48. 秘密を握る者 <完>
ユグドランド島に向かう船の甲板で、ひとりの男が青ざめている。
「アーサー、私はもうダメかもしれません」
「いつも大げさなんですから、ペトロ博士は」
「アーサー、私に何かあったら、あとのことは頼みましたよ」
「はいはい。お任せください。ただの船酔いなのに、今生の別れみたいですね」
アーサーは涙目になっているペトロ博士を軽くいなす。
「ほらほら、ペトロ博士。島が見えてきましたよ。もうすぐですよ」
「ああ、ありがたい」
ペトロ博士は、祈るようにして島を見つめ続ける。やっとの思いで陸に上がったとき、ペトロ博士はへなへなと地面に崩れ落ちた。
「おお、おお。揺れない大地。堅固で確かで頼れる大地。もう、二度とあなたから離れない」
「何を詩人みたいなこと言ってるんですか。さあ、馬車に乗りますよ。ガタガタしますが、大丈夫ですか」
「なに、馬車ならすぐ止まって降りれば安全な大地ではありませんか。船は降りたらあの世行きですからね。恐ろしい乗り物です、ええ、本当に」
ペトロ博士の自慢のヒゲがふにゃりと垂れている。ペトロ博士はヨレヨレと馬車に乗り込むと、グッタリと背もたれに体を預けた。
「こうも揺れてばかりでは、私の自慢の頭脳がきちんと働かなくなるかもしれません」
「休暇だから、いいんじゃないですかね」
「休暇という建前ですが、この島の謎を解き明かすことが本当の目的ですからね。頭が冬眠中になっては困るのですよ」
「ペトロ博士なら大丈夫ですよ」
秘書のアーサーは、軽い調子で答えた。
「ああ、そういえば。領主のマーティン様に手を握ってもらえば、船酔いはたちどころに治まるそうですよ。あとで、お願いしてみましょう。ペトロ博士は高名ですからね。マーティン様も手ぐらい握ってくれるんじゃないですかね」
「そうだといいのですが」
ペトロ博士は弱々しくつぶやき、深々とため息を吐いた。
船酔いでシオシオのヘナヘナだったペトロ博士。領主マーティンと執務補佐官ベネディクトに会ったとたん、シャキッとした。ベネディクトの持っている古い紙の束を見て、目を輝かせる。
「ペトロ博士のお知恵を拝借できれば、大変ありがたいです」
「お知恵でもおヒゲでも、なんなりと。頭髪は残り少ないですが、頭脳には自信があります」
嬉しすぎて舞い上がって、自虐的な冗談を言う。マーティンもベネディクトも、やんわりと聞き流した。返事に困る発言は、聞かなかったことにするのが一番。
ベネディクトはペトロ博士を研究室に案内する。
「この古代文字が私にはどうしても読めないのです。今まで見たことのない文字で、王都の王宮図書館に問い合わせているところなのですが」
ベネディクトはひときわ古い紙を、注意深く机に広げた。ペトロ博士は興奮して手をこすり合わせながら、顔を近づける。
「見たことがない文字です。象形文字ですね」
「ペトロ博士でも、初めて見る文字でしたか」
ベネディクトは肩を落とす。ガッカリしている様子のベネディクトとは対照的に、ペトロ博士は満面の笑顔。
「これは解明しがいのある謎が現れたものです。寿命がくるまで退屈しないで済みそうです」
「できれば、一か月ぐらいで解き明かしたかったのですが」
ベネディクトは小声で言った。
「こういうものは、焦りは禁物です。気長にやって、後世に託せばいいのですよ。研究したいので、写しを書いてもよろしいですかな」
「写しは既にあります。原本を何度も広げるのはよくないと思いましたので」
ベネディクトが原本とそっくりな写しをペトロ博士に渡す。
「さすがです。素晴らしいです。では、こちらをじっくり読みこませていただくとしましょう」
ペトロ博士はまずは、ざっと最初から最後まで紙をめくって眺めてみる。もちろん、何も読み取れはしないが、全体像を把握するのは大事なのだ。
「アーサー、白紙にどの文字が何回出てくるかまとめてください」
