38. 中年の危機
「わたくしの人生は、いったいなんだったのかしら」
とある王国の屋敷の一室で、中年の貴婦人がポツリとこぼした。部屋の奥にある鏡の前に立ってみる。
「知的美人と言われていたのも、今や昔。まごうことなき、立派な中年ね」
明かりを灯さなくてもはっきり分かる、シワの数々。眉間の縦ジワと、鼻梁の横ジワがひどい。
「もはや、日の当たる場所では鏡は見られたものじゃないわね」
日光は残酷だ。若い女性の桃のような産毛がまぶしい肌も、中年女性のクッキリしたシワや白髪も、分け隔てなく平等に白日の下にさらす。
「あの女の肌はさぞかし輝かしいのでしょうね」
鏡に映る女の目がいっそう光りを失う。見ていられなくて、鏡から目をそらす。
「奥様」
扉の向こうから家令の呼びかけが聞こえた。
「今行きます」
悲嘆にくれている場合ではない。伯爵夫人は忙しいのだ。
家令が持ってきた手紙に目を通し、仕分けをする。
「こちらが出席する招待状、こちらは見送りね。返事の手配を」
「はい、奥様」
毎日、膨大な量の招待状が届く。いちいち自分で返事を書いていられない。祐筆に自分とそっくりの字で書かせるのだ。
「次回の夜会の参加者を一覧にしておいてね。席順を決めなければならないわ」
「はい、奥様。こちらでございます」
家令は優秀だ。先回りして必要なものを揃えてくれている。
「まあ、マリエッタが」
思わず口に出してしまい、唇を噛む。珍しく、家令が表情を変えた。痛々しいものを見る目。
それは、そうだろう。夫の愛人が、図々しくも夜会に参加するというのだから。ため息を必死で飲み込む。つと、家令が手紙をひとつ取り出した。
「奥様、ノイランド王国のユグドランド島からでございます」
「あら、何かしら。知り合いはいないはずだけど」
封筒を開け、上質な紙を広げる。
「まあ、ホテルへの招待だわ。大々的に営業を開始する前に、各国の貴族を招待しているのですって。それとなく、見る目のある貴族を選んで送っていると書いてあるわね」
「奥様の選択眼の鋭さは他国にも伝わっているのですね。眼識のあるホテルでございますね」
家令が慇懃に答える。
夫選びは間違ったかもしれないけれど。口にはできない自虐を心の中で漏らした。
「行ってみようかしら」
「ぜひに」
本気ではなかったのだけれど、家令が思いのほか真剣な目ですすめてくる。家令なりに、心配してくれているのだろう。
「わたくしが留守にしても大丈夫かしら」
「万全にとは申せませんが、全力を尽くします」
「そうね、子どもたちも手を離れたことだし、わたくしもご褒美をもらってもいいかもしれないわ」
伯爵家を陰に日向に支えてきた。子どもを育て上げた。夫の女遊びにも、若い愛人も、見て見ぬふりをしてやり過ごしてきた。でも、そんな毎日にむなしさが募ってきていた。
「行くわ。返事を書くわ、自分で」
クラリスは机に向かい、ペンをインク壺につける。招待状をもう一度じっくり読む。
「お客様について詳しく教えていただきたく、ですって。そうね、事前に知ってもらっていれば、しっかりとした対応をしてもらえるものね」
食べると喉が痛くなるような食べ物はあるか。高いところは苦手かどうか。好きな食べ物、飲み物。
「どのように過ごしたいか。そうねえ」
クラリスは天井をぼんやりと眺める。ひとり旅だ。誰にも煩わされたくない。もちろん、夫とは行かない。何も考えず、のんびりしたい。もう、疲れた。
「何も決めたくないわ。決断させないでほしい。なにもかも、お任せしたいわね」
日々、細々としたことを決断する。夕飯の内容から、カーテンの色、壁紙の張替えの時期、お茶会に誰を呼んで誰を呼ばないか、夫の愛人をどうするか。本当に、うんざりだ。
「ノイランド島で、ボーッとしてきましょう」
ボーッとは、クラリスの辞書にはない言葉だ。今までは。
「楽しみだわ」
クラリスの眉間のシワが少し薄くなった。
