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手紙

新聞は取っていないけど、ポストは見に行く。いらないチラシでも、何もないよりはマシだ。

その朝は、風がやんでいた。前の晩に転がっていた缶は、誰かに片づけられたらしい。というより、風に吹き飛ばされたのかもしれない。階段を下りると、ポストの奥に、小さな封筒が挟まっていた。茶色い紙、のりが黄ばんだ古い封筒。宛名はない。切手も貼られてない。でも、裏に封をするように貼られたセロテープが、妙に丁寧だった。部屋に戻って、テーブルの上で開けた。

一枚だけ、手紙が入っていた。白い便箋。罫線が入っていて、縦書き。字を見た瞬間に、わかった。この字を、私は知っている。

母の字だ。

「——あのショートゴロだけは、彼の誇りだった」

それしか書かれていなかった。

本当に、それだけだった。

誰宛でもなく、名前もない。挨拶もない。けれど間違いようもなく、母の字で、母の文だった。あの人は、たしかに、こんな言い方をする。

“誇りだった”——こんなふうに過去形で言うくせに、否定しない。

“だけは”なんて限定を入れるくせに、すべてを守ろうとする。

気づいたら、手紙をテーブルの上に何度も叩きつけていた。紙だから大きな音はしない。でも、自分の心臓の音だけがうるさかった。

なにこの文。

今さら何。

逃げたくせに、何も言わなかったくせに、私のことなんか一回も振り返らなかったくせに。なぜ今、そんなことを、私に。

ソファの方を見ると、父はまだ寝ていた。口を半開きにして、だらしなく、無防備に。私は立ち上がり、思わず手紙を握ってその顔の前に突き出しかけた。

「……これ、見て言える?」

そう呟きかけた瞬間、足が止まった。いや、言っても、わかるわけがない。わかる人なら、もう少しマシな親父になってる。私はゆっくりと手紙を丸めて、ポケットに突っ込んだ。何もなかったふりをして、台所に立つ。ガスコンロの火をつけて、やかんに水を入れる。その間にも、あの一文が脳内で何度も反復されていた。

“あのショートゴロだけは、彼の誇りだった”

なんなんだよ、それ。なんの話なんだよ。それを知ってどうすればいいんだよ。でも、知りたいと思ってしまった。



三回目を読んだあと、私は手紙を机に押しつけた。

四回目を読んだときには、内容はもう暗記してた。

五回目には、字のかすれ具合を目で追っていた。


たった一行しか書いてないくせに、なぜこんなに、読むたびに違う顔をするんだろう。同じ文で、感情が揺れるなんて、バカみたいだ。

“あのショートゴロだけは、彼の誇りだった”

なんで“だけは”なんだよ。

他には誇れることなんてなかったって意味?それとも、“それ以外は全部ダメだった”ってこと?

しかも“だった”って、過去形。

今はもう、誇りにする価値もないってこと?

なにこの言い方。なにこの温度。

たぶん——いや、絶対、母だ。あの人の文体、語尾の使い方、漢字の偏り、癖のある“の”の形。字をなぞっているうちに、声の質まで思い出していた。

あんなに忘れたつもりだったのに。もう二度と関わることはないって思ってたのに。いまさら、たった一枚の紙切れで、心臓の奥を撫でてくるなんて。

「……クソが」

小さく声に出した。

でも声は震えてなかった。たぶん。

ポケットから手紙を出して、もう一度見る。破いて捨ててやろうかとも思った。けど、指が勝手に折り目を揃えてた。

意味なんかないのに。これを読んだからって何が変わるわけでもないのに。

私の今が、楽になるわけじゃないのに。

……なのに。

なのに、これをもらってちょっと嬉しかったと思ってしまった自分が、一番腹立たしい。

私だって、忘れられてないって証明されてしまった。

私のことを、母はまだ知ってる。この家に、私がいると知ってる。だからこの手紙が届いた。

知ってしまった。気づいてしまった。

——それが、一番、きつい。



朝、リビングのテーブルに手紙を置いたまま、私はコップに水を注いだ。父はいつもより遅く起きて、無言でその手紙を見た。

——というイメージが、頭の中で何度も再生された。

けど現実の私は、手紙を机に置かなかった。水を注ぎに行くことすらしなかった。

そんなことしても、どうせ「なんだこれ」で終わる。

あるいは「見せるな」と怒鳴られる。どっちにしろ、こっちが損をするだけ。

結局、私は手紙をノートの間に挟んで、鞄に突っ込んだ。父は寝ていた。また、昨晩のチューハイの空き缶がいくつか、倒れたまま床に転がっている。

私は小さなため息をついて、部屋を出た。

学校には行かなかった。制服のまま、コンビニのイートインに入って、ホットミルクを買って、無料のWi-Fiに繋いで、スマホを開いた。なんのつもりでやったのか、自分でもわからなかった。

ただ、無意識に、検索欄に名前を打っていた。

「鳥谷丈一」

しばらく読み込みが続いて、検索結果が表示された。

けれど、出てきたのは、古い寄せ集めの野球ブログとか、2ちゃんの過去ログとか、“同姓同名の別人”のFacebookとか、そういうのばっかりだった。

Wikipediaすらない。

元プロ野球選手なのに?

