試合はゆっくり進んでいった。

何人もの打席が流される中、私は息を止めて、その一打を待っていた。

——9回裏。2アウト、ランナー3塁。

ピッチャーがモーションに入り、バットが振られた。打球は、緩やかに跳ねながら、ショートの正面へ。

私の指が、ビデオの再生ボタンに触れたまま、止まっていた。

父の動きは——ほんの一瞬、止まっていた。

一歩目が、遅い。というか、“踏んでない”。まるで、わざと反応しなかったみたいに。その間にボールは転がり、やっと父が捕球した頃には、サードランナーはホームに返って、歓声が上がる。父がファーストに送球した時には、タッチの差でバッターランナーがベースを踏んでいた。どちらが先かは判らなかった。カメラは切り替わって、観客席の拍手を映していた。だけど私は、ただショートのポジションを見つめていた。父が、動かなかったあの一歩を、何度も巻き戻して見返していた。

「……なんで、止まったの」

何度見ても、はっきりとはわからない。スパイクが滑ったようにも見えるし、打球のタイミングが絶妙だっただけかもしれない。誰にも、断言はできない。でも私は思ってしまった。これは、“演技”だ。ほんの一瞬だけ、自分に嘘をついた動き。それが体に残っていた。私は巻き戻しを止めて、再生したまま、画面を見つめた。父はカメラに背を向けていた。あのとき、どんな顔をしていたのかは、誰にもわからない。でも、私には、見えた気がした。



志藤政信(しどうまさのぶ)は、想像していたよりもずっと若かった。てっきり白髪まじりの定年寸前かと思っていたのに、現れたのは五十前後で、無精髭の、無愛想そうな男だった。

「お前が、鳥谷の娘か」

そう言った口調に、驚きも懐かしさもなかった。ただ、確認のために言ったってだけのトーンだった。

「……はい。突然すみません。昔、父を取材していたって聞いて——」

「取材っていうか、追ってただけだよ。チームにいた頃は記事にもしてたけど、最後の年はほとんど使われなかった。球団もメディアも、“終わった人間”には関心持たないからな」

志藤は、コーヒーにミルクを入れずに一口飲んだ。私の前には、紙コップの紅茶。冷めている。

「最後の試合のこと、聞きたいんです。プレーの映像は見ました。ショートのゴロ。……父は、わざと落としたんですか?」

一拍の沈黙。

志藤は少しだけ口元を歪めて、うつむいた。

「……まあ、そう見えるわな。あれは。あの試合、いろいろおかしかったからな」

「おかしい?」

「点の入り方も、守備のシフトも、全部。普通なら勝てた。勝ちにいけた試合だった。でも——球団がそれを望んでなかった」

「……どういう意味ですか?」

志藤は、コップの底を見ながら、ぼそりと呟いた。

「八百長、って言葉、知ってるか?」

知ってる。知らないふりをするのもばかばかしかった。

「勝っちゃいけない試合ってのが、たまにあるんだよ。特にシーズンの終盤な。契約、放映権、ドラフト、スポンサー……上が勝ちたくないと思ったら、現場は黙って従う。選手にまで話すことはほとんどない。でも、鳥谷は——気づいた。試合の空気に、あいつだけ気づいてた。“これは勝っちゃダメなやつだ”って。そんで、あいつは……たぶん、意図して落としたんだ。誰かに言われたわけじゃなく、自分でそう“選んだ”」

私は、その言葉の一つ一つが、自分の喉の奥に突き刺さっていくのを感じてた。

「記録には、セーフって書かれてます。でも——本当は、アウトだったんですよね?」

志藤はうなずいた。三井と同じく、即答だった。

「普通の選手なら、あれはさばけた。鳥谷ほどの選手なら、確実にアウトにできた」

「それを——セーフにした」

「そう。“結果としてセーフになった”んじゃない。“セーフにした”んだよ。あのプレーだけは、どう考えても、不自然だった。一歩、足を止めてる。お前、映像見たんだろ?」