「はい、分かりました。ただし、きちんと食事は時間通りにとってくださいよ」
「もちろんです。頭脳を適切に動かすには、食事と運動が欠かせませんからね」
ふたりは研究室で黙々と紙の束と向き合う。食事の時間が来ると、外に出て体を動かしながら庭園の食卓に向かう。新鮮な空気を吸い、手をブラブラさせ、凝り固まった体をほぐす。象形文字についてはなるべく考えないように、目の前の食事に集中する。
「野菜が実に甘い。魚も素材の味わいが引き立っている。くどくなく、コッテリしていない。だが奥深い味わい。なかなかですね」
ペトロ博士は最後に甘くてトロリとしたバナナジュースを楽しむ。
「私は少し散歩してきますからね。アーサーはケーキでも食べて休憩していなさい」
「はい、ペトロ博士。あ、でも、考え込んで崖から落ちないでくださいよ」
「そんなバカなことはしませんよ」
ペトロ博士は威厳たっぷりに歩き始める。ペトロ博士はおいしいごはんと、その後の散歩が大好きだ。景色をぼんやり眺めながらウロウロすると、いい考えが浮かぶことが多い。
「あの雲の形は、ネコに似ていますね。象形文字にもネコがありました。港にはたくさんの野良ネコ。何か関係があるのでしょうか」
雲を見ながら考えていると、「止まって」という声が聞こえた。ペトロ博士が振り向くと、後ろの方から気品のある女性が駆けてくる。見覚えのある顔だ。宿に荷物を置きに行ったときに、挨拶した。確か──。
「クラリス・フェデリ伯爵夫人」
思い出して、ペトロ博士はホッとする。クラリスはガシッとペトロ博士の腕をつかんだ。その顔には焦りの色が見える。
「ペトロ博士。それ以上進むと、崖から落ちます」
ペトロ博士は足元を見て、背筋がヒュンッと涼しくなった。もうあと一歩、二歩で、ドボンだった。ペトロ博士はクラリスに腕を引っ張られ、ジリジリと後ろにさがる。十分に安全な場所まで後ずさると、クラリスは手を離した。ペトロ博士はハンカチを取り出し、額の汗を拭う。
「いやはや、なんとまあ、ビックリしました」
「それはこちらが言いたいことですわ。肝が冷えましたわ。あんなに走ったのは、いつぶりかしら。明日か明後日は、足が痛くて起きられないかもしれませんわ」
「湯船でゆっくり揉むといいですよ」
ペトロ博士はどこかで読んだ知識を披露した。そして、慌てて帽子を取って頭を下げる。
「命を助けていただきました。本当にありがとうございます」
「間に合ってよかったですわ。この子がすごく吠えたので、何事かと急いでやってきましたの」
クラリスの足元に行儀よく座ってペトロ博士を見上げる犬。褒めてほしそうに尻尾を振っている。ペトロ博士はあらゆるポケットを探ったが、何もいいものは持っていなかった。仕方なく、手ぶらでしゃがみ込む。
「犬殿。あなたとクラリス様は、私の命の恩人です。困ったときはなんなりとお申しつけください。残念ながら今は何も手元にないのですが。後ほどなにか見繕ってお届けします」
犬は目をキラキラさせている。まるで、ペトロ博士の言っていることが分かっているかのよう。
「知的な犬殿ですね。お名前は何ですか?」
「テディです」
「テディ殿、クラリス様。素敵なおふたかたに心からの感謝を」
ペトロ博士は大真面目だが、クラリスは吹きだす。
「さあ、屋敷の方に戻りましょう。秘書の方が心配されているのではないかしら」
「崖から落ちそうになったことは、彼には内緒でお願いできますでしょうか」
「よろしくてよ。わたくしのスキルは『秘密』ですから。内緒ごとは得意です」
「それは、素晴らしいスキルですね。私のスキルは『秩序』です」
「はい、存じ上げておりますわ。ペトロ博士は謎を解明して秩序立てることで有名ですもの。今はどんな謎に取り組んでいらっしゃいますの?」
「たっぷりとご説明したいところですが、それはご領主様の許可を得なくてはなりません。それまでは、過去のおもしろ秩序ネタをお話しいたしましょう」