***
クラリスはたったひとりで船に乗っている。家令やメイドたちからは猛反対を受けた。
「奥様は伯爵夫人でございます。危険です。最低でも、護衛とメイドを二名」
「奥様、何かあってからでは遅いのですよ。それにお着替えや湯浴みはどうなさるのです」
「そうね、港までは護衛と行くわ。船に乗ってしまえば、あとは寝ているだけですもの。それに、テディは一緒よ」
クラリスは、がんとして譲らなかった。屋敷の者たちは、テディが同行するならと、渋々諦めてくれた。
「さあ、テディ。甲板に出て海風に当たりましょう」
「ワウッ」
尻尾をピンッと立て、黒い目を輝かせる。テディは勇猛果敢な、小さなテリア。クラリスの忠実な友だちだ。テディは誇り高い犬なので、花束のように抱きかかえられたりはしない。クラリスの足元で、あらゆる敵を警戒するのだ。フンフンフンフン、ちょこまかと匂いを嗅ぎ、「ここは大丈夫、安心」とでも言いたげにクラリスを見上げる。
「テディは頭がよくて、気高くて、理想的な旅仲間よ」
どうして、いつから、夫と心がすれ違ってしまったのだろうか。テディと共に潮風に吹かれながら、クラリスはそんなことを考える。
結婚当初は、確かに肩を並べて、同じ方向を目指して走ってきたのだ。パッとしない子爵家の長女だったクラリスは、結婚はできないものと思っていた。幼いときから頭がよかったクラリス。次期当主である弟の補佐をできるよう、鍛えられた。
「決して弟より目立たぬよう、補佐に徹しなさい」そう言われてきた。特に異論はなかったので、そうしてきた。引き立て役で甘んじるのは悔しいというよりは、陰の功労者ってかっこいいと思うタチだった。
「わたくしのスキルが『秘密』だからかしら」
秘密兵器のように、神秘的でいざという時の切り札のような存在になりたかったのかもしれない。隠してはいたものの、クラリスの有能さを見抜く者もいた。そのひとりが夫のフランツだ。
「字が上手なんだって?」
王宮図書館で調べ物をしていたら、突然話しかけられた。クラリスには色んな特技があるが、字を書くことには天賦の才がある。美しく書くのはもちろん、人の手蹟を真似するのが得意。こっそりと代筆の内職をしている。どこからか聞きつけたフランツに代筆を頼まれ、それが縁で結婚することになった。
「伯爵家の執務と屋敷の差配はやりがいがあったわ」
実家の小さな子爵家とは大違いの規模と影響範囲。クラリスは自分の能力を最大限発揮することを楽しんだ。屋敷内では、才能を秘する必要がなかったから。
「四人目の子を産んだ後、言われたんだったわね」
「君は十分役目を果たしてくれた。これからはお互い自由にやりたいことをやろう」
フランツにそう言われたとき、クラリスは表情を変えないでいるのが精いっぱいだった。愛されていると思っていたのに、フランツが愛したのはクラリスの実務能力。その日、クラリスの心の半分が凍った。もちろん外には見せない。秘密はクラリスのスキル。心に傷を負ったこと、フランツを愛していたことは、クラリスの奥深くに閉じ込められた。
「あれから、もう二十年近く経つのね」
フランツへの愛はすっかり冷めたが、心の痛みは治らないカサブタのように、たまに血を流す。フランツの愛人が、とても愛くるしい頭の空っぽなお嬢さんだったりすると、クラリスは私室に閉じこもり、お皿を床に落とすのだ。ガシャンッという音を聞き、割れた破片を見ると、ほんの少しだけ痛いのがマシになる。
「色んな物を捨てたわね」
夫のために刺繍したハンカチ、結婚前にやりとりした手紙、実家の紋章が入ったカフスボタン、ふたりで買ったお揃いの指輪。
「フランツの部屋に泥棒猫のように忍び込んでね。こっそり取って、捨ててやったわ」
苦しいことがあるたびに、フランツの私室からクラリスの痕跡を消していった。もう、今は何も残っていないはずだ。
「そして、ついに本体も消えるってわけね」