私はうなずくしかなかった。

「鳥谷が、最後に選んだのは、“負けること”だった。勝つために野球をしてきたやつが、最後の最後で、負けることを選んだんだ。……それを、誇りに思うかは、お前次第だ」

私次第?なにそれ。どうしてそんな、無責任な言い方ができるの。でも、たしかにそうなのかもしれない。

私はもう、ただの娘じゃない。“見届ける人間”になってしまった。志藤は私の表情を見ず、ただ低い声で最後に言った。

「一つだけ、忘れるなよ。鳥谷は、あの瞬間だけは、誰かに指示された訳じゃない。自分で、選んだんだ。それだけは、間違いない」



「……これ、さばけたろ」

画面を一時停止した状態で、パソコンを覗き込んでいたのは、私の学校の体育教師。野球部の顧問。元・三軍の内野手。名前を伏せて動画を見せたら、食い入るように再生を繰り返した。

「ステップの入りが完璧だし、グラブの出し方も迷いがない。っていうか、打球の速度と角度なら、普通に一歩目で処理できる。これ、たぶん“遅らせてる”な。半テンポ……いや、四分の一テンポくらい」

「じゃあ……アウトだったんですか?」

私が聞くと、先生は画面を見つめたまま、ゆっくり言った。

「アウトにできた。それだけは間違いない。できなかったんじゃない。“しなかった”。」

動画は無音のまま、同じ打球を何度も流し続けていた。目を凝らしても、どのフレームも決定打にはならない。でも、見れば見るほど、感じる違和感だけが大きくなっていく。私はこの数日間で、三人の“大人”にこの映像を見せた。三井、志藤、そしてこの教師。三人とも言葉の選び方は違っていたけど、全員が共通して言ったことがあった。

「鳥谷丈一は、アウトにできた。でも、わざとやらなかったかもしれない」

わざと。

演技。

選んだ。

誰かのために?それとも、自分のために?いや、もしかして——

「誰かに“見せるため”だったのかな」

私はそう呟いて、少しだけ背筋が寒くなった。それは、思い付きなんかじゃなかった。もっと前から、心のどこかにあった疑問だった。父は、そのプレーを“誰かに見せようとしていた”。じゃなきゃ、寝言にまで出てくるはずがない。私は立ち上がって、スマホを手に取った。検索履歴には、「鳥谷丈一」「ショートゴロ」「最終戦」の文字が並んでいる。

この人は——父は、自分の全てを、あのプレーに賭けていたんじゃないか。野球人生のすべてを、その一歩の“躊躇”に込めたんじゃないか。

「なんで、そんなことしたの……」

言葉は、誰にも向けられていなかった。けど、部屋の中の空気が少しだけ重くなった気がした。アウトにできたのに。取れたのに。勝てたのに。——あの人は、落とした。それが、父の誇り?

信じたくない。でも、それしか考えられない。



帰宅して、鍵を閉めて、靴を脱いで、何も言わずに、リビングに入った。父は、寝ていた。テレビもつけず、酒の缶も開けていない。深く沈んだソファのくぼみの中に、ただ呼吸だけが残っていた。私はその音を確認してから、無言で押し入れの中を探った。昔の段ボール箱。破れかけたガムテープ。カビ臭い木のにおい。中から取り出したのは、ひとつのグローブだった。黒ずんだ革。指の付け根が擦り切れている。使い込まれたというより、使いすぎて壊れかけてる。父がいつも「これが誇りだった」と言っていた道具。私は、そのグローブを両手で持ち上げて、静かに握ってみた。

——ぴたり、と、手の形に沿って収まった。何かが、伝わってくるわけじゃない。でも、皮の硬さも、匂いも、内側に残った指の跡も、全部が父のものだった。

私は目を閉じて、想像した。あの打球が転がってくる、あの瞬間。一歩目を、止める。全身の筋肉が“動け”と言っているのに、心だけが“待て”と命じている。

その一歩を止めるには、相当な理由がなきゃできない。そして父は——止まった。

誰のために?