ペトロ博士は、少し話を盛りながら、全力でクラリスを楽しませようとがんばった。
屋敷に着き、マーティンとベネディクトの許可を得た上で、ペトロ博士はクラリスを研究室に案内する。誰かに説明すると、思考が整理されくっきりする。知能の高い質問者は、ペトロ博士にとってありがたい存在だ。
「この古い象形文字。私は今まで一度も目にしたことがありません。秘書のアーサーがまとめてくれたところによると、文字は四十五種類。人の顔や全身らしき文字と、ネコ、犬、牛、馬、鳥、魚など動物らしき文字群」
「なるほど。興味深いですわね。それで、意味は分かりそうですの?」
「一朝一夕にはいきません。文字と文字の組み合わせをかき出し、頻出回数をまとめ、推測する。回数が多い文字を重点的に調べるなどですね」
「果てしがない作業ですわね。わたくしにも何か手伝えることがあるかしら。何もしたくなくてホテルに来たのですが、そろそろ暇を持て余してきましたの。ホホホ」
「それは誠にありがたいお申し出です。では、アーサーと共に、どの文字がどれだけ書かれているか、頻出回数を調べていただけますか」
「はい。なんだかワクワクいたしますわね」
三人が一心不乱に文字と向き合っていると、イタズラな風がバーンッと窓を開け、部屋を一周し、紙の束を部屋中にまき散らした。
「ああー、しまったー。順番が分からなくなってしまうー」
実物そっくりに写し取ってあるため、通し番号が入っていないままだったのだ。アーサーが頭を抱え、クラリスは口を手で押さえ、ペトロ博士は床に落ちた紙の束を凝視する。ペトロ博士の緑の目が、キラリと光った。
「いや、これは神のお導きかもしれませんよ。今まで気にとめていませんでしたが、紙にうっすら書いてあった線が、模様を描いています」
紙のそこここに薄く入っていた線。他の紙の線と少しずつ繋がっているようだ。三人は手分けして、色んな紙の線をピタリと合うまで入れ替え、床いっぱいに紙を広げた。三人は机の上に立って、床を見下ろす。
「これは、うずまきでしょうか」
「うずまきですわね」
「グルグル目が回りそう」
ちょうどそのとき、ベネディクトが研究室にやってきた。ベネディクトは目を丸くするが、すぐに床に描かれたうずまき模様に気づく。
「なんという大発見。さすが、ペトロ博士。こんな短期間で謎を解き明かされるなんて」
「いえいえ、まだこれだけではなんとも」
「実は、マーゴット様が南の海岸沿いに、うずまき神殿を発見されたのです。おそらく、そことなんらか関わりがあると思います」
急遽、うずまき神殿に行ったことのあるマーゴット、護衛、コボルトたちが屋敷に集められる。
「誰か、うずまき神殿でこれらの文字を見たことはありませんか?」
ベネディクトの問いかけに、皆は首を傾げている。マーゴットがピシッと手を上げる。
「叡智の存在、トレントに聞けばいいのではないかしら」
「トレントは、自力で答えを出しなさいと言うのです」
「まあ。そういえば、そんなことを言われたような気もしたり、しなかったり。どうでしたかしら」
都合の悪いことは、さっくり忘れてしまえるマーゴット。目を輝かせてパチンッと手を叩く。
「では、チャンカワンカに聞いてみましょう。彼らはとても、何と言いますか。口が羽のようにフワフワですからね」
口が軽いということを、婉曲的に言ってみたマーゴット。ベネディクトが引きつった顔でマーゴットを止める。
「マーゴット様。チャンカワンカたちが出してくれる情報で、島はとても助かっております。彼らの善意で技術を披露してもらっています。ですが、こちらが欲張ってはいけないのではないかと。もし、それ以上はならんと、どなたか偉い方からお達しが出てしまうと困ります」
「そうねえ。確かに、冥界だか天界のどなたかから怒られるかもしれないわね。それはマズイわ。では、チャンカワンカはそっとしておきましょう。そういえば、トレントたちは私が近くにいるときは、口を手で押さえているわね。ちょっと失礼だわ」
