45. 新人調査員ジェシカの奮闘
「確認、評価、格付け」
ユグドランド島に向かう船の中で、ひとりの若い女がブツブツつぶやいている。
「ついに、この日が来たわ。記念すべき、私の初調査。待っていて、ユグドランド島。ミテネン調査員ジェシカ、誠心誠意あなたに向き合って、正統な星をつけるからね」
ジェシカはだんだん近づいてくる島を眺めながら、硬く拳を握りしめた。
「そうだ、もう一度、ちゃんと確認しておきましょう」
ミテネン調査員がもらう手引書。真っ赤な表紙には、白い星が五つ、整然と並んでいる。ジェシカは大事な手引書をギュッと抱きしめてから、そうっと開ける。
「正体を知られてはいけない。賄賂をもらってはいけない。おごり高ぶらず、真摯に誠実に。読者と旅行愛好家のために、曇りなきマナコで見定め、星を決めること。はい、がんばります」
ジェシカは崇高な使命に感極まり、ひとり涙を流した。だって、ここまで来るの、大変だったのだ。ジェシカは旅行が大好き。でも末端貴族の分際では、旅行なんてほいほい行けるものではない。そんなとき、本屋でホテル格付け本を見つけたのだ。
「な、なんて画期的。ホテルを星の数で評価するなんて。五つ星ホテルかー、王族とでも結婚しなきゃ、絶対無理だわ」
パラパラと本をめくり、最後のページにひっそりと調査員募集要項を見つけたのだ。
「これだー」
ジェシカは青天の霹靂のように、街の小さな本屋で天啓にうたれたのだ。
「これが、私の天職。タダで旅行に行き放題」
とても不純な動機だが、ジェシカの偽らざる本音。下心がみえみえだろうが、やる気と根性があれば、いいではないか。ジェシカは持ち前の度胸と鈍感力を大いに発揮し、グイグイと応募した。
なぜミテネン調査員になりたいのか。こんなことやあんなことができます。私を雇うとこんないいことがあるはず。雇わないと、絶対後悔させてやります。熱い思いをギッシリみっちりと紙にしたため、郵送ではなく、直接持って行った。ちょっとした小旅行だったが、親から強引に旅費をもぎ取った。
「なんでもします、雇ってください。帰りの旅費はないので、下働きでもなんでもします。事務所に寝泊まりさせてください」
図々しいことこの上ない。でも、幸い、ジェシカは若く体力があり、一応貴族で、それなりにかわいかったので、ギリギリ採用された。
「前代未聞だが。これぐらい行動力があるなら、調査員に向いているかもしれない」
「必ず期待に応えて見せます。あらゆるホテルに、正統な星をつけてきます」
ジェシカは燃えに燃えた。これで、経費で旅行に行きまくりだ。夢が叶った。
「研修はきっちり受けてもらうから、覚悟しなさい」
研修は思っていたより、厳しかった。近くにあるホテルに先輩と訪れ、まずは立ち居振る舞いを徹底的に直される。
「ニヤニヤしない。してもいいけど、もっと普通の客っぽくしなさい」
「キョロキョロしない。窓枠のホコリを指でスーッとしない。客っぽくしなさい」
「ちょっと、のほほんと好きな料理を普通に頼まないでよ。私とあなたで、なるべくたくさんの種類を食べなきゃいけないのよ」
「ボケーッと部屋に入らない。入った瞬間から査定が始まるのよ。扉の開け閉めはなめらかか。扉を開けて部屋に入ったときの空気は清潔か。窓からの光の入り具合。家具の配置。ベッドのきしみ」
ジェシカは必死で手帳に注意されたことを書き留める。手帳はあっという間にいっぱいになり、しょっちゅう手帳を買いに走るハメになった。覚えることが多すぎて、頭が破裂しそうになる。夢の中でも先輩に怒られ、「申し訳ございません」と絶叫して飛び起きることもしばしば。
先輩たちからの愛のムチを、歯を食いしばって受け止め、ジェシカはやっと調査員として旅に出ることになった。
「ひとりでは心配だから、引退した元調査員アガサさんと一緒に行ってもらう。君はメイドで、アガサさんは伯爵夫人という設定だ。アガサさんは基本的には君を助けない。見守るだけだ。しっかりやってきなさい」