あの試合は、勝てた。でも勝ってはいけなかった。チームの事情か、契約の都合か。それとも——もっと個人的な、“家族のこと”か。私はグローブを握ったまま、自分の中のある記憶を呼び出していた。

昔、まだ母が家にいたころ。夕方の公園で、父が私にボールを投げた。私はグローブでそれを受け損なって、泣いた。

「いいんだよ、ゴロは痛くねえ。正面から受けりゃ、痛くねえんだ。怖がるな」

そのときの父の声だけは、なぜか、今でも鮮明に覚えていた。私は、グローブをそっと床に置いた。“正面から受ければ痛くない”……ほんとに、そうだった?父は、本当にそう思っていた?それとも——自分が一番、怖がっていたのは、“正面”だったんじゃないか。

誰も知らなかった。私も知らなかった。母も、きっと知りきれていなかった。でも、私は今、知ろうとしてる。父が、何を見て、何を捨てたのか。




その日、空が変な色をしていたのを覚えている。夕方なのに、青とオレンジが混ざってて、空の端っこが紫色ににじんでた。季節はたぶん、夏の終わりか、秋の入り口。風が涼しいけど、手のひらは汗ばんでた。

「ちょっとだけでいいから、投げてみてよ。ね?」

母の声だった。優しいというより、どこか焦ってた。

いつもなら「服汚れるでしょ」とか言ってたくせに、その日は、やけに積極的だった。

「ほら、真白、グローブ持ってごらん。右手だよ。そうそう」

父がしゃがんで、私のグローブのベルトを締め直した。指が太くて、ごつごつしてたけど、動きはゆっくりだった。

「パパの球、ちょっと速いかもしんないから、怖かったらキャッチせずに避けていいぞ」

「こわくないもん」

口ではそう言ったけど、たぶんちょっと泣きそうだった。でも、そのときの私は、投げてほしかった。

たぶん——投げてもらえなくなる気が薄々してたから。

父は、ゆっくり立ち上がって、5メートルくらい離れたところに立った。私の構えを見て、ほんの少しだけ口角を上げた。

「じゃあ、いくぞ」

ふわりとしたフォームから、ふわりとしたボールが飛んできた。全然速くなかった。地面に落ちるより少し前に、私のグローブに当たった。

“パン”って音がして、手のひらが少しだけ熱くなった。

「ナイスキャッチ! ほら、返してみろ」

私は、投げ返した。ぐにゃぐにゃのフォームだったけど、父の胸に届いた。それを見て、母が笑った。でもその笑顔の奥に、何か押し込めたような陰りがあった気がする。母は何度も時計を見て、何度も周りを気にしてた。そのくせ、帰ろうとは言わなかった。

私はそのあとも何球かボールを受けて、転がして、拾って、笑った。でも、父の顔がその日だけ、少しだけ違って見えた。ずっと見てた気がする。私じゃなくて、母を。母は何も言わなかったけど、そのまま、家には帰らなかった。

それが、最後だった。

3人でいた記憶は、その日が最後だった。


あのときのボールは、本当に軽かった。力が抜けてて、空気をかき分けるみたいに、すうっと飛んできた。真白、キャッチできた?って顔で父が笑ったのを、私は今でも少しだけ覚えている。その笑顔が、今の父と重ならない。あんなふうに笑える人が、今じゃろくに顔も洗わず、朝から酒の缶を開けてるなんて。

あんなやさしい目をしてた人が、怒鳴って壁に物を投げるなんて。

「……演技だったのかな」

言葉にしてみると、自分でもびっくりするほど冷たかった。でも、それが本音だった。母が去ったあと、父はすぐに壊れた。何もしゃべらなくなって、家の中に匂いだけが残った。

じゃあ、あの笑顔も、あの投げ方も、私の手のひらに収まった、あのやさしい球も——全部、演技だったんじゃないか。

私は、机の引き出しを開けて、昔の写真を探した。

ある。家族3人で撮った最後の写真。私はまだ小さくて、父に抱えられてる。母は少し離れた位置に立ってて、目線がカメラじゃなく、私の方を見てる。父は、笑っていた。ちゃんと笑っていた。