マーゴットが少しプンプンした様子で言う。周囲の者は、そっと目をそらした。
「仕方がないですわね。では、現地に行って調べてみましょう。ついでに、魔植物を刈ってきますわ」
マーゴットが気軽に言う。ベネディクトが言葉に詰まっている間に、我も我もと手を上げる護衛とコボルトと、ペトロ博士。
「もちろん、私も同行させていただきます」
「あら、だったら、わたくしもぜひ」
クラリスも便乗する。アーサーは注意深く確認した。
「馬車でしょうか?」
「そうねえ、馬車でもいいですけれど。船の方が速く着くのではないかしら。船でちゃちゃっと行って、ペトロ博士が謎を解明されている間に、私は魔植物を刈る。それでいかがかしら」
「船」
ペトロ博士の顔がくもる。拷問のようだった船旅。あれがまた。
「ペトロ博士は、船が苦手ですのね。フローレンスに頼めば、船酔いに効く薬を出してくれるかもしれませんわ」
「それは、大変ありがたいです」
ペトロ博士が弱々しく、かすかな笑顔を見せる。それを見て、マーゴットは気の毒そうに眉を下げる。
「マーティンさんが同行してくださったら、船酔い知らずなのですけれども。さすがに、それはダメですわよね」
「突然の賓客が訪れた際、マーゴット様もマーティン様も不在となると、島民一同が途方に暮れてしまいます。それに、危機管理的にも、避けるべきかと」
ベネディクトがきっぱり言うと、マーゴットもすぐ納得する。
「ああ、そうね。確かにそうだわ。お兄様とお父様は、ふたり一緒に危険な場所に行ったりはされなかったわね。両方に何かあると島の危機ですものね。では、やはりフローレンスにお願いいたしましょう」
フローレンスは快く、大量の薬を見繕ってくれた。ペトロ博士は感激し、看護や医療の本を取り寄せてフローレンスに贈ると約束する。
念のため、マーゴットはトロントのケセドと、チャンカワンカ達にうずまき神殿に向かうことを告げてきた。
「ケセドからもらった紙の束をペトロ博士たちが少し解明してくださったのよ」
マーゴットがチラッと意味ありげな視線を送ると、ケセドとチャンカワンカ達は一斉に口を手で押さえた。
「一見、無意味に思えたうっすらした線をつなげて、全ての紙を並べると、線がグルグルのうずまき模様になったんですって」
ケセドは瞬きを繰り返し、チャンカワンカ達は口を押さえたまま踊り始めた。
「でもまだ、文字が読めたわけではないのよ。このままでは埒が明かないので、ペトロ博士たちとうずまき神殿に行こうかと思って」
マーゴットがチラチラとケセドを見ると、ケセドは視線をそらす。
「無駄骨にならなければいいのだけれど。行くことに意味はありそうかしらねえ?」
チャンカワンカ達が踊りをやめ、バチンッとウィンクした。ケセドもほんの少しだけ頷く。
「ありがとう、ケセド、チャンカワンカ。では、行って参りますわね」
ハラハラしながら見守っていたベネディクトとペトロ博士は、ホッと胸をなでおろす。
「さすがマーゴット様。ギリギリまで攻め、手がかりをつかみ取られた」
「叡智の存在トレントと、あのように気軽に会話なさるとは。さすがは王女殿下」
自分たちではとてもとても、ふたりは小声でささやき合う。
島民たちに盛大に見送られ、マーゴットたち調査隊一行は、再びの船旅へ。
「あらー、本当に風光明媚な島になっているわ」
マーゴットたちがユグドランド島に追放されてきたときは、もっと荒々しい雰囲気の島だった。今では、柔らかな緑に色鮮やかな果物がたわわに実っているのが、船の上からでもよく分かる。
「数か月で、こんなに豊かになるなんて。すごいわ」
「マーゴット王女殿下が数々の奇跡を起こされた結果と聞いております」
ペトロ博士が、酔い止め薬の瓶を握りしめながら言う。