「はい、がんばります」
紹介されたアガサは、静かで穏やかな老女だった。ジェシカはホッとする。研修の時は、針のように鋭い先輩方にキリキリ舞いをさせられていたから。この優しそうなおばあさんとなら、のんびりゆったり査定ができそうだな。ジェシカの予想は当たった。アガサは、昼間は船の甲板の長椅子で本を読み、夜はさっさと部屋で寝てしまう。まったく手がかからない。
「あー、私ってば、ついてるー。できたてホヤホヤのホテルに泊まれるなんて。しかも世界樹。家族や友達に自慢したいわ」
だが、それはできないのだ。ミテネン調査員であることは、なるべく秘密にしなければならない。できれば家族にも内緒。友だちはもってのほかと注意されている。
「どこからバレて、調査に行ったホテルから大接待されてしまったら困るものね。正当な評価ができなくなってしまう」
それは、ミテネンの評判を貶める行為。一人ひとりが、誇り高くあらねばならない。
「この仕事、旅行ばっかりだから、恋人もできないし、結婚も難しい。先輩にそう釘刺されたけど」
ジェシカは、今のところは恋より仕事なので、気にしていない。行ったことのない国に行って、素敵なホテルに泊まって、観光しておいしい料理を食べる。しかも、経費だ。
「最高の仕事だわ。絶対にしくじれないわ」
やる気に満ちあふれたジェシカと、穏やかな老婦人アガサが、ユグドランド島に降り立った。
ジェシカはメイドになりきり、張り切って迎えの人たちとやりとりをする。
「ホテルに予約しているアガサ伯爵夫人とメイドのジェシカです。よろしくお願いいたします」
気合が入りすぎて、少し声が大きすぎたようだ。
「ジェシカ、個人情報を大声で宣伝しないのよ」
「はっ、失礼しました。私としたことが、なんということを」
ジェシカはアガサに平謝りする。ペコペコしているジェシカの周りに猫たちが集まってきた。
「まあ、なんてかわいい猫ちゃん。あ、そうだ。お昼ごはんの残りのパンがまだ残っていたはず」
後で小腹が空いたときにでも食べようと、ハンカチに包んで上着のポケットの中に忍ばせておいたのだ。ジェシカはハンカチを広げてパンを取り出す。
「あ、いけません」
「クァクァクァクァ」
ジェシカは白い羽に取り囲まれた。何が起こったのか分からず、棒立ちになっていると、誰かがシッシッと大きな声を出す。ジェシカの視界が晴れた。目の前には、心配そうな顔の島の人たち。
「ジェシカ様、大丈夫ですか?」
「港でパンを出したら、カモメの餌食になりますぜ」
「えー、失礼いたします。御髪にカモメの落とし物が」
「ギャーッ」
ジェシカは叫んだ。髪にベッタリと白いなにかがー。涙目になっているジェシカの髪を、島の女性がキレイに拭いてくれる。
「申し訳ございませんでした。私どもがきちんと注意しておけばよかったですね」
「看板でも立てるか。カモメに注意。ここで食べ物を出さないでとか」
島の人たちはヒソヒソと相談を始める。ジェシカはなんとか気を取り直し、馬車にアガサを案内する。
「奥様、この馬車に乗って世界樹まで行けるそうです。どうぞ、足元にお気をつけくださいませ」
やらかしをなかったことにするため、ミテネン調査員としてきちんと観察する。出迎えの人たちは、素朴で感じがよい。野良猫がかわいい。カモメには気をつけろ。荷運びは、なんと女性。小柄なのにすごい。馬車に乗り込むと、忘れないように手帳に鉛筆でせっせと書く。
「ジェシカ、荷運びの女性にチップを渡すのを忘れていましたよ」
「はっ、しまった。なんてことをー」
観察するのに夢中で、最低な客になってしまった。そういえば、髪を拭いてくれた人にも、チップを渡していない。ジェシカは頭を抱え、絶叫する。
「御者と馬が驚くから、静かにしなさい」
「はっ、その通りです。なんてことをー」