私は眉をひそめて、キーワードを増やしてみた。

「鳥谷丈一 ショートゴロ」

……なし。

「鳥谷丈一 引退試合」

……出ない。

私はスマホの画面を指でスクロールしながら、胸の奥がざらざらしていくのを感じた。情報が“ない”ことの不気味さって、こういうことだ。

検索ワードを工夫すれば出てくるんじゃなくて、そもそも、最初から存在が曖昧にされてる気配。

まるで——

まるで「誰かがこの人をネット上から消そうとした」みたいに。

“有名人だった人”の痕跡がこんなに薄いなんて、どう考えてもおかしい。私はホットミルクの紙コップを持ち直して、もう一度“ショートゴロ”という言葉だけで検索した。そのプレーの意味を、知っているわけじゃなかった。でも、父が寝言で言って、母が手紙に書いた、その言葉の重なりに何かがあると思ってしまった。

検索結果には、教科書的な野球の解説サイトが出てきただけだった。何もヒントにはならなかった。

でも逆に、何も出てこないことが、いちばんの手がかりなんじゃないかと、思ってしまった。



市立図書館は、昼過ぎのくせにやけに静かだった。平日のこの時間、いるのは老人と浪人生だけ。その中で制服のまま一人、古い新聞の縮刷版に食い入るようにしている女子高生は、たぶん少し浮いていた。

私は「鳥谷丈一」を検索したスマホを鞄にしまい、閲覧PCでアーカイブを探し始めた。キーボードを打つ手はなんだか落ち着かないで、震えている。別に誰に見られてるわけでもないのに、気持ちがざわざわしていた。

——まずは、プロデビューの年から。

スポーツ欄の片隅に、父の名前が確かにあった。

「期待のルーキー、川岳高専のドラ1鳥谷、開幕スタメン」

「軽快な守備でプロ初試合、3ゴロ処理」

読んだこともない父の人生が、活字になって目の前にあった。なんだよ、ちゃんとすごかったじゃん。

そう思った自分に腹が立った。

少しずつ年を追って読み進めていく。怪我の記録もある。交代要員としての登録、ファーム落ち。徐々に名前が記事から消えていく。

それでも、私は知っている。父は、ある年に突然、すっぱりと姿を消した。その年を目指して、新聞を繰った。

——だけど。

その年の、シーズン最終戦の記事だけがなかった。

5日前の記事はある。3日前も。だけど、その試合の日付だけ、アーカイブが空白だった。破られてるわけでもなく、ただ——抜けている。

図書館のスタッフに聞いたけど、「そこの一冊だけ、返却されてないみたいですね」と言われた。本当に“返却されてない”のか、それとも、意図的に隠されたのか。判断する材料はなかった。けれど、私の中ではすでに決まっていた。

——これは、偶然じゃない。

誰かが、あるいは父自身が、その日だけをこの世界から消したんだ。例の“ショートゴロ”が行われた、たったひとつの試合。

そこには何かがある。

私は縮刷版を閉じて、少しだけ目を閉じた。浮かんできたのは、寝言をつぶやいていた父の顔。

「……ショートゴロだった……」

それは誇りだったのか、それとも後悔だったのか。母が言った“彼の誇り”って言葉は、皮肉なのか、それともほんとの感情なのか。

分からない。

でも分かんないままでいるのは、もう嫌だった。



帰ったら、部屋の空気が少し違っていた。昼間の陽が残ってるわけでもないのに、やけに温度が高かった。

酒の匂いじゃない、もっと汗っぽい、生っぽい空気。

父はソファに寝転んでいた。テレビは点いていない。電気もつけていない。彼の顔は、何かを飲み込んだ直後みたいに重たくて、沈んでいた。

私は靴を脱いで、静かに部屋の中を通った。手紙のことは言わなかった。図書館に行ったことも。何も話す気にならなかった。代わりに、自分の布団に入って、うつ伏せになった。目を閉じても、脳のどこかがずっと動いてた。

あの新聞の空白。

検索しても出てこない引退記録。

ネットにさえ残ってないプレー。

まるで、全部“無かったこと”にされてる。

でも母は書いていた。

“あのショートゴロだけは、彼の誇りだった”って。じゃあ、誇りになるほどのプレーが、なぜどこにも残ってないの?

父は、酒の勢いで語りたがるくせに、肝心なことだけ絶対に話さない。その矛盾が、ずっと喉の奥でひっかかってた。

「……ショートゴロだった……」

また、あの声がよみがえる。

寝言で、何度も何度もつぶやいていたあの言葉。私の目の前にあるのは、酒と嘘でぶくぶくにふくれた、どうしようもない男。でも、もしかしたらその奥に、

“何かを選んだ一瞬”が、ちゃんとあったんじゃないかって思い始めていた。

母はそれを知ってる。

きっと知ったうえで、家を出ていった。

じゃあ私は?

何も知らないまま、“クズだったから”って理由だけで、この人を切り捨てていいの?

違う。

違うんじゃないかって、少しだけ思ってしまった。そして、その“少し”を自分で潰せなかった。私は布団の中で、天井を睨みながら、喉の奥で言葉を作った。

探すしかないじゃん。

誰も言ってくれないなら、自分で調べるしかないじゃん。あの人が何をしたのか、ちゃんと見届けるしかないじゃん。

——だって私は、

この人の“娘”なんだから。

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