「本音だったんじゃないの?」

誰かがそう言った気がした。もしかしたら、私自身がつぶやいたのかもしれない。グローブを出して、手を入れてみる。昔の感覚とは違うけど、まだ少しだけ、手に馴染む。

父は、あのボールを私に投げるとき、“怖くないように”って思ってたんじゃないだろうか。“ちゃんと捕れるように”って。“この時間だけは、記憶に残ってくれ”って。

それって、

演技じゃないよね。

それって、

ちゃんと、優しさだったんじゃないの。

私は、グローブをした手をゆっくり動かした。今、父とキャッチボールをしたら、この人はまた、あのときと同じ球を投げてくれるんだろうか。

……いや、

もう投げられないのかもしれない。でも、投げたいと思ってくれてた時期が、確かにあったんだ。



思い出そうとしているわけじゃなかった。でも、“手紙”と“グローブ”と“プレー”の断片が、パズルみたいに記憶の中に差し込まれて、勝手に思い出し始めた。夜だった。たしか、雨が降ってた気がする。窓が濡れてて、カーテンの隙間から外の街灯がにじんでた。私は、布団の中にいた。寝たふりをして、目を閉じていた。その向こうのリビングで、声がしていた。

「何回目なの!? 何回目だと思ってるの!?こっちはずっと我慢してたのよ!」

母の声だった。はっきりと覚えてる。鋭くて、泣いてて、でも怒ってた。

「真白に何かあったらって、何度も、何度も言ったのに、あなた——!」

そのあとの言葉が濁って、床を叩くような音がした。コップが倒れたのか、誰かが何かを投げたのか。わからなかった。でも、その間——父の声は、一言もなかった。返事をしないのか、できないのか。怒鳴らない。反論しない。逃げもしない。ただ、黙っていた。

その空気だけが、子どもの私の耳に刺さっていた。

「もう限界なの。あのプレーを“誇り”にしてるあなたが、一番、許せないのよ……!」

その言葉を最後に、私は眠ってしまったのか、母が出ていく音も、ドアが閉まる音も覚えていなかった。でも、その夜が“別れの夜”だったということだけは、間違いなく身体が覚えている。あの夜、怒鳴っていたのは、母だった。父は黙っていた。どうして、私はずっと逆に思っていたんだろう。「父が怒鳴っていた」「母は被害者だった」そうやって思い込んでいたのは、

母が出ていったという“事実”だけを、“真実”だと信じてたからだ。でも、あの夜の沈黙に耐えていたのは、父だった。



パソコンの中にある、例の映像ファイル。もう何度も見たはずなのに、今日は、意味が違って見えた。早送りで試合を進める。観客のノイズ、実況のざらついた声。全部聞き慣れたはずなのに、心臓がやけに煩かった。

そして——

9回裏、2アウト、ランナー3塁。父は、いつものショートの位置に立っていた。球場全体が、たぶん気づいていた。このプレーが、すべてを決めるってことを。

ピッチャーが投げた。打球は低く転がり、父の真正面に向かって飛んだ。父は、一歩、止まった。いや、遅れた。そして——捕って、投げた。送球は、わずかに遅れていた。ランナーはベースを駆け抜け、判定はセーフ。その瞬間、試合が終わった。スタジアムに大きな歓声が上がり、カメラは勝利チームの選手たちを映した。でも私は、ただ一点——送球のあとの父の顔を見ていた。顔ははっきり映ってない。でも、姿勢が語っていた。ほんの一瞬、グラブを見つめて。そのあと、誰かを探すように、観客席の方向に顔を向けた。

……もしかして。父は、あのプレーを——“誰かに向けて”やったんじゃないか?勝つためでも、負けるためでもない。ただ、“見ていてほしかった”から。誰かに、この一球だけは届けたかったから。私は、その“誰か”の可能性を考えた。母じゃない。観客でもない。テレビカメラでもない。もしかしたら——

