29. 最初のお客様
「これから一週間、世話になる」
「よろしくお願いいたします。新婚気分に戻ってのんびりさせていただきます」
最初のお客様は、フィリップ王とドーラ王妃。マーゴット以外は、これが夢であってほしいと思っている。が、残念ながら現実だ。
ドーラ王妃は春の陽ざしのように、柔らかく温かい笑顔の持ち主。フィリップ王のピリピリとした威圧感が、ドーラ王妃と一緒だと随分穏やかになるようだ。
「お部屋は、建物の三階にあたるぐらいの高さの場所をご希望でしたよね。あちらになりますが、歩いて登られますか? コボルトが飛んでお運びすることもできますが」
マーゴットが指した部屋の場所を見て、ドーラは少し迷う。
「最近、運動不足ですから。歩いて登ろうかしら。ねえ、あなた」
「そうだな。そうしよう。私が引っ張ってやる」
フィリップが手を引き、ドーラとふたりで螺旋階段を歩く。
「一段一段が低いですね。幅も広くて、歩きやすいわ。それに、なにより景色が素晴らしいですわ」
ふたりは足を止めて、海を眺める。
「明日は早起きして、朝日を見よう。絶景らしい」
「フフフ、楽しみですわ」
フィリップはドーラの額の汗を指で拭い、手を引いてまた登り始める。ドーラが少し息を切らし始めた頃、部屋に着いた。
「まあ、小さな部屋。でも、とってもかわいらしいわ」
部屋の中にあるのは、こじんまりとしたベッド。屋根から吊り下げられた二人がけの椅子。水差しとグラスが置かれた、小さなテーブル。それだけだ。贅沢な王宮で暮らしているふたりにとっては、未知の世界。
「本当に、木のうろの中にいるようだ」
フィリップは感心したように、壁や床をじっくり見る。
「外側はツタで覆ってあったが。内側はうっすらと壁紙が貼ってある」
フィリップの指先を、ドーラは近づいてじっくり見つめた。
「まあ、本当。木の継ぎ目が見えないように、継ぎ目の上に壁紙を貼っているのね。私たち、小鳥になったみたい」
ドーラは楽しそうに部屋を一周すると、吊り下げ椅子に座った。ユラユラ揺れる椅子の片側をポンポンと叩く。フィリップもドーラの隣に座り、肩を抱く。
「公務ではない、ふたりきりの旅なんて。初めてね。夢のようだわ」
「そういわれてみれば、そうだったな。これからは年に一回は旅をしよう」
ドーラは笑い転げた。
「おかしいわ。王太子の頃の方が、時間があったと思うのだけれど」
「まあ、それは。いいではないか。部下にもっと任せることにしたのだ。子どもたちも、しっかりしてきたし」
「そうね」
トントン 窓を叩く音がして、ふたりが顔を向けると、小さなコボルトがパタパタと飛んでいる。窓を開けると、コボルトはメニューを渡してきた。
「ユグドランド島、特製の果物ジュースをいかがでしょう」
「まあ、素敵」
ドーラはメニューを開き、フィリップと頭を寄せ合って選ぶ。
「私、これにしますわ。マンゴーとハイビスカスのお茶を混ぜたジュースですって。どんな味かしら」
「ビールを」
ほどなくして、コボルトがバスケットを抱えて飛んできた。
オレンジの飾られた、色鮮やかなジュースと、きめ細やかな泡のビール。
「まあ、夕日みたいな色ね。夕日が海を染めていくところ、見てみたいわ」
「朝日が海を染めるのは、明日ここから見られるが。夕日が海を染めるのは、ここでは無理だな。西側の海沿いにもホテルを作ってもらうか」
フィリップの冗談とも本気ともつかない言葉に、ドーラはおっとりと微笑む。ふたりはジュースとビールをじっくり味わう。
「小舟に乗って、釣りをするのでいいか?」
「はい、楽しみです」
ふたりは少し階段を降りて、下の部屋に移動する。大きな荷物は、下の部屋に置いているのだ。ふたりは別々の部屋に入り、侍従と侍女に動きやすい服に着替えさせてもらった。