「ハズレスキルたちでも、集まればすごいことができるって、証明できましたわね。あとは、そろそろやってくる酷暑をなんとかできればいいのですが」
日増しに、ジリジリと暑くなってきているのだ。
「例年に比べれば随分涼しいと聞いておりますが」
「世界樹のおかげで、日影が増えましたものね。それに、いい風が吹くようになったの」
マーゴットとペトロ博士は船から世界樹を見上げる。
「夏の暑さをなんとかできる、何かが載っている資料はどれでしょうって、ベネディクトがケセドに聞いたんですって。渋々ケセドが指し示しくれたのが、例の象形文字の紙束らしいのですわ。うずまき神殿で、解明できるといいですわね」
「責任重大ですね。私の頭脳がうずまき神殿できちんと働けばいいのですが。フローレンスさんの薬を飲んで、船室で寝てきます」
ペトロ博士は薬をグビーッと飲み、一瞬オエーッとなったが、なんとか持ち直して船室に向かった。
フローレンス秘伝の薬によって、ペトロ博士はちょっと二日酔いぐらいの気持ち悪さだけで、無事にうずまき神殿にたどり着いた。
「懐かしい我が家ー」
コボルトたちが興奮して遠吠えを上げている。
「揺れない大地」
ペトロ博士は陸地に降り立ち、感激している。
「お魚でも刈ってきましょうか。コボルトたちは、半分はペトロ博士たちの護衛をしてね。半分は魚かウサギでも取ってきてくださいな」
マーゴットはツァールにまたがると、颯爽と海の上を飛び回り、草をまぶしては巨大な魚を輪切りにしている。
「皆さんが狩りをされているのに、私だけボーッとしているのもなんですから。ひと足早く、うずまき神殿に行き、調査したいのですが」
「じゃあ、小舟でうずまき神殿まで行きやしょう」
コボルトは乗ってきた大船から小舟を降ろし、ペトロ博士たちを乗せた。小島に着くと、ペトロ博士は興奮した様子で、イソイソと神殿内部に入っていく。
「俺たちは、外で見張ってますんでー」
コボルトたちは、難しい調査には興味はなかった。長老コボルトとアーサー、テディを抱いたクラリスはペトロ博士を追って神殿内部に入る。中では、ペトロ博士が豊穣神像の前で静かに祈っている。
「なんて静謐で荘厳な雰囲気なのでしょう」
クラリスの声はやや震えている。感極まって漏らしたクラリスのため息は、腕に抱いたテディのクシャミで打ち破られる。ほこりが舞い、次々と皆がクシャミをした。
「ヘーーッシュ」
ひときわ大きなペトロ博士のクシャミ。ペトロ博士はハンカチで鼻を拭きながら、豊穣神像の載っている台座をまじまじと見つめる。
「ここにもうずまきがありますね。小さなくぼみがたくさん空いています」
一方クラリスは壁に近づいていく。
「壁に象形文字が彫られていますわ」
クラリスはそっと手を伸ばし、砂を落とす。ネコの象形文字がくっきりと表れた。
「あら、これ、取れますわよ」
クラリスの手にネコの象形文字がポロリと落ちて来た。クラリスはうろたえる。
「もしかして、もしかすると」
ペトロ博士はカバンの中から、うずまき模様が描かれた象形文字の紙を取り出す。
「この図と同じように、台座に象形文字をはめればいいのではないでしょうか。えーっと、ネコはここですね」
ペトロ博士が震える指でネコの象形文字を台座にはめると、ネコがピカッと光って消えた。
「す、すごいですわ」
「奇跡だ」
「次は、鳥です。鳥の象形文字を探してください」
手分けして壁の象形文字を探す。はめこむ度に台座はピカリピカリと輝いた。
「これが、最後の象形文字です」
ペトロ博士は慎重に、犬の象形文字をはめこむ。ゴゴゴゴゴと音がして、台座のうずまきがグルグルと回りはじめる。豊穣神像がクルクル高速で回転し、うずまきの中に消えていった。
皆が呆気にとられて顔を見合わせていると、急に目がくらむようなまばゆい閃光が、神殿内を包み込んだ。まぶしくて全員が目をつぶると、小さくてかわいらしい声が響く。