「……私、だった……?」

そうつぶやいた瞬間、背中がぞわっとした。

あの日。

家族で最後にキャッチボールをした、あの夕方。

“見てくれていた”という感覚が、確かに残っていた。

父は、あのプレーを、たったひとつだけ、“私の目に届くように”投げたんじゃないだろうか。負けてもいい。

いや、負けたことが意味になるように。このプレーだけが、“誰かの記憶に残るように”。

あの躊躇い。

あのワンテンポ。

あの方向への顔の向き。

全部、偶然なんかじゃなくて、——誰かの目を、まっすぐ受け止めようとした演技だった。私は画面を止めた。父の姿勢が、そこに止まっていた。私は、何も言えなかった。ただ、その“送球の遅れ”が、今までで一番まっすぐに見えた。



父は、ソファの上で寝ていた。灯りもつけず、テレビも消えたまま。ただ部屋の空気だけが、なぜかあたたかかった。私はカーテンを少し開けて、夜の光をうすく通した。父の寝顔を見つめながら、思った。

この人、なんで、あのとき——あの一球、あんなふうに投げたんだろう。勝てたのに。アウトにできたのに。でも、それでも“取らなかった”ように見えるプレーだった。見せたかったんだと思う。誰かに。ただのパフォーマンスじゃない。誰かに、この一球だけは伝えたいって思ってたようにしか見えなかった。その「誰か」が、もしかしたら私かもしれない。声に出すと、なんだかとても馬鹿みたいだった。でも、それ以外に理由が浮かばなかった。だって、母はもう心を閉ざしていた。観客に向けるようなプレーでもない。同僚や球団関係者にとっても、ただの引退間際の守備。

それでも、もし、父が——“自分の最後の一球”を、“一人の誰か”に見せようとしていたとしたら。それはきっと、私だった。だとしたら。私は——見てなきゃいけなかったんだ。

あの日、私は球場にいたかもしれない。記憶にないだけで、連れていかれてたかもしれない。父のあのプレーは、“私にだけは伝わるように”投げられた一球だったかもしれない。

「わたしが、いたから——あの人は、投げなかったのかもしれない。負けるためじゃなくて、わたしに向けて、投げるために……」

言葉が自分でも信じられなかったけど、そうとしか思えなかった。父は寝言で、いまだにその一球を繰り返してる。たぶん、何度も、何度も、投げ直してる。

それは——“あの瞬間を否定されたから”じゃない。

“あの瞬間だけは信じてほしかったから”じゃないのか。私が、ずっと信じてなかったから。「わざと負けた」って、ずっと思ってたから。あの人は、それでも構わないって顔してたけど、でも、ほんとは——

「伝えたかったんだよね。あれだけは、ちゃんと」

私は父の寝ている横にしゃがんで、そっと、あの古いグローブに手をのばした。誰のために投げなかったのか。その答えはもう、私の中にしかない気がしていた。




メッセージが届いたのは、昼過ぎだった。名前は表示されなかったけど、文面でわかった。

「話したいことがあります。今日の夕方、駅前のパン屋の前で会えませんか?」

名乗らない。謝らない。呼び方も、敬語。でも、この文章を打つ手の震えだけが、なぜかわかった。

母だった。それだけは、なぜか迷いようがなかった。

私は何も返さず、制服のまま家を出た。ノーメイクで、髪も結ばず、スマホだけポケットに入れて。待ち合わせのパン屋は、昔よく3人で寄ってた場所だった。私は思い出しながら、向かった。



母は、立っていた。店の前、窓に背を向けて、風をよけるように体を少し丸めていた。顔は、記憶よりも小さくなっていた。でも、背中のラインと髪の束ね方が、すぐに“あの人”だと教えてくれた。