ジェシカは小声で漏らす。なんと、着いた早々、失態ばかりではないか。ジェシカはガックリ気落ちした。
「なんとか、なんとか挽回しないと」
ジェシカはつぶやく。初任務で失敗続きだと、もしかしたらクビになってしまうかもしれない。
「ここは、体を張って私にしかできない調査をするわ」
新人調査員ジェシカにあるものは、若さと体力と根性。
「私は部屋まで歩いて登ります」
ジェシカは腕まくりした。
「最初から飛ばし過ぎると、後で大変よ」
アガサは言うが、ジェシカは止まらない。
「奥様は、どうぞゆったりと運ばれて行ってくださいませ。さあ、お選びくださいませ」
ズラッと並んだ、人化コボルトたち。ムキムキ、細身だけど適度な筋肉、少年のような笑顔、渋い雰囲気、よりどりみどりだ。アガサは筋骨隆々の堂々たる大男を指名する。
「安心感がいいですね」
「奥様、私は後から参りますのでー」
ジェシカはほんのり笑顔で飛んでいくアガサを見送った。元気よく螺旋階段を上っていく。
「これは、いい運動になるわ。売り文句にできそうね。ダンスだけでは痩せなくなった、そんなあなたに、オススメ。ユグドランド島で世界樹を登ろう、とかどうかしら」
もし、ユグドランド島の世界樹ホテルに星をあげられるなら、ジェシカが紹介記事を書けるのだ。オススメしたい、正統に星をあげたい。ジェシカは、星を与える基準を振り返る。
「旅の目的にできるほどのホテル。そこでしかできない独自の体験。見事な建築。素晴らしい接客と快適空間。それを維持できる仕組み。価格に見合った価値」
ジェシカは息が切れてきたので、ひとやすみして世界樹から海を眺める。爽やかな潮風と光り輝く青い海。緑豊かな島。この眺めでも値千金ではないだろうか。
「きっと、きっと、このホテルなら大丈夫。私の初めての星を捧げるにふさわしいはず」
なんといっても、世界樹なのだ。世界樹に泊まれるなんて。それだけで、旅の目的になるではないか。
「でも、編集長や先輩たちを納得させるには、もっともっと情報がいる。がんばって、集めるわよー」
奮い立つジェシカ。でも、螺旋階段は着実にジェシカの体力を奪っていく。
「ああ、どうして上の方の部屋にしちゃったのかしら。まだまだ先は長いわ」
ぜいぜい言いながら、上を見て、気が遠くなる。
「ちょっと一休みしましょう」
とはいっても、どこにも座る場所はない。仕方なく、階段にペタンと座り込み、手すりに頭をもたせる。
「ああ、すっかりのどが渇いてしまったわ。でも、何も持ってないのよね」
水筒の入ったカバンは、コボルトが持って飛んで行った。身軽な方がいいだろうと思って、手ぶらで登り始めたのが運の尽き。
「み、水が飲みたい」
ジェシカがこぼすと、パタパタと小さなコボルトが飛んでくる。
「ジェシカ様。大丈夫ですか? 父さんを呼んできましょうか?」
「あら、いいえ、大丈夫ですわ。ホホホ。ちょっとのどが渇いただけですわ」
小さな子に情けない姿を見せるわけにはいかない。ジェシカはサッと立ち上がった。コボルトは目を輝かせると、ジェシカに少し近づく。
「ジェシカ様、飲み物をお持ちします。どれがいいですか?」
コボルトはいそいそとメニューを渡してくれる。とっくりとメニューを眺め、目移りしながらも「お水をお願いします」と頼む。
「お水だけですか? 色んなジュースがありますよ」
「今はのどがカラカラなので、甘いジュースを飲むとのどに張り付きそうだもの。部屋についたら、甘いジュースをお願いしようかしら」
「分かりました。すぐお持ちします」
コボルトは羽をパタパタさせながら下に降り、ほどなくしてバスケットを持って戻ってきた。
「暑くて疲れているときは、水に塩や砂糖をまぜたものがいいって、母ちゃんが」
得意そうに渡してくれたグラスから、ジェシカはゴクッとひと口飲んでみる。
「おいしいー。ほんのり甘くて、でも爽やかなレモンの香りもある。ああー、疲れが取れるわ」
