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くぼみ

カラン、コロンと、どこかで空き缶が転がった。今朝は風がやけに強い。洗濯物なんて干せないのに、ベランダの洗濯竿がギチギチうるさくて、耳障りだった。シンクの前には、昨日の夕飯の残骸。茶碗の底に乾いた味噌汁の膜がこびりついている。フライパンの中には、焦げついた豚肉の脂。箸でつつく気にもならない。そしてなぜか、灰皿代わりに使われた小鉢がひとつ。食器じゃない、ただのゴミ。私は、スポンジを持ったまま少しだけ立ち尽くして、それから一つずつ無心で片付けていく。ソファの方から、かすれた声がした。

「……水……」

父だった。まだ寝てるのか起きてるのかも分からない声だったけど、私に向けての要求だけはいつも明確だ。私は無言で水道をひねって、コップに水を注ぎ、リビングのテーブルに置いた。もちろん氷なんて入れない。入れる意味がない。

「おい、真白(ましろ)……聞いてんのかよ」

また声がした。反応しなかったら、少し語気が強くなった。

「水。持ってこいって言っただろ」

皿をすすぎながら、私は一言だけ返した。

「テーブル置いてあるじゃん」

それっきり、会話は止まる。私は水の音に耳を預けるふりをして、父がどうするかを気にしていた。気にしてる自分に気づくのが、ちょっとだけ腹立たしい。しばらくして、ギシ、とソファのバネが鳴った。父がむくんだ顔でこっちに来て、水を取った気配がする。視線を感じる。見てる。きっと、何か言いたい。でも、それを形にできない。代わりに、こう言った。

「昨日、YouTubeで見たんだよ。昔の試合、俺が出てたやつ。懐かしくてさ。……ショートゴロな。0.5倍速で見たら完璧だった。ステップ踏まずに一塁アウト。今のガキどもにはできねえやつだよ」

その声は少し楽しそうだった。けど私は、箸をすすぐ手を止めなかった。父の話には意味がない。思い出しているだけの独り言。私に聞かせるようでいて、聞かせる気はない。だから、私も聞かない。

「当時の監督がな、“あのプレーを忘れるな”って言ったんだ。あれは誇りにしていいって。……なあ、真白。友達に見せたらさ、“あの鳥谷丈一(とりたにじょういち)の娘さんですか!”って言われるぞ。……はは、ウケるな」

なんもウケない。

私は布巾で皿を拭きながら、ゆっくりと父の方を見た。何も言わず、まばたきもせずに、ただ見た。父は、一瞬で目を逸らした。そのまま、ソファに沈んでいった。

カラン。

風が缶を転がしていた。朝なのに、夜の匂いが抜けてくれない。

ひと通り洗い終わり、リビングへ向かうと、床一面に見覚えのないグローブと、ボロボロのスパイク、そして、汚れたユニフォームが広げられていた。干からびた皮のにおいと、カビくさいような何かが混じって、部屋の空気がいつもより重く感じた。

「さわんなよ」

父の声が聞こえたときには、私はすでにスパイクの紐をまたごうとしていた。でも足を止めた。というより、止めざるを得なかった。その言い方が、いつものぼそぼそした感じと違って、なんというか、痛みに近かったから。

「そこ、通れないんだけど」

私はできるだけ平坦な声で言った。怒ってないふりをしながら、でも明らかに“わざと”そう言った。

「なら遠回りしろよ。踏んだら殺すぞ、そんなもん」

父は座椅子に座ったまま、グローブの指をゆっくりと開いたり閉じたりしていた。ああ、それだけは真面目なんだ。今でも。くだらないって、思った。でも、少しだけ羨ましいとも思った。

「まだこれ捨ててなかったんだ」

私は小声で言って、すぐに後悔した。案の定、父はその一言に食いついた。

「バカか、お前。捨てるわけねえだろ、こんなもん。……これはな、プロ入って一年目の開幕戦のやつだ。6-4-3のゲッツーに繋がるショートゴロを三つと、普通のショートゴロを一つ捌いた日。全部でアウト七つ。お前、わかるか? 一試合で七つアウトとるってのが、どんな意味かわかんのか?」

