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目線の先

その日、空が変な色をしていたのを覚えている。夕方なのに、青とオレンジが混ざってて、空の端っこが紫色ににじんでた。季節はたぶん、夏の終わりか、秋の入り口。風が涼しいけど、手のひらは汗ばんでた。

「ちょっとだけでいいから、投げてみてよ。ね?」

母の声だった。優しいというより、どこか焦ってた。

いつもなら「服汚れるでしょ」とか言ってたくせに、その日は、やけに積極的だった。

「ほら、真白、グローブ持ってごらん。右手だよ。そうそう」

父がしゃがんで、私のグローブのベルトを締め直した。指が太くて、ごつごつしてたけど、動きはゆっくりだった。

「パパの球、ちょっと速いかもしんないから、怖かったらキャッチせずに避けていいぞ」

「こわくないもん」

口ではそう言ったけど、たぶんちょっと泣きそうだった。でも、そのときの私は、投げてほしかった。

たぶん——投げてもらえなくなる気が薄々してたから。

父は、ゆっくり立ち上がって、5メートルくらい離れたところに立った。私の構えを見て、ほんの少しだけ口角を上げた。

「じゃあ、いくぞ」

ふわりとしたフォームから、ふわりとしたボールが飛んできた。全然速くなかった。地面に落ちるより少し前に、私のグローブに当たった。

“パン”って音がして、手のひらが少しだけ熱くなった。

「ナイスキャッチ! ほら、返してみろ」

私は、投げ返した。ぐにゃぐにゃのフォームだったけど、父の胸に届いた。それを見て、母が笑った。でもその笑顔の奥に、何か押し込めたような陰りがあった気がする。母は何度も時計を見て、何度も周りを気にしてた。そのくせ、帰ろうとは言わなかった。

私はそのあとも何球かボールを受けて、転がして、拾って、笑った。でも、父の顔がその日だけ、少しだけ違って見えた。ずっと見てた気がする。私じゃなくて、母を。母は何も言わなかったけど、そのまま、家には帰らなかった。

それが、最後だった。

3人でいた記憶は、その日が最後だった。


あのときのボールは、本当に軽かった。力が抜けてて、空気をかき分けるみたいに、すうっと飛んできた。真白、キャッチできた?って顔で父が笑ったのを、私は今でも少しだけ覚えている。その笑顔が、今の父と重ならない。あんなふうに笑える人が、今じゃろくに顔も洗わず、朝から酒の缶を開けてるなんて。

あんなやさしい目をしてた人が、怒鳴って壁に物を投げるなんて。

「……演技だったのかな」

言葉にしてみると、自分でもびっくりするほど冷たかった。でも、それが本音だった。母が去ったあと、父はすぐに壊れた。何もしゃべらなくなって、家の中に匂いだけが残った。

じゃあ、あの笑顔も、あの投げ方も、私の手のひらに収まった、あのやさしい球も——全部、演技だったんじゃないか。

私は、机の引き出しを開けて、昔の写真を探した。

ある。家族3人で撮った最後の写真。私はまだ小さくて、父に抱えられてる。母は少し離れた位置に立ってて、目線がカメラじゃなく、私の方を見てる。父は、笑っていた。ちゃんと笑っていた。

「本音だったんじゃないの?」

誰かがそう言った気がした。もしかしたら、私自身がつぶやいたのかもしれない。グローブを出して、手を入れてみる。昔の感覚とは違うけど、まだ少しだけ、手に馴染む。

父は、あのボールを私に投げるとき、“怖くないように”って思ってたんじゃないだろうか。“ちゃんと捕れるように”って。“この時間だけは、記憶に残ってくれ”って。

それって、

演技じゃないよね。

それって、

ちゃんと、優しさだったんじゃないの。

私は、グローブをした手をゆっくり動かした。今、父とキャッチボールをしたら、この人はまた、あのときと同じ球を投げてくれるんだろうか。

……いや、

もう投げられないのかもしれない。でも、投げたいと思ってくれてた時期が、確かにあったんだ。



思い出そうとしているわけじゃなかった。でも、“手紙”と“グローブ”と“プレー”の断片が、パズルみたいに記憶の中に差し込まれて、勝手に思い出し始めた。夜だった。たしか、雨が降ってた気がする。窓が濡れてて、カーテンの隙間から外の街灯がにじんでた。私は、布団の中にいた。寝たふりをして、目を閉じていた。その向こうのリビングで、声がしていた。

「何回目なの!? 何回目だと思ってるの!?こっちはずっと我慢してたのよ!」

母の声だった。はっきりと覚えてる。鋭くて、泣いてて、でも怒ってた。

「真白に何かあったらって、何度も、何度も言ったのに、あなた——!」

そのあとの言葉が濁って、床を叩くような音がした。コップが倒れたのか、誰かが何かを投げたのか。わからなかった。でも、その間——父の声は、一言もなかった。返事をしないのか、できないのか。怒鳴らない。反論しない。逃げもしない。ただ、黙っていた。