ジェシカはゴクゴクと飲み干した。
「ただの水より、飲みやすかったです。お母さんに、ありがとうございましたって伝えてくださいな。あ、これ、チップね」
硬貨をコボルトに渡す。尻尾をブンブン振っているコボルトに見送られながら、ジェシカはまた階段登りに戻った。
やっと部屋に着き、ジェシカはすぐさま荷物を開ける。メイドのジェシカは、アガサの荷物の管理もしなければならない。
「きっと、食事の前に散歩をなさりたいでしょうから。歩きやすい服と靴をお持ちしないと。あとは、調査票に記入もしないと」
それはもう、膨大な数の調査項目があるのだ。例えば、ベッドのシーツが清潔か、枕の硬さはちょうどいいか、寝心地はいいか。
「そうね、今のうちに簡単に確認しておきましょう」
ボーンッとベッドに飛び乗る。しばらく跳ね具合を確かめ、ゴロンと横になり枕がどうなのか調べてみる。
「あら、これはなかなか。硬すぎず柔らかすぎず、快適ね」
なんて、疲れた体に優しいベッドかしら。
コンコン、コンコン。小さな音が鳴り、ハッとジェシカは飛び起きた。
「えっ、あれっ、私もしかして寝てた?」
「ジェシカ様、そろそろ夜ごはんの時間です」
外からちびっ子コボルトの声が聞こえる。
「なーっ」
ジェシカは大慌てで扉を開ける。
「ああー、もう夕方じゃない。しまった」
散歩も行ってないし、調査票は真っ白だし。
「おおお、奥様を放ったらかしにしているー。なんたること」
ジェシカは螺旋階段を駆け上がり、アガサの部屋の扉を叩く。
「アガサ様は、下で他のお客様たちとお話してますよ」
パタパタと飛びながら後をついて来たコボルトがのんびりと言う。
「よ、よかったー。いや、よくはないけど」
少なくとも、部屋の中でジェシカを待って、一日が終わってしまったってことでなさそう。まだ最悪の事態ではないかもしれない。どうだろう。
ジェシカは大急ぎで階段を降りていく。
「手すりに腰かけてヒューンッて降りていくと速いですよ」
コボルトが声をかけてくる。そんなはしたないこと、とは思ったが。背に腹は代えられない。
「地上近くになったら滑るのをやめればいいんじゃないかしら」
昔はお転婆だったジェシカである。階段の手すりを滑り降りた経験は、ゼロではない。昔取った杵柄、スズメ百まで踊り忘れず、三つ子の魂百まで。とにかく、ジェシカは危なげなく、手すりを滑っていく。グルグル回って、少し体がふらつくと、すかさずコボルトが支えてくれる。とても頼りになるコボルトである。
たったひとつの計算違いは、勢いがつきすぎて途中で止まれず、地上まで手すりに乗ったままであったこと。そして、アガサを始めとする、やんごとなき高貴なお客様たちに、ジェシカの手すり乗りを見られたこと。
お客様たちは目を丸くしていたが、すぐにスッとそらして何事もなかったかのように会話に戻っていく。さすが、上流階級の人たちは下々の失態を見なかったことにする度量をお持ちなのね。穴があったら入りたい気分になりながらも、なんとか立ち直る。ササッと服を伸ばし、静かにアガサの後ろに控えた。そこにちょうど料理が運ばれてくる。
「採れたて野菜のサラダでございます」
前菜がアガサの前に置かれた。アガサは給仕に少し耳打ちする。給仕は小さく頷き、ジェシカの前に立った。給仕が後ろ手に銀のお盆を向けてくる。なんなの? ジェシカは不思議に思い、少し給仕に近寄った。話しかけようとしたとき、お盆に映る自分の姿にジェシカは目をむいた。髪の毛が、タンポポの綿毛みたいになってるー。寝ぐせで、とんでもないことになってるー。ホテルに着いたときは、確かにきちんと編み込んでまとめていたはずなのに。グッスリ眠り込んでた間に、魔法にでもかかったのだろうか。いや、そんなわけがない。ジェシカの寝相が悪かったのだろう。