本当に何を言っているのか判らなかった。でも、わかったふりをする気にもなれなかった。だから私は、定型文を使った。

「……そっか。すごかったんだね」

「すごかったんだよ。ってか、今もすごいんだよ。こいつはな……今でも投げられる。筋肉の形が違ぇんだよ」

グローブをはめたまま、父が拳を握った。その横顔は、誰かに見せるための表情だった。でもこの部屋には、私と父しかいない。私は遠回りしてキッチンへ向かい、冷蔵庫から牛乳を取り出した。それだけのことなのに、背中に視線がずっと突き刺さっていた。

「……なあ、真白」

父が呼び止めた。

「今の野球って、セカンドが深く守りすぎなんだよな。ショートの守備範囲、信じてねえんだよ。過去宮(かこみや)とか、原田(はらだ)とか、俺には及ばないにしても『名手』はいるのに……お前、知ってたか?」

「知らない」

牛乳パックをそのまま飲みながら答えると、父はしばらく黙った。その沈黙の長さが、なんとなく苦しかった。

「……俺の時代のショートは、もっと前に出てた。もっと、信じられてたんだよ」

またその声だ。語るんじゃなくて、思い出しているだけの声。懐かしいんじゃない。戻れないってことを、じわじわ味わってる声。私は、牛乳特有の甘さが急に気持ち悪くなって、シンクに戻して吐きそうになるのをこらえた。床にはまだ、あのスパイクがある。父が言った。“踏んだら殺す”。その言葉が、ずっと頭の中で鳴ってた。私はキッチンに立ったまま、冷蔵庫のドアを開けたり閉めたりして時間を潰した。ほんとは逃げ出したいだけだった。やがて父は、家の外に出ていった。



「ガキがよ、ガキがっ……!」

玄関のドアが開いて、靴音が荒く響いた。父が、いつもの薄いスウェットにスリッパを引きずって戻ってきた。私は冷蔵庫の前に立ったまま、何も言わずに彼の様子を見ていた。額には汗、手には何か茶色い袋、口元は吊り上がって、眉間には深いシワ。

「あのクソガキ、調子乗りやがって!石ぶつけやがったんだ、俺に!分かるか?石を!大人にな、顔面に!」

私は黙って水を飲んだ。できるだけ何も言わず、嵐が過ぎるのを待つ。この家のルール。返事をすれば火がつく。目を合わせれば跳ね返ってくる。頷くか、黙るか、それだけでいい。

「……俺が誰かわかってんのか、あのクソガキ!鳥谷丈一だぞ!プロのショートだぞ!? てめえみてぇなガキが石ぶつけていい人間じゃねえんだよ!」

父がビニール袋をテーブルに叩きつけた。中から缶チューハイが転がって、床に落ちて、「ドン」と、重い音を鳴らした。私は視線を落として、それが止まるまで見ていた。

「警察呼ばれてもおかしくねえだろ、こっちは被害者なんだからよ!……なあ真白、お前もそう思うだろ!?」

思わない。

でも言わない。

「俺はよ……昔から誰にも理解されねぇんだよ。ずっとそうだ……あの女もそうだった。お前の母さんもよ。俺をバカにして、いつも上から見てきやがって……」

私はその瞬間、ふっと背中に緊張が走った。“母さん”って単語は、この家では地雷だった。言う側も、聞く側も、そこに踏み込む覚悟なんて持ってない。

「逃げやがって……俺を捨てやがって。お前が生まれてすぐだったな。あいつ、言ったんだよ。“この人は危ない”って。“この子に手を出したら終わりだ”って。お前覚えてねえか?……俺は、ただちょっと、怒鳴っただけだったのによォ……!」