少しは驚くかしら。もしかしたら、いなくなったことさえ気づかないのかもしれない。クラリスの髪を潮風がもて遊ぶ。昔は満月のような輝きを放っていた金の髪。今では三日月のように弱々しい銀の髪。
***
クラリスが物思いにふけっているとき、ユグドランド島ではお世話猫ツァールが庭でマーゴットの髪を結っていた。
「ツァールはそんなフワフワモフモフの手なのに、髪を結うのが上手ね。器用だわ。さすがツァール」
ツァールのヒゲが得意げにピルピル動く。
「招待状の返信が届き始めたんだけどね。ツァールに会えるのを楽しみにしているって人が多いわよ」
通りかかったメイドがつけ加える。
「猫好きの方たちからの反響が大きいの。猫島というだけで惹かれるのに、神獣のツァール様がいらっしゃるなんてーって。ツァール様がいらっしゃれば、なにもかもうまく行きますね」
ツァールは胸を張りすぎて少しよろめいた。マーゴットの髪が引っ張られたが、マーゴットは微笑ましくツァールを見つめる。
そんなほのぼのとした空気を揺るがす一通の手紙が届いた。
「まもなくクラリス・フェデリ伯爵夫人がいらっしゃるそうよ」
「ホテル滞在に期待することは、決断しなくて済むことですって。どういうことかしらー」
「何もかもお任せしたいとあるわ。それって、全部? 食事の内容から、部屋の場所まで?」
「でも、私たち初対面なのに。クラリス様の好みなんて把握できないわ」
「えっ、クラリス様ってもしかして、察してちゃんなの?」
皆の顔がサーッと青ざめた。
「察してちゃんってアレでしょう。どのレストランに行こうかって聞いたら。えー、どこでもいいわって言ったくせに、いざ行ったら、ここじゃなかったってブー垂れる人」
「めんどくせーな」
思わず本音が漏れた女性は、周りから小突かれた。
「でも、ちょっと待って。クラリス様って有能な女性って話だったわよね」
招待状は厳選した貴族に送ってあるはずだ。各国のそれなりの身分で、顔が利き、この人のオススメなら間違いないと思わせる。
「影響力の強い貴族の中でも、クラリス様は有能女性枠だったはずよ」
「無理難題を言わず、理性的。ホテルの課題も的確かつ明確に伝えてくれそう。そんな、ステキお客様枠だったはずー」
「確か、お問合せ表にはビッシリ書いてくださっていたはずー。えーっと、ほら。ひえー、細かい」
きっちりとした筆跡で、ビッチビチに書いてある。字が小さいので、紙を顔に近づけないと読みにくい。代表してひとりが読み上げた。
「魚も肉も野菜も、なんでも食べます。好き嫌いはありません」
「いいじゃない」
給仕係がホッとした表情を見せる。
「苦手な動物はライオンと猫とヘビ。愛犬のテリアを連れて行きます」
「なっ、なんてこと。お世話猫様の愛らしさで色んなゴタゴタをうやむやにしようと思っていたのに」
「困ったときはお世話猫様って勝手に思ってたのに」
「まさか、この世に猫が嫌いな人がいるだなんて。知ってはいたけど、いたけどー」
皆がアワアワする。
「待って、ここにはコボルトもいるわ。犬好きならコボルトも好きなはず」
「そうね、コボルトたちに活躍してもらいましょう」
「そうですわね」
皆の顔が明るくなる。
「高いところは苦手ではありません。部屋はどこでも結構。高くても低くても、清潔なシーツさえあれば、問題ありません」
「めっちゃいい人じゃん」
「ホント」
皆の中でクラリスの好感度が上がった。
「日々、色んなことを決断し続けてすっかり疲れています。休暇中は何も決めたくありません。全て、お任せします。文句は言いません、だってー」
「ううう、そこまで言われたら、やるしかないわ」
「そうね、みんな、死に物狂いで察するわよ」
「顔色、声色、動作、全て読みつくすわ」
悲壮感すらある表情で円陣を組み、全員で気合を入れた。
海がよく見える崖で、お世話猫ツァールはぽつねんと座っている。猫が苦手な人、大きな猫は問題外、そんなお客様もいるのだな。潮風に吹かれ、ツァールのモフモフがフワッとなびいた。