「夏があまりあつくないように。ひみつの種をもってきたよ。みんなが、ないしょにしてくれるなら、種をあげる」
「尊きお方。わたくしはクラリスと申します。わたくしのスキルは『秘密』です。わたくしのスキルを全て使って、必ず全員が内緒にし続けるようにいたします」
クラリスは手の中の種を見つめ、咄嗟に声を上げた。秘密の種とやらは、是が非でもいただかなければならない。
「クラリス、手をひろげて。はい、これあげる。これで、かあさまがぼくをうむとき、あつくなくなるね」
クラリスは思わず目を開けてしまう。青空のような瞳と、輝く金の髪をした美しい幼児。
「尊きお方。お名前をお聞かせ願えませんでしょうか」
思わずクラリスは懇願する。
「ぼくはなまえをいってはいけない、ひかりのおうじなの」
幼児はぷくぷくの手で口を押さえる。
「すぐ外にうめてね。鳥がはこんでくれるから。ぼく、もういかなきゃ。かあさまがよんでる」
光の王子は、クラリスに手を振ると真っ白なキラキラの中に消えて行く。入れ替わりにまた豊穣神像が現れ、クラリス以外の全員が目を開けた。クラリスは両手を皆の方に向け、静かに告げる。
「わたくしたちは、今起こったことを秘密にしなければなりません。今後一切、このことについて他言しないと誓ってください」
ペトロ博士、アーサー、コボルトの長老は頷き、テリアのテディはワンッと吠えた。
「そうは言っても、ついうっかり言ってしまった。秘密だったことを忘れてしまった。そんなことは起こり得ることです。そこで、わたくしのスキルを使いましょう」
クラリスは半目になると、手を皆に向けてブルブル震わせる。生温かい風がかすかに吹く。
「わたくしに出来る限りのことはいたしました。今後もしうっかりしそうになったとき、皆さんにとって最もおぞましいものが現れます。ええ、頭の中に。では、ペトロ博士、うっかり言ってしまいそうになってみてくださいな」
クラリスの言葉にペトロ博士は目をパチパチさせ、口を開こうとした。途端にペトロ博士の顔が真っ青になり、冷や汗がポタポタと額から落ちた。
「なんと恐ろしい。散らかってホコリだらけの部屋で、歯が痛くなりましたよ」
ペトロ博士はブルブル震えながら、手を頬に当てた。
「ああ、もう痛みは消えました。私は乱雑な部屋と、歯痛が大の苦手なのです。絶対に、秘密は漏らしません」
ペトロ博士は誓う。こっそり試してみたらしいアーサーと長老もプルプルしながら胸に手を置いて誓った。
***
ユグドランド島に夏がやってきた。ぼくは、夏が大好き。だって、夏はぼくが生まれた季節だもの。ぼくが生まれたときは、島中が、ううん、国中、世界中がお祝いしてくれたんだって。ユグドランド島は、世界でいっとう有名な島なの。世界樹があるホテルは、星がいつつもついているの。
夏になると、色んな人がホテルにやってくる。帝国のレオンさん、ジゼルさんは毎年必ずきてくれるの。いっぱいお土産持ってきてくれるんだよ。
そして、もちろんぼくの名づけ親も。ペトロ博士、アーサー、長老、クラリス。みんな、誕生日になると、たくさんお酒を飲んで、笑ったり泣いたりしている。ペトロ博士は、酔っぱらったら、「ああ、この美しい光の王子がいつか」って言って、青い顔してオエーッてなってる。それで、クラリスに怒られてるの。
かあさまが「光の王子っぽい名前って何かしら」ってみんなに相談したんだって。「キリアンは古代語で光を意味するんですよ」って、ペトロ博士は真っ青になりながら、ぼくにこっそり教えてくれた。「でも、これは秘密ですよ」って言ってた。クラリスは「名前の由来ぐらいはいいんですよ」って笑ってたけど。
ぼくには色んな秘密があるんだって。でも何回聞いても、教えてくれないんだ。「時がくれば分かります」って言うの。だったら言わなきゃいいのにね。おとなって変だよね。