がっつりと、護衛やコボルトに見守られながら、ふたりは小舟に乗った。ドーラはワクワクしながら、釣り糸を垂れる。
「釣れませんねえ」
場所を変えようが、餌を変えようが、ひとつも釣れない。フィリップが気まずそうな顔をする。
「もしかしたら、私のせいかもしれぬ。昔から、小動物に怯えられるのだ。イヤな雰囲気が出ているのだと思う。おそらく、魚も私がイヤで逃げているのではないか」
いつも堂々としているフィリップが、少し肩を落とす。
「でも、こうやってのんびり釣り糸を見てるだけでも、楽しいわ」
結局何も釣れないまま時間だけが過ぎていった。
「釣れませんでした」
少しがっかりしているドーラとフィリップ。マーゴットが明るくなぐさめる。
「私も、魚釣りはさっぱりダメです。魚が逃げちゃうのです。でも、小舟に乗るのは楽しいですよね」
「ええ、湖とはまた違う波の動きで、ワクワクしました」
「よかったです。魚は、コボルトたちが獲ってくれますよ。その様子もおもしろいので、ぜひ見てください。あ、でも私とお兄様がここにいると、魚が逃げてしまうので、上の世界樹の近くまで戻りましょう」
ドーラは崖をどこまでも続く階段を見て、げんなりした表情を見せる。
「ここで暮らすと、痩せそうですわね」
「コボルトに運ばせましょうか?」
「いえ、がんばります。そうすれば、夜ごはんでリタ様のパンをひとつ多く食べられますもの」
ドーラはかわいらしく拳を握ってみせた。ふうふう、ぜいぜい言いながら崖を登り切り、上から海を見下ろす。
子犬のコボルトが五匹、海の上をパタパタと飛び回っている。一匹が水面スレスレまで降りた。バシャッと手を水の中に入れる。ビュンッ、魚が跳ね飛ばされる。ドコッ、上にいたコボルトが持っていたカゴで飛んできた魚を受け止める。
うまくカゴにおさめたコボルトは、嬉しそうにしっぽをブンブン振った。でも、誰も声を上げない。無言で、バシャッ、ビュンッ、ドコッの工程が繰り返される。
「ふわあー、素晴らしい連携ですわ。熟練の技ですわ」
ドーラは感心しきって、ため息まじりの感嘆の声を上げている。
コボルトたちは、カゴが魚でいっぱいになると、誇らしげに遠吠えを始める。崖の上から見学していた王族と護衛と島民は、惜しみない拍手を送った。
「今日はとても楽しかったわ、あなた」
魚中心の晩ごはんを食べ終わり、部屋に戻ったフィリップとドーラ。吊り椅子の上で、ドーラはフィリップの胸に頭をもたせかける。
フィリップはドーラの髪を優しく撫でる。
「私は色んな間違いを犯した。それをこの島で学んだ。だが、そんな私でも正しい選択をしたと胸を張って言えることがひとつある。君を妻に望んだことだ、ドーラ。愛している」
「まあ、あなた。わたくしも、わたくしも愛しています」
「次、もし私が何か間違ったことをしたら、臆せず諫めてくれないか。ハズレスキル持ちを追いやったとき、何度か言おうとしてやめていただろう」
「私はあなたのように頭がよくありませんから。自信がなかったのです。でも、これからは、疑問に思ったら質問しますね」
「ああ、そうしてくれ。必ずドーラが納得するまで答えて、必要なら政策を見直す。どうか、私を止めてほしい」
「はい、そうします」
ドーラは真面目な声で答え、フィリップは少し肩の力を抜いた。夜がふけるまで、ふたりは色んなことを語り合った。
翌朝、フィリップは営業許可証に国王直々、流れるような達筆で署名した。フィリップはマーティンと握手を交わす。マーティンは、マーゴットに促され、執務室の窓を開け、営業許可証を高々と掲げる。ソワソワして屋敷の外で待っていた島民たちが、ワッと大歓声を上げた。