「ツァール、探したのよー。もう、心配したじゃない」
ギュッと後ろから抱き着かれ、優しい声がする。ツァールは急いで瞬きを繰り返し、うっすらにじんでいた涙を弾き飛ばした。
「みんなが心配していたわ。ツァールが傷ついてるんじゃないかって。そりゃあ、猫が苦手な人もいるけど。島のみんなはツァールのことが大好きよ。クラリス様だって、悪気があって書いたわけじゃないと思うの」
マーゴットの手がツァールを優しく撫でる。ツァールはうっとりと目を閉じた。
「私はツァールのことが大好きだからね。それだけは覚えておいてね」
ツァールは目を開く。ああ、なんと世界は美しいのか。敬愛する破壊王マーゴットが好きと言ってくれるなら、他の誰に嫌われても構わないではないか。
ツァールは輝く海をじっと眺め、幸せを噛みしめる。
***
その頃、フェデリ伯爵家では緊急家族会議が開かれていた。
「クラリスがなんだって?」
当主のフランツが信じられないと言いたげに家令を問い詰める。家令は淡々と答えた。
「奥様は旅行中でございます。長年、身を粉にして働いてきた、しばらくのんびりするから、あとはよろしくね、との言付けを預かっております」
「誰と?」
「どこに?」
「お母さま、いつ戻ってくるの?」
子どもたちが口々に質問を投げる。
「お供はテディのみです。今日あたり、ユグドランド島に新しくできたホテルに到着されるころかと。お戻りは不明です。ユグドランド島が気に入れば長く滞在するかもしれない。気に入らなければ、各国のご友人に会ってくるわ、そう仰っていました」
フランツは頭を抱え、子どもたちは腕を高く上げて天井を見上げる。
「おしまいだわ、もうフェデリ伯爵家は終わりよ」
長女が顔を覆う。
「母上抜きで、どう夜会を乗り越えればいいのだ」
長男がうめき声をあげる。
「わたくし、席順とか考えるの、無理ですわ」
次女が唇を噛みしめる。
「父上のせいです」
次男がキッとフランツをにらむ。フランツは大きく目を見開いた。
「何を言っている」
「父上が、浮気ばかりして母上を大事にしないから」
「フェデリ伯爵家は母上でもっているのに、お父様がお母様をないがしろにするから」
四人にじっとりと見つめられ、フランツは少し目を泳がせた。
「迎えに行くか」
「それだけはやめてください、と奥様から伝言が」
家令がフランツに静かに告げる。
「そなた、それにしてもなぜ今ごろ言うのだ。出かける前に言えば止められたものを」
「奥様が輿入れされてから数十年。奥様には休暇というものはございませんでした。出産後すぐに事務仕事を始めて、医者に叱責されていらっしゃったほどです。そんな奥様が、疲れたとおっしゃいました。いってらっしゃいませ、あとはお任せくださいませ。それが使用人一同の気持ちでございます」
出過ぎた真似をいたしました、そう家令に頭を下げられ、フェデリ伯爵家の面々は口を閉じる。
「皆で一丸となって、乗り切ってね。なんなら、夜会もお茶会もやめてしまえばいいのよ、との助言を承っております」
「ああ、それは」
いい考えだと言おうとした次男は、長女の針のように鋭い視線に気づき、続けられなくなった。
「わたくしたちだって、お母様から色々教わったじゃない。力を合わせればできるわよ」
長女は皆を見回すが、反応は薄い。
「母上が後ろにいると分かっていてやるのと、後ろは崖だとではまったく違うと思う。今までは、失敗しても母上がなんとかしてくれるという安心感があったから」
腕組みをしながら長男が言うと、そうだそうだと次男次女が同意を表明する。
「大規模な会は、やめましょう。小さなお茶会なら今までだって各々で仕切っていたわけだし、大丈夫よ」
「では、それで」
「それで」
フリッツは置き去りに、子どもたちだけで消極的な案が採用された。
***
のんびりとハンモックに揺られながら、クラリスはトマトとビールを混ぜたお酒を飲んでいる。