「……久しぶり」

私が言うと、母は一瞬だけ目を細めて、すぐに表情を整えた。

「来てくれて、ありがとう。……寒くない?」

「別に。……そっちこそ」

「え?」

「風、避けてるように見えたから」

「……ああ、そうね。ちょっと」

二人の会話は、ぎこちなくて、距離感がすごく“よそよそしい”。でも、不思議とそれが心地悪くはなかった。

なにか大きなものが、ずっと空気の中にあって、それを避けるように言葉を選んでいた。

「私、あなたに話しておきたいことがあるの。……あの試合のこと。お父さんの——あのショートゴロの話」

私は、目をそらさなかった。母の横顔が、少しだけ揺れていた。

「あなたには、全部知ってほしいの。私が何を見たのか、彼が何を——どうして、あんなふうにプレーしたのか」

「……うん」

それしか言えなかった。本当は、知りたくない部分もあった。知らなければ、軽蔑できた。知らなければ、切り離せた。でも今は、違っていた。

「……話して」

母は小さくうなずいて、口を開いた。

「まず、あなたに言っておきたいの。……あなた、あの日、球場にいたのよ。お父さんが、あのプレーをした、あの日。——あなた、客席にいたの。私が連れていったのよ。忘れてるかもしれないけど」

目の前の景色が、ふっと滲んだ。母の声が、小さくて、でも、はっきりと届いていた。



「……やっぱり、ね」

私の声は、驚きでも怒りでもなく、ただ真ん中をくぐり抜けていくような、冷たい風みたいだった。

「でも私、そんなの……覚えてない。連れて行かれたなんて、聞いてない」

「言ってないもの。ずっと、言わなかった。でもあなた、本当にあそこにいたのよ。バックネットの真後ろの、最上段。私が、そこに座らせたの」

「……なんで?」

母は少しだけ目を伏せた。でも、すぐに顔を上げた。

ためらいのない声で、こう言った。

「——彼に、見てほしかったからよ。あなたを。あなたが見てるってことを、彼に伝えたかった。私にはもう、届かなかったから」

その言葉が、地面ごとずしりと響いた。

「彼は、投げたあと、客席を見たの。送球して、判定が“セーフ”になって、——そのあと、ほんの少しだけ、スタンドの上の方を見た。目線は……あなたの方向だった」

「……覚えてないよ。なにも。あのプレーも、球場も、スタンドも……」

「いいの。覚えてなくていいのよ。でも、いたの。そして——彼は、気づいてたのよ。“あなたが見てる”ってことに」

私は、なにも言えなかった。

「彼は、自分の野球人生の最後の一球を、あなたに見せるために投げたの。その一歩、その送球、その結果。全部、あなたの目に焼き付けるためだった。勝つとか負けるとかじゃなくて、“この一球だけは信じてほしい”って」

信じてほしい。その言葉が、真白の中で何度も響いた。

「……なのに、私、信じてなかった」

「そうね」

母は、否定しなかった。それが、苦しかった。

でも、同時に——少しだけ、救われた気がした。

「彼は、あなたに見せたかったのよ。あのプレーが、誰かの記憶に残ることを願ってた。誰にも認められなくても、誰にも信じられなくても、あなたが、ただ“見てくれていた”というだけで、——あの人は、それだけでよかったの」


風が強くなってきた。駅前の雑踏が少しずつ濃くなって、声や音が混ざり合っていく。でも、その中で母の声だけは、はっきり聞こえた。

「——あれは、アウトだったのよ」

一瞬呼吸が止まった。

「……なに?」

「プレーよ。お父さんの、あの送球。ちゃんと捕球されてた。タイミングも、ベースの踏み方も。——本当は、アウトだったの」

「……でも、記録は——」

「記録は、誤審だった。誰も、認めようとしなかった。球団も、メディアも、審判団も。“勝ってはいけない試合だった”から」

母は、決して声を荒げなかった。でもその声は、冷たい芯があって、震えるように強かった。

「球団から、暗黙の圧がかかってたの。“負けてくれ”って。お父さんは、それに——一度だけ迷った。でも、最後の一球だけは……勝ちにいったのよ。勝つために、全力で投げた。だからこそ、セーフ判定はおかしかった」

