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正面

「鳥谷丈一? あー、懐かしい名前だな」

男は笑いながらそう言って、ベンチの缶コーヒーを口にした。グラウンドには、草野球チームの中年たちがボールを投げている。土ぼこりと湿った汗の匂いが、どこか懐かしく感じた。

男の名前は三井誠(みついまこと)

父と同じ球団で3年だけ在籍していた、元控えのセカンド。今はこの町で、小さなクラブチームのコーチをしている。学校の職員でもないのに、体育倉庫みたいなところにデスクを持っていて、なんとなく威厳がある。

「親父さん、元気か?」

「……まあ、一応は生きてます」

私がそう言うと、三井は少しだけ視線を逸らして笑った。“察した”顔だった。でも何も言わなかった。

「鳥谷のショートはね、キレッキレだったよ。足が速いわけじゃないけど、反応がバケモンだった。特に正面のゴロ、あれは芸術だったな。背番号6番で、構えてるだけで画になるやつだった」

「そうですか」

私は一応うなずいた。けど、内心は浮つかなかった。

“画になる”とか、そういう話が聞きたかったわけじゃない。

「……最後の試合、覚えてます?」

それを聞いた瞬間、三井の顔がほんのわずかに変わった。口元の力が抜けて、視線が遠くへ向いた。

「ああ。あれね」

風が吹いて、砂埃がベンチに入り込んだ。三井は肩をすくめながら、しばらく黙った。

「……なあ、あれ、お前にとってはどういう話なんだ?」

「まだ、わかってないです。ただ、母から“ショートゴロが誇りだった”って手紙がきて。父は酔ってるとよく寝言でそれを言うんです。“ショートゴロだった”って」

三井はその言葉を聞いて、驚いたような、懐かしがるような、どっちつかずの表情をした。

「誇り、ねぇ……まあ、あれを誇りにしてるなら、皮肉だけどな」

「……どういう意味ですか?」

「……鳥谷は、あのとき、わざと落としたように見えたんだよ」

私は、一瞬呼吸が止まった。

「……ボールを、ですか?」

「うん。セカンドとショートのちょうど間に飛んだゴロだった。でも、俺から見たら、あれは“鳥谷が一歩目を遅らせた”ようにしか見えなかった。あいつなら、取ろうと思えば取れたと思う。でも、ほんの一瞬だけ、迷った。いや、迷ったっていうか——演技みたいな間が、あった」

私は、その“演技”という言葉に引っかかった。

「じゃあ……わざとだったんですか?」

三井は首を横に振った。早すぎるくらいに、即答で。

「それはない。絶対にない。鳥谷はそういうやつじゃなかった。あいつ、バカみたいに真面目だったから。

……でも、“誰かのために負けよう”っていう顔はしてた。あんなの、俺、あの試合で初めて見たよ」

あの父が、誰かのために負けようとした?

その“誰か”って、誰?そして、なぜ?

「……真白ちゃん、だっけ。悪いこと言わない、あの試合の話は、ちゃんとした記者に聞いたほうがいいよ。俺らプレイヤーには話されなかったこと、たぶんある。特にスコアに関することとかはね」

「記者……?」

「そう。地元の夕刊紙にいたやつがずっと追ってたんだよ、あの頃。名前は、たしか……志藤、だったかな」

志藤。聞いたことのない名前だった。でも、何かが引っかかった。三井の表情じゃなくて——その声の重さに。

「……ありがとうございました」

私は立ち上がった。お礼の言葉は一応口にしたけど、心はもう、次に向いていた。父は誰かのために、ボールを落とした。“取れた”のに、“取らなかった”。それが誇りだとしたら——私の知らない父は、いったいどんな顔をしていたんだろう。



「探してたのこれで合ってるかわかんないんですけど……」

図書室の隅で、ビデオテープを差し出したのは、放送部の後輩だった。顧問の先生に頼んで探してもらったら、古いスポーツアーカイブの中に、地元球団の最終試合の録画が一本だけ残ってたらしい。市販のDVDとかじゃない。地元のケーブル局が記録用に保存してた、VHSのダビング版。

「……ありがとう。マジで助かった」

「いえ、てか、そんなの何に使うんですか?」

「ちょっと、課題で」

私はそれだけ言って、カバンに詰め込んだ。“父の過去を追ってる”なんて、言葉にするのも野暮ったかった。

——家に帰って、デッキをつなぐのに手間取った。コードの接触が悪くて、再生ボタンを何度も押し直す。

画面がぶれたりノイズが走ったりするたびに、心臓が変なリズムで動く。やがて映像が安定し、「〇〇球団、今季最終戦」というタイトルが流れた。音声はくぐもっていたけど、実況の声は入っていた。名前を呼ばれることはなかった。映っていたのはただ、フィールドをゆっくりパンするカメラと、荒い解像度の画面。