「初めて飲む味だわ。癖になるわね」
根がまじめなクラリス。まっ昼間にお酒を飲んだことはなかった。でもトマト味が強いので、罪悪感が少し薄らぐ。ビールではなく、トマトジュース。そう言えなくもない味。
「初めてと言えば、不思議なホテルよね」
巨大な世界樹に載った小屋。こぢんまりとして、居心地がいい。
「まるで鳥の巣みたいな部屋だったわね」
今までクラリスのしたことのある外泊と言えば、親戚や友人の屋敷か、高級ホテル。
「野趣あふれると言ってもいいかもしれない。野営はしたことはないけれど、こんな感じなのかしらね」
森や野原でのピクニックとホテルのいいとこどり。クラリスは満ち足りた気分で吐息を漏らす。
「静かだわ。驚くほど、行き届いている」
港に着いた瞬間から、申し分のないもてなしを受けた。
「猫島と聞いていたから、少しビクビクしていたのだけれど」
いつもなら港にたむろしているらしい野良猫たちは姿を見せず、代わりにかわいらしいコボルトたちが歓待してくれた。
「テディの遊び相手になってくれて。なんて優しいコボルトたち」
羽が生えて、人語を話す子犬のコボルトたちは、テディと追いかけっこをしている。
「皆さん、さりげなく気を使ってくれて。何も言わなくても先回りして対応してくれるのよね。何も決断したくない、なんて無理難題を書いたものだから。気苦労をかけさせてしまったわ」
少しばかり反省するクラリスであった。
「神獣のお世話猫様がいらっしゃると聞いたけれど。今のところお目にかかっていないわ。もしや、わたくしが猫嫌いだから隠れていらっしゃるのかもしれない」
招待状への返信を書いたときは、心がささくれだっていたから。書かなくてもいいことを書いてしまったかもしれない。
「かといって、お世話猫様に隠れていただかなくても大丈夫です、とどなたかに言うのもね。かえって気を使わせてしまいそう」
クラリスはしばらく考えて結論を出す。
「もし偶然マーゴット殿下にお会いできたら、余計なことを書いたせいで申し訳ございません。そう、さりげなく謝りましょう。そして、いいお客様をご紹介すればいいわね」
趣味がよくて、金払いがよくて、うるさいことを言わなさそうな貴族。クラリスには何人かこ心当たりがある。心が決まって、クラリスは落ち着いた。見計らったかのように、新しいお酒が届けられる。
「クラリス様、ミントとライムがたっぷり入ったラム酒でございます」
「まあ、素敵。本当に、色々とありがとう。おかげさまで、とても楽しいわ」
「光栄でございます」
給仕は、ホッとしたように素の笑顔を一瞬のぞかせ、すぐに穏やかな微笑みに戻る。
採れたてのミントなのだろう。とても爽やかでサッパリとしている。クラリスはハンモックの上で足を伸ばし、くつろいだ。
***
クラリス不在のフェデリ伯爵家では、子どもたちが必死の面持ちで書類を読んでいる。
「さすがお母様。すごいわ。夜会や茶会で気を付けるべきことが全て書かれてある」
「一緒に呼んではいけない人たちも。席を離さなければいけない人たちも。席順の例も細かく載ってる」
「一人ひとりの好きな話題、苦手なものなんかまである。お母様当ての招待状には、母は不在のため欠席
と書きなさいだって。あっ」
次女は大きな声を出して、文章を姉と兄に見せる。
「欠席連絡をして、『何かお困りのことがあれば、お手伝いいたしますよ』って返信が来たら、遠慮なく助けを乞いなさいって書いてあるー」
「手紙を確認しよう」
母は無駄なことは書かない、助言には意味がある。子どもたちは知っている。既に読んでいた手紙を、手分けして読み直す。
「ねえ、ほとんどの手紙に、喜んでお手伝いいたしますよって書いてあるわ」
「まずはレネーテ・ゼルウィン侯爵婦人にお願いしてみよう。レネーテ様が一番よく屋敷にいらっしゃっただろう。僕たちのこともかわいがってくれた」
