ショートゴロ
午後の光が、少しずつ傾いていた。カーテンの隙間から差し込む日差しは、冬のくせにどこかあたたかくて、フローリングの木目を静かに照らしていた。風はないけど、空気が動いていた。ゆっくりと、確かに、季節が変わろうとしている。私は、リビングのドアを少しだけ開けて、中をのぞいた。
父は、起きていた。ソファに深く沈み込んで、姿勢を崩したまま、目を半分だけ開いていた。テレビはついている。でも、画面は切り替わらないまま、どこかのドキュメンタリーが流れていた。音がしても、父は何も言わなかった。私は靴下を脱いで、素足で静かに部屋に入った。リモコンを取って、音量を少しだけ下げる。父はその一連の動きに気づいていたけど、やっぱり何も言わなかった。それでも、前と違うのは——その“何も言わなさ”が、もう、苦しみの沈黙ではなくなっているように見えたことだった。
押し入れの中から、古いグローブを取り出した。あの試合のあとも、家族がバラバラになったあとも、父がどんなに何もかも放り出しても、これだけは手放さなかったもの。
グローブは、もう形が崩れていた。革はひび割れて、指の間はよれていた。でも、手を入れると、ちゃんと収まった。あのときと、同じ場所に。
私はそれを抱えたまま、父の正面にしゃがんだ。
父は、こちらを見なかった。でも私は、目を見ようとはしなかった。ただ、グローブを撫でて、少しの間を置いて、言った。
「——あれ、アウトだったよ」
父のまぶたが、わずかに動いた。でも、それだけだった。言葉は返ってこない。私は、それでよかった。
「……ずっと信じてなかった。わざとだと思ってたし、何も言わないのも、逃げてるだけだって思ってた」
グローブを膝の上に置いて、両手で包んだ。
「でも、わかった。ほんとは、ずっと……ちゃんと投げてたんだって。勝ちにいってたんだって。私がいたから、あの一球を“まっすぐ”に投げたんだって」
父の肩が、ほんの少しだけ沈んだように見えた。まるで、何かが抜けたように。抜けてしまって、やっと身体が軽くなったように。
「お母さんが言ってたよ。あのとき、お父さん、一度だけ迷ったって。私を養うために、誇りを捨てたほうがいいんじゃないかって。でも結局、私に見せたい自分を選んだんだって」
テレビの音がどこかで切り替わった。でも私は、もう耳に入っていなかった。
「……ありがとう。投げてくれて。負けても、あれを見せてくれて。ちゃんと届いてたよ」
その言葉が落ちたあと、父は目を閉じた。寝てしまったのかもしれない。起きているふりをやめたのかもしれない。私は立ち上がって、グローブを胸に抱えて、玄関に向かった。
ドアに手をかけたとき——
背中で、低く、かすれた声が転がった。
「……正面から受けりゃ、痛くねえんだよ」
私は振り返らなかった。でも、足が一歩も動けなかった。目を閉じて、その声だけを反芻した。
あのショートゴロ。父の人生で、たった一度だけの、全力の一球。誰にも信じられなかったけど、ちゃんと“正面から受けた”人間が、ここにいた。
だから今なら、言える。
正面から受けたゴロは、痛くなかった。