ジェシカは給仕の後ろに隠れて、すさまじい速さで髪を三つ編みし、なんとか綿毛からマッチ棒ぐらいに戻った。給仕はチラリと振り返ると、感じの良い笑みを見せて去って行く。
ありがとう、給仕の人。ありがとう、アガサさん。ジェシカは心の中でふたりに感謝する。食事が終わり、アガサとふたりきりになったとき、ジェシカは土下座の勢いで平謝りした。
「失態に次ぐ失態で、誠に申し訳ございません」
「新人というのは、間違って覚えていくものです。同じ過ちを何度も繰り返さなければいいのです」
「はい、二度と同じ失敗はいたしません」
ジェシカは心から誓った。そして、部屋に戻ってからちびっ子コボルトに小銭を握らせ、お願いをする。
「明日の朝、もし起きられなかったら私の職業人生が終わってしまうの。お願いだから、ニワトリが鳴く時間に起こしに来てくれないかしら?」
「はい、分かりました」
ちびっ子コボルトはニコニコしながら飛んでいく。ジェシカは、自分の目覚めの能力については自信を持っていない。でも、ちびっ子コボルトのことは信じられる。街中なら、衛兵が鐘を鳴らして起こしてくれるのだけれど。この島にはそういう風習はないようだ。
「事前に聞いておいてよかった。寝坊なんて絶対できないわ」
アガサは優しいが、いつまでも成長しない新人を見捨てずにいてくれる保証はどこにもない。ハマりそうな落とし穴は、事前につぶしていくべきだ。
「昼寝しすぎたから、ちっとも眠くないわ」
ジェシカは、眠くなるまで調査票を埋めていくことにする。各項目について、星がいくつか書いていくのだ。最低なら星なし、最高なら星が五つ。
「従業員の接客態度は星五つ。部屋の快適度は星三つぐらいかなー。小さいのは否定できないもの。枝の上に載ってるから仕方ないんだけどさ」
研修で泊まったホテルの部屋はもっと広々として豪華だった。
「清潔ではあるんだけどね」
隅々まで見たが、トコジラミはいなかった。噛まれると、腫れるし痒いしで大変なのだ。
「明日は小舟に乗って魚釣り。リタ王妃様が手ずから教えてくださるパン作り教室。イチゴや桃を摘んで
食べてもいいらしいし。盛りだくさんだわ。こういうのは、他のホテルではなかったわ。ここでしかできない体験は、星に有利ね」
ジェシカは、星をたくさんつけられますように。しっかり祈ってから、気持ちの良いベッドにもぐりこんだ。
翌朝、約束通りコボルトが起こしに来てくれた。目覚めのジュースまで持ってきてくれている。
「ジェシカ様、おはようございます。採れたて搾りたてのオレンジジュースをどうぞ」
「ありがとう。最高の目覚めだわ」
チップを渡し、テキパキと着替えをし、アガサの服を持って上まで行く。扉を叩き、部屋に入ると、アガサはベッドの上で本を読んでいる。アガサの着替えを手伝い、今日の予定を確認し、朝食に降りて行く。
「あら? 手すりを滑っている人がいますね」
「昨日のあなた、とても楽しそうだったもの。密かにやってみたいと思いながらも、できないまま大人になった貴族もいらっしゃるのではないかしら。ここでならそういうのもアリと、皆さんが共通認識を持たれたのではないかしら」
二匹のちびっ子コボルトが女性の両側を飛びながら、支えている。女性は途中でこらえきれなくなったのか、大声で叫び、地上に着いた途端に笑い転げた。
「ああー、楽しかったわ。これ、昔からやってみたかったの。弟は屋敷でやっていたのよ。わたくしは姉ですから、たしなめていましたのよ。でも、実はうらやましかったのです」
女性はコボルトにチップを渡し、ジェシカににこやかに微笑む。
「昨日のあなた、素敵でしたわ。わたくしに勇気をくださって、ありがとう」
「まあ、そんな。もったいなお言葉でございます」
その後も、貴族の人たちがはしゃぎながらビュンビュン滑り降りてくる。ホテルの新しい習慣ができたようだ。
「私の失敗も、どなたかの役に立つのですね」