真白は、何も言えなかった。口の中が乾いて、手のひらが冷たくなった。あの時、自分が何度も巻き戻して見てきたプレー。「わざと負けた」って思ってた、あの一瞬。

——本当は、勝ちにいった一球だった。

「でも、お父さんは、何も言わなかったのよ。“あれはアウトだった”なんて、一言も言わなかった。何を言っても、誰も信じてくれないって、分かってたから。だから、黙ったの」

黙って、酒に逃げて、記憶の中にだけ、自分の誇りをしまいこんだ。

「……なんで、言わなかったの。私にも。私、ずっと、ずっと——」

「あなたにだけは、届いてると思ってたのよ。どうせ寝言で、何度も言ってたでしょう?“ショートゴロだった”って。あれ、謝ってるわけでも、悔いてるわけでもない。——あの人、何度も投げ直してたのよ。あの一球を、ずっとあなたに向けて、繰り返してたの」

膝が少し震えていた。涙は出なかった。ただ、頭の中のすべての映像が、音を立てて書き換わっていく感覚がした。

“取れたのに取らなかった”じゃない。

“ちゃんと取って、投げた”のに、信じてもらえなかった。彼は、あの時、自分の誇りを、ただ一人の娘にだけ届けたかったんだ。



「あなたね、お父さんのグローブ、まだ持ってる?」

「……うん。部屋に置いてある」

「そう。あれ、あの人ずっと捨てなかったのよ。もうボロボロだったのに、何もかも失ってからも、“これだけは”って言って、家を出るときも持っていった」

母は、駅のロータリーの方を見た。バスがゆっくりと滑ってくる。だけど、視線は遠くに向いていた。

「お父さんはね、野球が終わるって知ってたの。あの一球で、すべてが終わるって。それでも、“娘が見てる”なら、信念を貫こうって決めたのよ。勝ちにいった。誰にも信じられなくても、“あなたにだけは伝わる”って——本気で、思ってたのよ」

私は、指先に力を入れた。身体の芯から、熱と冷たさが混ざったような感覚が広がっていく。

「だけど、伝わらなかった。あなたはあのとき小さかったし、記憶もなくなって、あの人の中には、“伝わらなかったショートゴロ”だけが残った」

「……だから、寝言で……」

「ええ。あれは、後悔じゃないのよ。やり直してたの。あの瞬間だけは、何度も繰り返してた。“あれでよかったよな?”って、何度も、確かめてたのよ。誰にも言えなかったから。言えたのは、あなただけだったの。だから、あなたが思い出してくれるのを、ずっと待ってたんだと思う」

私は、ゆっくりと息を吸った。駅前の空気は、冷たくなっていた。でも、風はやさしかった。

「……届いたと思う?」

母は少し微笑んだ。

「それは、あなたが決めてあげなさい。あの人はきっと、それを望んでる」

“届いていた”と誰かに言ってもらいたい。けれどそれは、誰にでも言われたくない。

——娘にだけは言ってほしい。父は、きっとそう思っていた。



玄関の扉を閉めると、家の空気がぬるく揺れた。父は、まだ寝ていた。電気もテレビもつけず、ソファに沈んだまま、ゆっくりと、浅い呼吸を繰り返していた。私はコートを脱いで、カバンを床に置いた。靴下を脱いで、そっとグローブのある押し入れに向かった。引き戸を開けると、そこにあった。形が歪んで、革がひび割れたグローブ。こんなになるまで、捨てなかったんだ。私はそれを手に取り、ソファの前に静かに座り込んだ。父の顔を、久しぶりにちゃんと見た。