かあさまも、とびっきり変わってるけど、かあさまはいいの。かあさまは、キレイで強いの。「さあ、今日も元気に刈ってくるわー」って言って、大きなハサミをチャキチャキさせて、ネコのツァールと一緒に飛んでいくんだ。とうさまは、優しくておもしろいの。ぼくが風邪をひいたり、こけてひざから血が出たら、花を咲かせてくれるんだよ。ぼくは、花は咲かせられないけど、種は出せるの。
「キリアンは、かあさまととうさまのスキルの、いいとこどりかもしれないわね」って母さんが言ってた。ぼくは、種を出せて、草はもういらないって思えば枯れちゃうんだ。草を枯らせるのはかわいそうだから、滅多に使わないけど。
この前ね、世界樹から種を出してみたの。そしたら、ペトロ博士が地面に這いつくばってお祈りを始めたよ。こわかったよ。「ああ、いよいよ、ついに、ご対面」ってブツブツ言ってた。変なペトロ博士。
「そのときが来たら、すこーし若い、我々に似た誰かに、種を渡してくださいね。きっと、クラリスに似た女性がいますよ。外に埋めたら鳥が運んでくれますからね」
ペトロ博士は何度もそうささやいてくる。ささやいたあとに、オエーってなってるよ。
「種を渡せば、夏がそれほど暑くなくなって、マーゴット様のお産が軽くなりますからね」
「かあさま、また赤ちゃんを産むの?」
「キリアン様をお産みになるとき、暑くない方がいいのです」
「ぼくはもう産まれているのに?」
「時がくれば、うずまき神殿に行けば、分かりますよ」
最近は、クラリスまで変なことを言うんだ。ソワソワしている名づけ親たちと、うずまき神殿に行ったの。ペトロ博士たちが、神さまの下の台にポチポチ絵をハメたら、ピカッと光って、ちょっと若いみんなに会えたよ。
ペトロ博士に言われた通り、知らないフリして種をあげたの。そして、帰ってきたら、みんな泣いてた。
「もう、解禁でいいですよね? もう、呪いを解いてください」
「まあ、呪いだなんて。人聞きの悪い。でも、ええ、もう秘密にしなくてもいいでしょう」
クラリスがなんだか両手をブルブルしたら、ペトロ博士が万歳した。
「そう、そんなことがあったのね。知らなかったわ」
クラリスとふたりで、かあさまに秘密を話すと、かあさまは大きな目をキラキラさせて、ぼくの頭をワシャワシャする。
「クラリス、秘密を守ってくれて、ありがとう」
「無事に打ち明けることができて、ホッといたしましたわ。この奇跡に立ち会うために、わたくしは秘密スキルを持って生まれたのかもしれない、そう思いました」
クラリスがなんだかむずかしいことを言ってる。
「ねえねえ、あの種って、あのあとどうなったの?」
クラリスの服を引っ張って、聞いてみる。
「わたくしたちは神殿の外に出て、種を植えたのです。すると見る見るうちに芽が出て、葉が出て、小さな木の実ができました。色とりどりの鳥が集まり、あっという間に木の実は食べられてしまいました」
「クラリスも食べた? おいしかった?」
「いいえ、鳥が全て食べてしまいました。鳥は一斉に海の向こう目掛けて飛んで行きました」
クラリスの目も、かあさまみたいにキラキラしている。
「世界を旅する商人の話によると、ここからずっと遠くの寒い国に世界樹ができたそうですよ。夏が暑すぎるこちらと、冬が寒すぎるあちら。両方に世界樹ができて、どちらも気候が穏やかになりました」
クラリスとかあさまがニコニコしながらぼくを見る。
「ぼく、うまくできた? かあさま、暑くなくなった?」
「そうなの、すごく過ごしやすい夏でね、スルッと生まれたのよ」
「キリアン様はとても素晴らしかったですよ。マーゴット様だけではなく、ユグドランド島の住民全員が暑くなくなりました。遠い国の人たちも、喜んでいます」
ぼくはうれしくて、かあさまにギュッと抱きつく。
「かあさまとみんなが喜んでくれて、よかった」
「キリアン、ありがとう。あなたが生まれてくれて、本当に嬉しいのよ」
かあさまがぼくをギューッてしてくれる。ぼく、がんばってよかった。