「一生懸命やっての結果のしくじりなら、その気持ちは伝わるものよ。手抜きで失敗したら呆れられるだけだけど。新人であることの利点を活かしなさい。全力でぶつかってみたらいいわ。ある程度の骨は拾います」
アガサが優しいような恐ろしいようなことを言う。
「骨にはなりたくありませんが。率先して体を張って楽しみたいと思います」
ジェシカは捨て身の覚悟を決めた。ジェシカの体当たり作戦は、うまく行った。ジェシカの淑女としての評判は地に落ちたも同然だが、他のお客様たちにここまでやっていいという線引きを見せられたかもしれない。ジェシカは注目され、笑われ、ありがたがられた。
「あなたが釣りをしながら小舟から落ちたじゃない。とても気持ちよさそうだったので、わたくしも落ちてみましたの。もちろん、泳ぎやすい服で行きましてよ」
「あなたが口の回りをベタベタにしながら、木からもいだ桃にかじりついたでしょう。わたくしもやってみましたの。とてもおいしくて、驚きました」
「わたくしもですわ。そのままかじると口がトゲでチクチクするとコボルトに言われたので、服でゴシゴシこすってからかじったの。あんなお行儀の悪いこと、初めてしましたわ。楽しかったわ」
「もうね、コボルトたちに支えてもらわなくても、階段の手すりをひとりで滑り降りられますのよ。国に帰ったらもうできないかと思うと、残念ですわ」
「誰もいないときなら、大丈夫ではないかしら」
「そうかしら、どうかしらね。メイドがいつもどこかしらにいますからね」
「真夜中なら大丈夫じゃないかしら」
「怪しすぎますわよ」
淑女たちは、どうやれば屋敷でも手すりを楽しめるか和気あいあいと相談している。皆さんのためになるならと、ジェシカは緊張しながらも王族であるリサやマーゴットとも交流した。ふたりとも、とても気さくだった。
誰もが言い出せなかった、コボルト乗りも、怒られるの覚悟で頼んでみた。
「あの、運ばれるのではなく、乗ってはいけませんか?」
「馬みたいにってことっすか?」
絶対に、気を悪くしたに違いない。頭を下げようと思ったが。
「いいっすよ。チップを弾んでくださるんなら」
「俺も俺も。最近あんまり運動してないんで、体がなまってたところっすから。いいっすよ。あ、でも、鞍はないんで、しっかりつかまってくださいね」
たくましいモフモフのコボルトに必死でまたがり、振り落とされないようギュッと抱きつく。馬よりも荒々しいコボルトの走りは、ドキドキが止まらない。我も我もと後に続いた淑女たちから、コボルト乗りは大評判となった。
ジェシカの全力を注いでのホテル滞在は、いつの間にか終わりを迎えた。ジェシカは色んな人にお礼を言い、渡し損ねたかもしれないチップを渡していく。
「部屋にチップを置き忘れたことがあったと思うのです。ベッドを整え、部屋を掃除してくださったのに」
「わざわざ、恐れ入ります」
部屋の清掃担当の従業員が恐縮する。
「荷物を運んでくださったのに、チップを忘れていました。ごめんなさい」
「とんでもございません。でも、せっかくですので、ありがたくいただきます」
気のいい荷物運びの女性は、嬉しそうにチップを受けとってくれた。
「コボルトの皆さん、何から何まで、すみません」
「いやいや、ジェシカ様のおかげで、楽しかったですよ」
「俺たちに活躍の機会を作ってくれて、ありがたかったです」
かなりこき使ったと思うのだが、コボルトたちは気にしていないようだ。なんて、いい人たちだろう。感激しているジェシカは、従業員たちから新しい招待状をもらって度肝を抜いた
「ジェシカ様、色々と気づきを与えてくださり、ありがとうございます。お礼に、次回もご招待させていただきますので、よろしければご予約くださいませ」
「え、私、なんにもしてない」
どっちかというと、大騒ぎして醜態をさらしただけ。ジェシカはたじろいだ。
