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届く

メッセージが届いたのは、昼過ぎだった。名前は表示されなかったけど、文面でわかった。

「話したいことがあります。今日の夕方、駅前のパン屋の前で会えませんか?」

名乗らない。謝らない。呼び方も、敬語。でも、この文章を打つ手の震えだけが、なぜかわかった。

母だった。それだけは、なぜか迷いようがなかった。

私は何も返さず、制服のまま家を出た。ノーメイクで、髪も結ばず、スマホだけポケットに入れて。待ち合わせのパン屋は、昔よく3人で寄ってた場所だった。私は思い出しながら、向かった。



母は、立っていた。店の前、窓に背を向けて、風をよけるように体を少し丸めていた。顔は、記憶よりも小さくなっていた。でも、背中のラインと髪の束ね方が、すぐに“あの人”だと教えてくれた。

「……久しぶり」

私が言うと、母は一瞬だけ目を細めて、すぐに表情を整えた。

「来てくれて、ありがとう。……寒くない?」

「別に。……そっちこそ」

「え?」

「風、避けてるように見えたから」

「……ああ、そうね。ちょっと」

二人の会話は、ぎこちなくて、距離感がすごく“よそよそしい”。でも、不思議とそれが心地悪くはなかった。

なにか大きなものが、ずっと空気の中にあって、それを避けるように言葉を選んでいた。

「私、あなたに話しておきたいことがあるの。……あの試合のこと。お父さんの——あのショートゴロの話」

私は、目をそらさなかった。母の横顔が、少しだけ揺れていた。

「あなたには、全部知ってほしいの。私が何を見たのか、彼が何を——どうして、あんなふうにプレーしたのか」

「……うん」

それしか言えなかった。本当は、知りたくない部分もあった。知らなければ、軽蔑できた。知らなければ、切り離せた。でも今は、違っていた。

「……話して」

母は小さくうなずいて、口を開いた。

「まず、あなたに言っておきたいの。……あなた、あの日、球場にいたのよ。お父さんが、あのプレーをした、あの日。——あなた、客席にいたの。私が連れていったのよ。忘れてるかもしれないけど」

目の前の景色が、ふっと滲んだ。母の声が、小さくて、でも、はっきりと届いていた。



「……やっぱり、ね」

私の声は、驚きでも怒りでもなく、ただ真ん中をくぐり抜けていくような、冷たい風みたいだった。

「でも私、そんなの……覚えてない。連れて行かれたなんて、聞いてない」

「言ってないもの。ずっと、言わなかった。でもあなた、本当にあそこにいたのよ。バックネットの真後ろの、最上段。私が、そこに座らせたの」

「……なんで?」

母は少しだけ目を伏せた。でも、すぐに顔を上げた。

ためらいのない声で、こう言った。

「——彼に、見てほしかったからよ。あなたを。あなたが見てるってことを、彼に伝えたかった。私にはもう、届かなかったから」

その言葉が、地面ごとずしりと響いた。

「彼は、投げたあと、客席を見たの。送球して、判定が“セーフ”になって、——そのあと、ほんの少しだけ、スタンドの上の方を見た。目線は……あなたの方向だった」

「……覚えてないよ。なにも。あのプレーも、球場も、スタンドも……」

「いいの。覚えてなくていいのよ。でも、いたの。そして——彼は、気づいてたのよ。“あなたが見てる”ってことに」

私は、なにも言えなかった。

「彼は、自分の野球人生の最後の一球を、あなたに見せるために投げたの。その一歩、その送球、その結果。全部、あなたの目に焼き付けるためだった。勝つとか負けるとかじゃなくて、“この一球だけは信じてほしい”って」

信じてほしい。その言葉が、真白の中で何度も響いた。

「……なのに、私、信じてなかった」

「そうね」

母は、否定しなかった。それが、苦しかった。

でも、同時に——少しだけ、救われた気がした。

「彼は、あなたに見せたかったのよ。あのプレーが、誰かの記憶に残ることを願ってた。誰にも認められなくても、誰にも信じられなくても、あなたが、ただ“見てくれていた”というだけで、——あの人は、それだけでよかったの」


風が強くなってきた。駅前の雑踏が少しずつ濃くなって、声や音が混ざり合っていく。でも、その中で母の声だけは、はっきり聞こえた。

「——あれは、アウトだったのよ」

一瞬呼吸が止まった。

「……なに?」

「プレーよ。お父さんの、あの送球。ちゃんと捕球されてた。タイミングも、ベースの踏み方も。——本当は、アウトだったの」

「……でも、記録は——」

「記録は、誤審だった。誰も、認めようとしなかった。球団も、メディアも、審判団も。“勝ってはいけない試合だった”から」

母は、決して声を荒げなかった。でもその声は、冷たい芯があって、震えるように強かった。

「球団から、暗黙の圧がかかってたの。“負けてくれ”って。お父さんは、それに——一度だけ迷った。でも、最後の一球だけは……勝ちにいったのよ。勝つために、全力で投げた。だからこそ、セーフ判定はおかしかった」