その空気だけが、子どもの私の耳に刺さっていた。

「もう限界なの。あのプレーを“誇り”にしてるあなたが、一番、許せないのよ……!」

その言葉を最後に、私は眠ってしまったのか、母が出ていく音も、ドアが閉まる音も覚えていなかった。でも、その夜が“別れの夜”だったということだけは、間違いなく身体が覚えている。あの夜、怒鳴っていたのは、母だった。父は黙っていた。どうして、私はずっと逆に思っていたんだろう。「父が怒鳴っていた」「母は被害者だった」そうやって思い込んでいたのは、

母が出ていったという“事実”だけを、“真実”だと信じてたからだ。でも、あの夜の沈黙に耐えていたのは、父だった。



パソコンの中にある、例の映像ファイル。もう何度も見たはずなのに、今日は、意味が違って見えた。早送りで試合を進める。観客のノイズ、実況のざらついた声。全部聞き慣れたはずなのに、心臓がやけに煩かった。

そして——

9回裏、2アウト、ランナー3塁。父は、いつものショートの位置に立っていた。球場全体が、たぶん気づいていた。このプレーが、すべてを決めるってことを。

ピッチャーが投げた。打球は低く転がり、父の真正面に向かって飛んだ。父は、一歩、止まった。いや、遅れた。そして——捕って、投げた。送球は、わずかに遅れていた。ランナーはベースを駆け抜け、判定はセーフ。その瞬間、試合が終わった。スタジアムに大きな歓声が上がり、カメラは勝利チームの選手たちを映した。でも私は、ただ一点——送球のあとの父の顔を見ていた。顔ははっきり映ってない。でも、姿勢が語っていた。ほんの一瞬、グラブを見つめて。そのあと、誰かを探すように、観客席の方向に顔を向けた。

……もしかして。父は、あのプレーを——“誰かに向けて”やったんじゃないか?勝つためでも、負けるためでもない。ただ、“見ていてほしかった”から。誰かに、この一球だけは届けたかったから。私は、その“誰か”の可能性を考えた。母じゃない。観客でもない。テレビカメラでもない。もしかしたら——

「……私、だった……?」

そうつぶやいた瞬間、背中がぞわっとした。

あの日。

家族で最後にキャッチボールをした、あの夕方。

“見てくれていた”という感覚が、確かに残っていた。

父は、あのプレーを、たったひとつだけ、“私の目に届くように”投げたんじゃないだろうか。負けてもいい。

いや、負けたことが意味になるように。このプレーだけが、“誰かの記憶に残るように”。

あの躊躇い。

あのワンテンポ。

あの方向への顔の向き。

全部、偶然なんかじゃなくて、——誰かの目を、まっすぐ受け止めようとした演技だった。私は画面を止めた。父の姿勢が、そこに止まっていた。私は、何も言えなかった。ただ、その“送球の遅れ”が、今までで一番まっすぐに見えた。



父は、ソファの上で寝ていた。灯りもつけず、テレビも消えたまま。ただ部屋の空気だけが、なぜかあたたかかった。私はカーテンを少し開けて、夜の光をうすく通した。父の寝顔を見つめながら、思った。

この人、なんで、あのとき——あの一球、あんなふうに投げたんだろう。勝てたのに。アウトにできたのに。でも、それでも“取らなかった”ように見えるプレーだった。見せたかったんだと思う。誰かに。ただのパフォーマンスじゃない。誰かに、この一球だけは伝えたいって思ってたようにしか見えなかった。その「誰か」が、もしかしたら私かもしれない。声に出すと、なんだかとても馬鹿みたいだった。でも、それ以外に理由が浮かばなかった。だって、母はもう心を閉ざしていた。観客に向けるようなプレーでもない。同僚や球団関係者にとっても、ただの引退間際の守備。

それでも、もし、父が——“自分の最後の一球”を、“一人の誰か”に見せようとしていたとしたら。それはきっと、私だった。だとしたら。私は——見てなきゃいけなかったんだ。

あの日、私は球場にいたかもしれない。記憶にないだけで、連れていかれてたかもしれない。父のあのプレーは、“私にだけは伝わるように”投げられた一球だったかもしれない。

「わたしが、いたから——あの人は、投げなかったのかもしれない。負けるためじゃなくて、わたしに向けて、投げるために……」

言葉が自分でも信じられなかったけど、そうとしか思えなかった。父は寝言で、いまだにその一球を繰り返してる。たぶん、何度も、何度も、投げ直してる。

それは——“あの瞬間を否定されたから”じゃない。

“あの瞬間だけは信じてほしかったから”じゃないのか。私が、ずっと信じてなかったから。「わざと負けた」って、ずっと思ってたから。あの人は、それでも構わないって顔してたけど、でも、ほんとは——

「伝えたかったんだよね。あれだけは、ちゃんと」

私は父の寝ている横にしゃがんで、そっと、あの古いグローブに手をのばした。誰のために投げなかったのか。その答えはもう、私の中にしかない気がしていた。

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