「いえ、カモメがいる場所では食べ物は出さないと注意喚起するべきこと。世界樹の階段には、椅子のある休憩場所をもうけること。舟遊びのときは、浮き輪を必ず用意すること。コボルトたちに新しい役割を与えてくださったこと」
ああー、やらかしの数々がー。ジェシカはどこかに隠れたい気持ちになったが、従業員は感謝で胸いっぱい、みたいな顔をしている。
「お客様のご不便な点を、明確にしてくださって、従業員一同、心からお礼申し上げます」
ズラッと並ぶ従業員に、一斉に頭を下げられた。ジェシカは真っ赤になりながら、お礼を返す。
「私のせいで大変だったと思うのに、こちらこそ、ありがとうございます」
ジェシカの失態のせいで、星を逃したかもしれないのに。こんなにお礼を言われていいのだろうか。
「必ず、できるだけたくさんの星をつけるからね」
ジェシカは帰路に就く船の上で、離れていくユグドランド島に向かって誓った。
「編集長が納得してくれるといいけど」
最低でも、星三つはつけたい。できれば、星四つ。部屋は狭いけれど、他のホテルにはない特別な体験ができるのだもの。ジェシカは船の中で、うんうんうなりながら資料を作る。
「長い資料はきっとダメだわ。編集長って忙しいもの。お茶を飲み終わるまで、タバコを一本吸い終わるまで。それぐらいの時間で説明できる長さじゃないと」
ジェシカはああでもないこうでもないとブツブツ言いながら、資料をまとめる。
「編集長、お時間をいただけないでしょうか」
国に戻り、事務所に出勤したジェシカ。星三つは確保したいという熱意を押し隠し、冷静に話し始める。
「ユグドランド島ホテルは、最低でも星三つがふさわしいと思います。その理由は、三つあります」
編集長が椅子にもたれかかり、タバコに火をつける。ジェシカは深呼吸した。
「まず、世界樹の上に泊まれる、世界でも唯一無二のホテルであること」
編集長はプカーッと煙を吐いた。
「次に、王侯貴族の秘密基地になれるホテルであること。ここでしかできない、ちょっとした冒険、お転婆。大々的に宣伝はしにくい体験ですが、口伝えで広まっていくと思います」
編集長はプップッと煙を吐き出す。輪っかが三つ、プカプカと浮いた。
「最後、成長し続けるホテルであること。宿泊客のちょっとした行動を元に、改善をし続けています。例えば、螺旋階段の途中にベンチとテーブルを設置し、昇り降りで疲れた客がひとやすみできるようになりました」
ジェシカの何気ない行動や失態を見逃さず、ホテル改善のための糸口にしたこと。ジェシカはとても嬉しかったのだ。
編集長がプーッと長い息を吐くと、三つの輪っかに煙がシューッと通っていく。編集長はギュギュッとタバコを灰皿に押し付けると、手を組んだ。
「星四つを認めよう。王族が働いていて気軽に接見できるというのも、他にはない目玉だ。訪れたい貴族が引きも切らないだろう」
ああ、確かにそうだ。ふたりがあまりに気さくなので、ふたりの存在がホテルへの訪問理由になることを見過ごしていた。王族と簡単に話せるなんて、普通はあり得ないのに。
「それとな、初調査を体当たりでやったこと。アガサさんが高く評価されていたぞ」
「本当ですか? よかったです」
ジェシカはホッとする。やりすぎたのではないかとハラハラしていたのだ。
「次回もこの調子でがんばりなさい」
ジェシカは感極まって、モゴモゴと返事をしながら頭を下げた。部屋を出ようとするジェシカに、編集長が思い出したように言う。
「そういえば、言っていなかったが。アガサさんは、この出版社の会長だ。創業社長だった人だよ。お前さんのように、体を張って全力で調査をして、信頼を積み上げたんだ。今度会ったら、昔話をねだってみろ。色んな武勇伝をお持ちだ」
「え、ええー。私ってば、会長になんてことをー」
ジェシカの叫び声が事務所に響き渡った。
ジェシカとユグドランド島ホテル。成長が早いのはどちらであろうか。先が楽しみだ。編集長は考えながら、次の資料に手を伸ばす。