フェデリ伯爵家からの手紙を読み、レネーテ・ゼルウィン侯爵婦人は胸を撫でおろしていた。
「ああ、よかった。やっと助けを求めてくれたわ。ええ、必ずあなたたちをお助けいたしますよ。クラリス様とお約束いたしましたからね」
レネーテは手紙に向かってひとりつぶやく。
クラリスのスキルについては、社交界の公然の秘密だ。多くの貴族がクラリスのスキルに助けられているらしい。誰も公では口にしないが、皆そうと知っている。レネーテも助けられたひとりだ。誰にも打ち明けられない、レネーテの心の闇を、クラリスは聞いてくれ、救ってくれた。
レネーテのスキルは『くすねる』。外聞を気にした両親により、レネーテのスキルは『我が物にする』であることになっている。でも、レネーテの本質はコソ泥なのだ。恐ろしいことだ。結婚は無理だろうと思っていたけれど。「あなたに心を奪われてしまいました」という男性が引きも切らず、優しい夫ができ、子どもも生まれた。
満ち足りて、幸せなはずのレネーテなのに。たまに恐ろしい衝動にかられてしまう。お店や訪問先で、何かをくすねたくて仕方がなくなるのだ。血がにじむほど手のひらに爪をたて、何も取らずに帰る。レネーテはいつか、どこにも出かけなくなってしまった。
「クラリス・フェデリ伯爵夫人に会ってきたら?」
心配した夫が、そう進めてくれた。彼女に話を聞いてもらうと、心が晴れると密かに評判らしい。半信半疑ながら、ワラにもすがる気持ちでクラリスを訪ねた。
決して誰にも明かすことのできない、レネーテの恥。夫にも見せたことのない心の闇。不思議なことに、クラリスには打ち明けたくなった。
涙をこぼし、震えながら話し終わったあと、レネーテはとんでもないことをしてしまったと、顔を両手で覆った。
「大丈夫です。わたくしのスキルは『秘密』。わたくしには何を言ってもいいのですよ。秘密が漏れることは決してございません。いくらでもはけ口になさってくださいな」
その言葉の通り、クラリスはイヤな顔ひとつせず、いつもレネーテの話を聞いてくれた。その上、破格の申し出までしてくれた。
「どうしてもウズウズしてたまらないときには。この屋敷内の物ならくすねていただいて結構ですよ。次回にこっそり返していただければ問題ありませんわ」
そんなことはできないとレネーテは思ったものの、自分を止められないときもあった。スプーンをひとつ、初めてくすねたときは、興奮と罪悪感でグチャグチャになった。
「本当にごめんなさい」
くすねたスプーンと、お詫びの品として高級茶葉を持っていき、何度も深く頭を下げた。
「まあ、スプーンだけで大丈夫ですのに」
「いえ、それではわたくしの気がすみません。できれば、お金もお支払いしたいのですが」
「お金なんて、本当にお気になさらず。ただ、そうですね」
クラリスは少しためらったのち、小さな声で続けた。
「今後もし、わたくしに何かあったら。子どもたちを助けていただけないでしょうか」
「もちろんです。もちろんですとも。後見人でもなんでもいたします」
「ありがとうございます。心強いですわ」
クラリスも深く頭を下げる。レネーテは困ってしまった。
その後、レネーテのスキルがうずくたび、クラリスを訪れ、くすねさせてもらった。壺や花瓶、絵や本、帽子やメイドのエプロンまで。誰にも気づかれず持って帰り、お詫びの品と共に返しに行く。
「どうして神はわたくしにこのようなスキルをお与えに」
恥ずかしくて、自分が憎くて、クラリスに愚痴をこぼしたこともあった。
「神の御心はわたくしには分かりませんが。きっと何かお考えがおありなのだと思いますわ。あるがままに、スキルを受け入れられたらよろしいのではないでしょうか」
「そうすると、わたくしは大泥棒になってしまいます」
レネーテは情けない表情になり、クラリスは笑った。
大恩人であり、友人でもあるクラリスが、ついに夫の浮気に耐え兼ねて旅行に出たことは知っていた。子どもたちに、何かできることはないか手紙に書いた。そして、ようやっと、クラリスの恩に報いる日が。