老けたな、と思った。でも同時に、“昔の父”がそこにいるような気もした。あの優しく投げた手。あの、叱らなかった背中。あの、怒鳴らなかった夜。

そして、——あのショートゴロ。

あれは、本当に、誇りだったんだね。私は、グローブを軽く握ってから、父の寝息に向けて、静かに言った。

「——ちゃんと、届いてたよ」

父は、寝たままだった。返事はなかった。でもそのまぶたのあたりが、ほんの少しだけ、柔らかくなったような気がした。そのまま私は、しばらく動けなかった。

そしてふと、母の言葉を思い出した。

——「あの人、一度だけ迷ったのよ。“あなたを養うために、誇りを捨てた方がいいんじゃないか”って。だけど結局、“あなたに見せたい自分”の方を選んだのよ」

私のために、一瞬だけ迷って、私のために、誇りの方を選んだ。それが、あの一歩の“遅れ”だった。誰にも伝わらなかった、あの一歩。でも、今ならわかる。私の中に、ちゃんと届いてる。——あの人が守ろうとしたものが、今ここにある。私はグローブを両手で抱いて、ソファの隣で、目を閉じた。

父は何も言わなかった。けど、何も言わなくてよかった。

——これまでも、これからも。




午後の光が、少しずつ傾いていた。カーテンの隙間から差し込む日差しは、冬のくせにどこかあたたかくて、フローリングの木目を静かに照らしていた。風はないけど、空気が動いていた。ゆっくりと、確かに、季節が変わろうとしている。私は、リビングのドアを少しだけ開けて、中をのぞいた。

父は、起きていた。ソファに深く沈み込んで、姿勢を崩したまま、目を半分だけ開いていた。テレビはついている。でも、画面は切り替わらないまま、どこかのドキュメンタリーが流れていた。音がしても、父は何も言わなかった。私は靴下を脱いで、素足で静かに部屋に入った。リモコンを取って、音量を少しだけ下げる。父はその一連の動きに気づいていたけど、やっぱり何も言わなかった。それでも、前と違うのは——その“何も言わなさ”が、もう、苦しみの沈黙ではなくなっているように見えたことだった。

押し入れの中から、古いグローブを取り出した。あの試合のあとも、家族がバラバラになったあとも、父がどんなに何もかも放り出しても、これだけは手放さなかったもの。

グローブは、もう形が崩れていた。革はひび割れて、指の間はよれていた。でも、手を入れると、ちゃんと収まった。あのときと、同じ場所に。

私はそれを抱えたまま、父の正面にしゃがんだ。

父は、こちらを見なかった。でも私は、目を見ようとはしなかった。ただ、グローブを撫でて、少しの間を置いて、言った。

「——あれ、アウトだったよ」

父のまぶたが、わずかに動いた。でも、それだけだった。言葉は返ってこない。私は、それでよかった。

「……ずっと信じてなかった。わざとだと思ってたし、何も言わないのも、逃げてるだけだって思ってた」

グローブを膝の上に置いて、両手で包んだ。

「でも、わかった。ほんとは、ずっと……ちゃんと投げてたんだって。勝ちにいってたんだって。私がいたから、あの一球を“まっすぐ”に投げたんだって」

父の肩が、ほんの少しだけ沈んだように見えた。まるで、何かが抜けたように。抜けてしまって、やっと身体が軽くなったように。

「お母さんが言ってたよ。あのとき、お父さん、一度だけ迷ったって。私を養うために、誇りを捨てたほうがいいんじゃないかって。でも結局、私に見せたい自分を選んだんだって」

テレビの音がどこかで切り替わった。でも私は、もう耳に入っていなかった。

「……ありがとう。投げてくれて。負けても、あれを見せてくれて。ちゃんと届いてたよ」

その言葉が落ちたあと、父は目を閉じた。寝てしまったのかもしれない。起きているふりをやめたのかもしれない。私は立ち上がって、グローブを胸に抱えて、玄関に向かった。

ドアに手をかけたとき——

背中で、低く、かすれた声が転がった。

「……正面から受けりゃ、痛くねえんだよ」

私は振り返らなかった。でも、足が一歩も動けなかった。目を閉じて、その声だけを反芻した。

あのショートゴロ。父の人生で、たった一度だけの、全力の一球。誰にも信じられなかったけど、ちゃんと“正面から受けた”人間が、ここにいた。

だから今なら、言える。


正面から受けたゴロは、痛くなかった。

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