25. 覇王フィリップ
覇王フィリップ、四十歳。産まれたときから、覇王だった。「天上天下唯我独尊」とは言わなかったが。目がいつもすわっている。表情が変わらない。常に冷静。そんな子どもだった。
ただ者ではない。そう思われていたフィリップ。十歳のときのスキル鑑定は、誰もが納得の結果だった。
「やはり覇王」「さすが覇王」「やっぱり覇王」そんな反応。
なんでもできる。失敗など縁がない。強く正しく揺るがないフィリップ。全方位で弱みなし。まさに、覇王。
人を判断するときは、使えるか使えないか。優秀か無能か。要するに、自分に役に立つかどうかが最も大事。側近は優秀な者で固めている。
婚約者選びも、もちろんそのように進められた。有力貴族令嬢の名前、家柄、年齢、スキルなど必要な情報を一覧にまとめる。たった一枚の紙で、決めるつもりだった。
「殿下、人は紙で判断できるものではありません」
子どものときからついていた侍従が強く言う。仕方なく、令嬢たちを一堂に集めた。美しく着飾った令嬢たち。どれもこれも、才媛揃い。美しく、折れそうに細い腰をした令嬢たち。頭もよく、気の利いた会話もできる。誰を選んでも、未来の王妃にふさわしい。
退屈だ。もちろん退屈だ。皆、取り繕った表情で、すましている。これなら、紙で選んでも変わりがないではないか。少しずつテーブルを移動し、その席の令嬢と話す段取りなのだが。
「パンが好きなのか?」気づいたら、口に出していた。
隣のテーブルに座っている令嬢が、おいしそうにパンを頬ばっている。フィリップが違うテーブルにいる間に、腹ごしらえ。そんな雰囲気を感じた。
さりげなく、令嬢がフィリップの席に案内された。令嬢は真っ赤になってドギマギしている。
「君は確か」フィリップは紙の一覧を頭に思い浮かべる。「ドーラ・バルモーア伯爵令嬢、スキルは柔和だったか」
「はい。さようでございます」
ドーラは消えそうな声で、震えながら答える。
「それで、パンが好きなのか?」フィリップはもう一度尋ねた。
「はい。パンが、大好きなのです。パンはどんなパンでも好きです。でも、甘いパンを食べると母に叱られるので。食べられるのは、この丸パンだけです」
しょんぼりと、悲しそうにうつむくドーラ。フィリップはおかしくなった。王子とのお茶会で、パンを食べられないことを愚痴る令嬢がいるとは。
「私が許す。この甘いパンを食べよ」
フィリップは、たっぷりとクリームの乗ったハート形のパンを、ドーラの前の皿に乗せてやる。ドーラはもっと赤くなり、慌てふためき、それでも幸せそうにハート型のパンをペロリと食べた。とても早かった。
なぜだか理解ができないが、気がついたときには、ドーラが婚約者に選ばれていた。
「なぜだ」
「ドーラ様が殿下にピッタリだからです」
侍従があっさりと言う。どうやら、侍従が手回しをして、決まったらしい。
「なぜだ」
「殿下にお幸せになっていただきたいからです」
侍従の目が、あまりに真剣で、フィリップは議論する気が失せた。
「まあよい。ダメなら途中で挿げ替えればいいだけのこと」
だが、なぜだか、ドーラが妻になった。なぜだ。
不思議と、他の貴族たちから不満の声は上がっていないようだ。なぜだ。
頭脳明晰なフィリップに、たったひとつ分からないこと。
ドーラはフィリップとの子を五人も産んだ。柔らかく、優しく、穏やかな母に似て、どの子ものんびりしている。
五人の子どもを産んだドーラは、ぽちゃぽちゃとして、どこまでも柔らかい。
「今日は甘いパンは食べないのか」
「少し太りすぎだと思うのです。覇王の妻がぽっちゃりでは、いけないと思うのです」
「そ、そうか。では、この丸パンならよかろう。私も食べるから、ドーラも食べよ」
丸パンにバターもジャムも塗らず、そのままで食べる。これなら、ぽっちゃりは大丈夫だろう。
ふたりで丸パンを食べる。何もつけず、素朴なパン。柔らかく、ふんわりしたパン。
ところが、無能スキルを排除したとき、おいしいパンを焼くスキル持ちのリタまでいなくなってしまった。毎日食べるパンが、おいしくない。
ドーラは、不満を何ひとつ口にしない。いつも、穏やかだ。フィリップの仕事に意見を述べることもない。ただ、ドーラはパンを食べなくなった。そんなときだ、ユグドランド島から招待状を受け取ったのは。
「リタを連れ帰ってくる」
「それは、やめてください」
初めてドーラが逆らった。
「なぜだ」
「リタ様は、ユグドランド島でお幸せにお過ごしと聞いております。ですから、そのままに」
そうは言ってもな。ユグドランド島には世界樹ができた。物騒なことが起こるやもしれぬ。優秀なパン焼きスキル持ちは保護しなければ。おいしいパンが食べられないのは問題だ。いずれにしても、リタと話ぐらいはしよう。そう思って、ユグドランド島を訪れたのだが。
「海が穏やかだな」
聞いていた様子と随分違う。
「船長の話ですと、最近は海流が随分と穏やかになったそうです。島の周りを根城にしていたシーサーペントも見なくなったとか。その影響かもしれません」
「なるほど。それにしても、この距離からでも世界樹がはっきりと見える。さぞかし耳目を集めていることであろう。島の警護が強化されていればいいが」
あの呑気な領主では無理かもしれぬ。フィリップは嫌な予感がおさまらない。これ見よがしに世界樹をひけらかし、島を天然要塞にしていた海流が収まり、番犬代わりのシーサーペントがいない。さあ、乗り込んで、乗っ取ってください。そう言っているようなものではないか。
「王都から一個中隊を連れてきてよかった。そのまま島の警護に当たらせるか」
精鋭部隊がいれば、なんとかなるだろう。半年、いや少なくとも一年は駐留させよう。その間に、島の若い男を鍛え上げればよかろう。島に近づくにつれ、緑の多さが目をひく。
「不毛の地とは到底思えぬが」
ハズレスキルの者たちが島に移住してから、緑が増えているとは聞いていた。まさかこれほどとは。半分が灰色、もう半分が緑色。不可思議な不毛の島だったはず。もはや、灰色の部分はどこにも見えない。