レネーテは静かに燃えながら、子どもたちと会った。子どもたちの話をじっくりと聞き、対策を考える。
「よく分かりました。なんとかいたしましょう。クラリス様にお世話になった人たちと話し合ってみますわね」
レネーテは子どもたちから、他にも援助を申し出ていた貴族がいることを聞き出した。名だたる貴族たち、癖のある人ばかり。誰もが、いざというときに子どもたちをよろしくと、クラリスから頼まれていた。
「わたくしたちの力を結集して、なんとかいたしましょう。今こそ、約束を果たすときですわ」
レネーテの言葉に、クラリスに助けられた貴族たちが頷く。
***
「なんだ、クラリスがいなくても、きちんと夜会ができるではないか」
フェデリ伯爵家当主のフランツは、盛況な夜会会場を見回し、満足気に口ひげをひねる。今まで開催したどの夜会よりも豪華な参加者。
「クラリスがいないとフェデリ伯爵家はおしまいだなんて、とんだ戯言であったか」
それなら、もうなんの遠慮もいらない。マリエッタを屋敷に住まわせよう。「正式な夫婦となるまで、清い関係でいましょう」マリエッタはそう言って、いつも関係が深くなるのを断ってきた。清い乙女なのだ、彼女は。
「女房とワインは古いほどいい、などと言うが。まったくそうは思わんな」
初々しく、若々しく、すれていないマリエッタ。フランツのことを当てにせず、テキパキと卒なく差配する、かわいげのないクラリス。どちらがいいかなど、明白ではないか。
「そうと決まれば、マリエッタを子どもたちに紹介するか」
実は密かに夜会に参加させているのだ。しおらしく、隅の方で呼ばれるのを待っているはずのマリエッタ。どこであろう。フランツは夜会を見回す。
「おお、あんな端の方で。なんと健気であることよ」
よく見ると、複数の男に取り囲まれているではないか。可憐で清らかな令嬢を餌食にしようとしているのであろう。すぐに助けに行かなければ。
「閣下、おめでとうございます」
「早々に家督をご長男にお譲りになり、クラリス様とゆっくり旅行を楽しまれるそうではありませんか」
「うらやましいですわ。ユグドランド島の世界樹ホテルは、選ばれし貴族しか泊まれないそうですのよ。さすがはクラリス様」
「頭脳明晰、内助の功。三国一の花嫁とは、クラリス様のことですわね」
フランツは貴婦人たちに囲まれ、面食らった。どの女性も、フランツより高位の貴族。フランツは恭しく応対する。
「ええ、クラリスは最高の妻です。しかし、家督を譲るというのは、まだまだ先の話ですよ。なにか誤解がございましたようで」
フランツが慇懃に答える。貴婦人たちはさざめき笑い、目くばせをしながら、扇子で遠くを示した。
「まあ、泥棒猫がフェデリ伯爵家の夜会に参加しているだなんて」
「どうやって潜り込んだのやら。泥棒猫というよりは、ドブネズミが正しいのではなくて」
「まあまあ、昔の男に囲まれて。今度は誰を餌食にしようというのか、恥知らずですこと」
貴婦人たちがあざ笑っているのは、マリエッタのようだ。フランツは困惑した。
「あのご令嬢がドブネズミとは、穏便ではありませんな」
「あらあらまあまあ、閣下まで目が曇っていらっしゃるとは」
「ご令嬢だなんて年齢ではございませんのよ、彼女。巧妙に化粧でごまかしていますが、ねえ」
「まさか、どう見ても乙女ではありませんか」
フランツは目を凝らしてマリエッタを見つめる。妖精のような儚さは、誰にも踏みにじられていない初雪のよう。
「閣下、ご存じないのですね。あの周りの殿方は、彼女の歴代の恋人ですのに」
「閣下は、クラリス様という貞淑な奥様をお持ちでいらっしゃるから。毒女の存在に疎くていらっしゃる」
「男爵、男爵、子爵、子爵と続いていますからね。次は伯爵でも狙っているのではないかしら。この夜会で伯爵を探しているのかもしれませんわね。ああ、恐ろしや。閣下もお気をつけくださいまし」