真白は、何も言えなかった。口の中が乾いて、手のひらが冷たくなった。あの時、自分が何度も巻き戻して見てきたプレー。「わざと負けた」って思ってた、あの一瞬。

——本当は、勝ちにいった一球だった。

「でも、お父さんは、何も言わなかったのよ。“あれはアウトだった”なんて、一言も言わなかった。何を言っても、誰も信じてくれないって、分かってたから。だから、黙ったの」

黙って、酒に逃げて、記憶の中にだけ、自分の誇りをしまいこんだ。

「……なんで、言わなかったの。私にも。私、ずっと、ずっと——」

「あなたにだけは、届いてると思ってたのよ。どうせ寝言で、何度も言ってたでしょう?“ショートゴロだった”って。あれ、謝ってるわけでも、悔いてるわけでもない。——あの人、何度も投げ直してたのよ。あの一球を、ずっとあなたに向けて、繰り返してたの」

膝が少し震えていた。涙は出なかった。ただ、頭の中のすべての映像が、音を立てて書き換わっていく感覚がした。

“取れたのに取らなかった”じゃない。

“ちゃんと取って、投げた”のに、信じてもらえなかった。彼は、あの時、自分の誇りを、ただ一人の娘にだけ届けたかったんだ。



「あなたね、お父さんのグローブ、まだ持ってる?」

「……うん。部屋に置いてある」

「そう。あれ、あの人ずっと捨てなかったのよ。もうボロボロだったのに、何もかも失ってからも、“これだけは”って言って、家を出るときも持っていった」

母は、駅のロータリーの方を見た。バスがゆっくりと滑ってくる。だけど、視線は遠くに向いていた。

「お父さんはね、野球が終わるって知ってたの。あの一球で、すべてが終わるって。それでも、“娘が見てる”なら、信念を貫こうって決めたのよ。勝ちにいった。誰にも信じられなくても、“あなたにだけは伝わる”って——本気で、思ってたのよ」

私は、指先に力を入れた。身体の芯から、熱と冷たさが混ざったような感覚が広がっていく。

「だけど、伝わらなかった。あなたはあのとき小さかったし、記憶もなくなって、あの人の中には、“伝わらなかったショートゴロ”だけが残った」

「……だから、寝言で……」

「ええ。あれは、後悔じゃないのよ。やり直してたの。あの瞬間だけは、何度も繰り返してた。“あれでよかったよな?”って、何度も、確かめてたのよ。誰にも言えなかったから。言えたのは、あなただけだったの。だから、あなたが思い出してくれるのを、ずっと待ってたんだと思う」

私は、ゆっくりと息を吸った。駅前の空気は、冷たくなっていた。でも、風はやさしかった。

「……届いたと思う?」

母は少し微笑んだ。

「それは、あなたが決めてあげなさい。あの人はきっと、それを望んでる」

“届いていた”と誰かに言ってもらいたい。けれどそれは、誰にでも言われたくない。

——娘にだけは言ってほしい。父は、きっとそう思っていた。



玄関の扉を閉めると、家の空気がぬるく揺れた。父は、まだ寝ていた。電気もテレビもつけず、ソファに沈んだまま、ゆっくりと、浅い呼吸を繰り返していた。私はコートを脱いで、カバンを床に置いた。靴下を脱いで、そっとグローブのある押し入れに向かった。引き戸を開けると、そこにあった。形が歪んで、革がひび割れたグローブ。こんなになるまで、捨てなかったんだ。私はそれを手に取り、ソファの前に静かに座り込んだ。父の顔を、久しぶりにちゃんと見た。

老けたな、と思った。でも同時に、“昔の父”がそこにいるような気もした。あの優しく投げた手。あの、叱らなかった背中。あの、怒鳴らなかった夜。

そして、——あのショートゴロ。

あれは、本当に、誇りだったんだね。私は、グローブを軽く握ってから、父の寝息に向けて、静かに言った。

「——ちゃんと、届いてたよ」

父は、寝たままだった。返事はなかった。でもそのまぶたのあたりが、ほんの少しだけ、柔らかくなったような気がした。そのまま私は、しばらく動けなかった。

そしてふと、母の言葉を思い出した。

——「あの人、一度だけ迷ったのよ。“あなたを養うために、誇りを捨てた方がいいんじゃないか”って。だけど結局、“あなたに見せたい自分”の方を選んだのよ」

私のために、一瞬だけ迷って、私のために、誇りの方を選んだ。それが、あの一歩の“遅れ”だった。誰にも伝わらなかった、あの一歩。でも、今ならわかる。私の中に、ちゃんと届いてる。——あの人が守ろうとしたものが、今ここにある。私はグローブを両手で抱いて、ソファの隣で、目を閉じた。

父は何も言わなかった。けど、何も言わなくてよかった。

——これまでも、これからも。

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