父がいた。ショートのポジション。背中に「TORITANI」とプリントされたユニフォーム。キャップの下からのぞく黒髪。あのだらしない寝顔とはまるで違う。立っていた。ちゃんと。

試合はゆっくり進んでいった。

何人もの打席が流される中、私は息を止めて、その一打を待っていた。

——9回裏。2アウト、ランナー3塁。

ピッチャーがモーションに入り、バットが振られた。打球は、緩やかに跳ねながら、ショートの正面へ。

私の指が、ビデオの再生ボタンに触れたまま、止まっていた。

父の動きは——ほんの一瞬、止まっていた。

一歩目が、遅い。というか、“踏んでない”。まるで、わざと反応しなかったみたいに。その間にボールは転がり、やっと父が捕球した頃には、サードランナーはホームに返って、歓声が上がる。父がファーストに送球した時には、タッチの差でバッターランナーがベースを踏んでいた。どちらが先かは判らなかった。カメラは切り替わって、観客席の拍手を映していた。だけど私は、ただショートのポジションを見つめていた。父が、動かなかったあの一歩を、何度も巻き戻して見返していた。

「……なんで、止まったの」

何度見ても、はっきりとはわからない。スパイクが滑ったようにも見えるし、打球のタイミングが絶妙だっただけかもしれない。誰にも、断言はできない。でも私は思ってしまった。これは、“演技”だ。ほんの一瞬だけ、自分に嘘をついた動き。それが体に残っていた。私は巻き戻しを止めて、再生したまま、画面を見つめた。父はカメラに背を向けていた。あのとき、どんな顔をしていたのかは、誰にもわからない。でも、私には、見えた気がした。



志藤政信(しどうまさのぶ)は、想像していたよりもずっと若かった。てっきり白髪まじりの定年寸前かと思っていたのに、現れたのは五十前後で、無精髭の、無愛想そうな男だった。

「お前が、鳥谷の娘か」

そう言った口調に、驚きも懐かしさもなかった。ただ、確認のために言ったってだけのトーンだった。

「……はい。突然すみません。昔、父を取材していたって聞いて——」

「取材っていうか、追ってただけだよ。チームにいた頃は記事にもしてたけど、最後の年はほとんど使われなかった。球団もメディアも、“終わった人間”には関心持たないからな」

志藤は、コーヒーにミルクを入れずに一口飲んだ。私の前には、紙コップの紅茶。冷めている。

「最後の試合のこと、聞きたいんです。プレーの映像は見ました。ショートのゴロ。……父は、わざと落としたんですか?」

一拍の沈黙。

志藤は少しだけ口元を歪めて、うつむいた。

「……まあ、そう見えるわな。あれは。あの試合、いろいろおかしかったからな」

「おかしい?」

「点の入り方も、守備のシフトも、全部。普通なら勝てた。勝ちにいけた試合だった。でも——球団がそれを望んでなかった」

「……どういう意味ですか?」

志藤は、コップの底を見ながら、ぼそりと呟いた。

「八百長、って言葉、知ってるか?」

知ってる。知らないふりをするのもばかばかしかった。

「勝っちゃいけない試合ってのが、たまにあるんだよ。特にシーズンの終盤な。契約、放映権、ドラフト、スポンサー……上が勝ちたくないと思ったら、現場は黙って従う。選手にまで話すことはほとんどない。でも、鳥谷は——気づいた。試合の空気に、あいつだけ気づいてた。“これは勝っちゃダメなやつだ”って。そんで、あいつは……たぶん、意図して落としたんだ。誰かに言われたわけじゃなく、自分でそう“選んだ”」

私は、その言葉の一つ一つが、自分の喉の奥に突き刺さっていくのを感じてた。

「記録には、セーフって書かれてます。でも——本当は、アウトだったんですよね?」

志藤はうなずいた。三井と同じく、即答だった。

「普通の選手なら、あれはさばけた。鳥谷ほどの選手なら、確実にアウトにできた」

「それを——セーフにした」

「そう。“結果としてセーフになった”んじゃない。“セーフにした”んだよ。あのプレーだけは、どう考えても、不自然だった。一歩、足を止めてる。お前、映像見たんだろ?」