手が、上がった。

ほんの一瞬だった。

私の前に父の腕が来て、止まった。頬に触れる寸前だった。触れてはいなかった。でも、空気が殴ってきた。

「……やってみなよ」

私は言った。声が、自分のものじゃないみたいに低かった。

「殴れば?また逃げればいいんじゃない、誰かが」

その瞬間、父の表情が変わった。怒っているというより、動揺していた。自分でも、手が勝手に上がったことに驚いてるような、そんな顔。

「……俺は……」

何かを言いかけたけど、最後まで言わなかった。そのまま、手を下ろして、崩れるように椅子に座った。私はキッチンに戻って、水をもう一杯飲んだ。口の中が砂みたいに乾いていたのに、喉は全然潤わなかった。

その背中に向かって、父がぽつりと呟いた。

「ぶつけてやったんだ……俺の方から、先に」

私は聞こえないふりをした。風の音と同じ、ただの雑音として流した。



テレビの音がしていた。音量を絞っても、深夜のニュースのアナウンサーの声は、部屋を妙に真面目な空気にする。私は、消したリモコンをもう一度握って、何も考えずに無音にした。父は布団で寝ている。いつもどおり、酒を飲んで、シャワーも浴びず、煙草の匂いをまとったまま。私の部屋と呼べる場所はなくて、押し入れの前に敷いた布団が“私のスペース”だった。

座って、足を抱えて、ひたすら目を閉じる。

眠れないのはもう慣れてる。眠れない夜が続くと、眠ること自体が面倒になる。

「……ショート……ゴロ……だった……」

突然だった。呼吸と寝息の中に、ぼそりと混じった声。私は、背中に冷たい感覚が走るのを感じた。目は閉じていたけど、耳は勝手に音を拾っていた。布団をすれる音、窓を叩く風、そして、父の寝言。

「……俺が……ちゃんと……」

それきり、声は消えた。

“ショートゴロだった”。

その言葉が、どうしてだか、耳から離れなかった。野球の用語だってことくらいは知ってる。だけどそれ以上の意味は、わからない。

ただ、なぜだか。

あの父が、あんなに無防備な声で、あんな静かなトーンで、それを言ったことが——胸の奥に、引っかかった。

目を開けても、部屋は真っ暗で、何も変わっていなかった。それでも、“何か”が変わった気がした。

些細で機微だけど、無視できない“何か”。私は、毛布の中で小さくつぶやいた。

「……ショートゴロって、何……」

誰にも聞かれてないはずのその声が、壁に当たって、静かに返ってきた気がした。



どうしても眠れなかった。いつものことだけど、今日は少し質が違った。いつもみたいに息を殺して寝る時間じゃなくて、ずっとなにかが、耳の奥に張りついてる感じ。それが何かは、わかってる。父の寝言——あの一言。

「……ショートゴロだった……」

呟きじゃなくて、呪文みたいに響いて、ぐるぐる回ってる。何が“だった”のかも、なぜ今それを言ったのかも、なぜそれを私はこんなに気にしているのかも。わからないまま、でも引っかかってる。私は、そっと布団を抜け出した。玄関の引き戸を開けると、夜風が頬を撫でた。冷たいっていうより、乾いてる。皮膚が薄い紙みたいになっていく感覚。アパートの前の坂道には、空き缶がひとつ、転がっていた。誰かが捨てたやつだ。私の家のじゃない。

蹴った。

ガラン、と転がって、止まった。

もう一度蹴った。

音が少し遠くに行って、それでも響いた。耳から離れないって、こういうことなんだと思った。父の言葉も、部屋の匂いも、あのスパイクの光り方も。ぜんぶ、音になって残ってる。

私は空を見上げた。星はなかった。街灯すらまともについてない坂の途中で、私は初めて“調べてみよう”と思った。それがなんなのか、まだわからない。ただ、父の記憶の中に何かが埋まってて、それが“自分のこと”に繋がってるような気がして。

“あの人を、知らないまま家を出るのは、なんか嫌だ”

そんな風に思ってる自分に、少しだけ腹が立った。でも、そのまま私は、玄関の扉を閉めて、部屋の中に戻った。布団に入って、目を閉じる。眠れないのは変わらないけど、朝が来るのがちょっとだけ怖くなくなった。

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