フランツは、急にマリエッタが色あせて見えた。あの、純粋でウブな様子は、全て男を手玉に取る術であったのだろうか。すっかり騙されていたとは、なんとみっともないことであろうか。子どもたちに紹介する前でよかった。
「世の中にはとんでもない女がいるもんですな」
フランツは乾いた笑いを漏らす。
突如、大きなラッパの音が鳴り、人々が左右の壁際に分かれ、入口から奥まで通路ができた。威厳のある女性が騎士に守られ、空白地帯を歩いていく。人々は静かにひざまずいた。
「王妹殿下」
フランツは思わずつぶやき、慌てて跪く。王妹はフランツの前で足を止めると、厳かに告げた。
「フランツ、異例ではあるが爵位継承の儀式をわたくしが執行します。あくまでも簡易版ではありますが。特例で陛下に許可をもらいました。正式な儀式は、クラリスが戻り次第」
フランツは目を見開くが、言葉を発する間もなく儀式が進んでいく。王妹がフェデリ伯爵家の宝剣を長男の肩に当てた。フランツは目を疑う。宝剣は、フランツしか開けることのできない宝物庫に保管されているはずなのに。
首からかけている鎖をまさぐると、鎖についているはずのカギがなくなっている。蒼白のフランツを置き去りに、儀式は粛々と進む。王妹が陛下からの文章を読み上げ、長男の肩に赤いサッシュをかける。
「皆の者、新しいフェデリ伯爵家当主の誕生である。皆も知っての通り、クラリスはわたくしの大切な友人である。皆がフェデリ伯爵家の新当主を支えることを期待します」
王妹が告げると、会場中の貴族たちが胸に拳を当てる。
呆然としているうちに、儀式は終わり、徐々に貴族が去っていった。フランツは長男に詰めよった。
「いったい、これはどういうことだ」
「父上が血迷って毒女との間に子を成し、フェデリ伯爵家の世継ぎ争いが起こらないよう、先手を打ちました」
「お母様がお父様をお許しになったら、私たちも考えます」
「さあ、ユグドランド島にお発ちください。お母様の返答次第で、お父様の処遇は決めさせていただきます」
高位貴族婦人たちにガッチリと囲まれた子どもたちは、キッとした表情で無情なことを言う。テキパキと家令に馬車に押し込まれ、フランツは訳も分からぬまま追い出された。
***
ユグドランド島でテディやコボルトたちと戯れているクラリスの元に、たくさんの手紙が届けられた。
「子どもたちと家令からだけじゃないのね。まあ、王妹殿下にレネーテ様たちまで。まあ、なんてこと」
手紙には夜会での顛末が詳しく書かれていた。『くすねる』『たくらむ』『こじあける』『あげつらう』など、数々のスキルを結集し、王族も一枚かんで爵位継承を強引に執り行ったらしい。
「王妹殿下ったら、もしクラリスが望むなら、フランツに爵位を戻すことも可能だなんて。随分と無茶をしてくださったのだわ」
『秘密』スキルで、やんごとなき方々の話を聞いただけなのに。子どもたちを助けてくださいとはお願いしたが、ここまで大掛かりにお仕置きしてくださるなんて。それにしても。
「フランツがこちらに向かっているのね。でもねえ、今さら何を言われたところで、愛情は戻らないわ」
クラリスはため息を吐く。マリエッタとは別れたようだけれど。
「会いたくない。ああ、本当に会いたくない」
美しいユグドランド島ですっかり癒されたのだ。修羅場も愁嘆場も遠慮したい。
どうやってサクッと追い返すか、悩みに悩んでいたクラリスではあるが。
「お世話猫ツァール様。助けてくださり、心からお礼を申し上げます」
お世話猫ツァールが、港に降り立ったフランツの首根っこをつかみ、ポーイッと船に投げ入れてくれた。クラリスの心のうち、秘密を何もかも見通しているような、お世話猫の静かな目と笑顔。クラリスは感激で胸がいっぱいになった。
「さよなら。もう二度と会いません」
クラリスはお世話猫ツァールに後ろから支えられながら、船の上の元夫に大声で別れを告げた。