私はうなずくしかなかった。

「鳥谷が、最後に選んだのは、“負けること”だった。勝つために野球をしてきたやつが、最後の最後で、負けることを選んだんだ。……それを、誇りに思うかは、お前次第だ」

私次第?なにそれ。どうしてそんな、無責任な言い方ができるの。でも、たしかにそうなのかもしれない。

私はもう、ただの娘じゃない。“見届ける人間”になってしまった。志藤は私の表情を見ず、ただ低い声で最後に言った。

「一つだけ、忘れるなよ。鳥谷は、あの瞬間だけは、誰かに指示された訳じゃない。自分で、選んだんだ。それだけは、間違いない」



「……これ、さばけたろ」

画面を一時停止した状態で、パソコンを覗き込んでいたのは、私の学校の体育教師。野球部の顧問。元・三軍の内野手。名前を伏せて動画を見せたら、食い入るように再生を繰り返した。

「ステップの入りが完璧だし、グラブの出し方も迷いがない。っていうか、打球の速度と角度なら、普通に一歩目で処理できる。これ、たぶん“遅らせてる”な。半テンポ……いや、四分の一テンポくらい」

「じゃあ……アウトだったんですか?」

私が聞くと、先生は画面を見つめたまま、ゆっくり言った。

「アウトにできた。それだけは間違いない。できなかったんじゃない。“しなかった”。」

動画は無音のまま、同じ打球を何度も流し続けていた。目を凝らしても、どのフレームも決定打にはならない。でも、見れば見るほど、感じる違和感だけが大きくなっていく。私はこの数日間で、三人の“大人”にこの映像を見せた。三井、志藤、そしてこの教師。三人とも言葉の選び方は違っていたけど、全員が共通して言ったことがあった。

「鳥谷丈一は、アウトにできた。でも、わざとやらなかったかもしれない」

わざと。

演技。

選んだ。

誰かのために?それとも、自分のために?いや、もしかして——

「誰かに“見せるため”だったのかな」

私はそう呟いて、少しだけ背筋が寒くなった。それは、思い付きなんかじゃなかった。もっと前から、心のどこかにあった疑問だった。父は、そのプレーを“誰かに見せようとしていた”。じゃなきゃ、寝言にまで出てくるはずがない。私は立ち上がって、スマホを手に取った。検索履歴には、「鳥谷丈一」「ショートゴロ」「最終戦」の文字が並んでいる。

この人は——父は、自分の全てを、あのプレーに賭けていたんじゃないか。野球人生のすべてを、その一歩の“躊躇”に込めたんじゃないか。

「なんで、そんなことしたの……」

言葉は、誰にも向けられていなかった。けど、部屋の中の空気が少しだけ重くなった気がした。アウトにできたのに。取れたのに。勝てたのに。——あの人は、落とした。それが、父の誇り?

信じたくない。でも、それしか考えられない。



帰宅して、鍵を閉めて、靴を脱いで、何も言わずに、リビングに入った。父は、寝ていた。テレビもつけず、酒の缶も開けていない。深く沈んだソファのくぼみの中に、ただ呼吸だけが残っていた。私はその音を確認してから、無言で押し入れの中を探った。昔の段ボール箱。破れかけたガムテープ。カビ臭い木のにおい。中から取り出したのは、ひとつのグローブだった。黒ずんだ革。指の付け根が擦り切れている。使い込まれたというより、使いすぎて壊れかけてる。父がいつも「これが誇りだった」と言っていた道具。私は、そのグローブを両手で持ち上げて、静かに握ってみた。

——ぴたり、と、手の形に沿って収まった。何かが、伝わってくるわけじゃない。でも、皮の硬さも、匂いも、内側に残った指の跡も、全部が父のものだった。

私は目を閉じて、想像した。あの打球が転がってくる、あの瞬間。一歩目を、止める。全身の筋肉が“動け”と言っているのに、心だけが“待て”と命じている。

その一歩を止めるには、相当な理由がなきゃできない。そして父は——止まった。

誰のために?

あの試合は、勝てた。でも勝ってはいけなかった。チームの事情か、契約の都合か。それとも——もっと個人的な、“家族のこと”か。私はグローブを握ったまま、自分の中のある記憶を呼び出していた。

昔、まだ母が家にいたころ。夕方の公園で、父が私にボールを投げた。私はグローブでそれを受け損なって、泣いた。

「いいんだよ、ゴロは痛くねえ。正面から受けりゃ、痛くねえんだ。怖がるな」

そのときの父の声だけは、なぜか、今でも鮮明に覚えていた。私は、グローブをそっと床に置いた。“正面から受ければ痛くない”……ほんとに、そうだった?父は、本当にそう思っていた?それとも——自分が一番、怖がっていたのは、“正面”だったんじゃないか。

誰も知らなかった。私も知らなかった。母も、きっと知りきれていなかった。でも、私は今、知ろうとしてる。父が、何を見て、何を捨てたのか。

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