白花の舞踏
まだ風が冷たく、冬の名残が感じられる朝、桜はひらひらとなされるがまま宙を旅し、あたり一面を白桃色に染め上げている。今日この日、学院初等部の新学期が始まる。もうすぐ鐘の音が鳴り響くという頃、一人の少女が自然の絨毯の上を勢いよく駆けていく。
この国は歴史的、世界的に特異な国である。この地に住む民は昔から超常的な力を発露してきた。この力は、精霊に祈りをささげることでその真価を発揮するものと考えられていた。原始的な狩猟社会にあっては、その力は獲物を仕留めるために用いられた。ところがそうした暮らしが一変し、人類が集住して暮らすようになると、その奇跡を起こす力は争いの道具へと変貌した。人々は勇猛なる者に従属し、彼らは他の集団の生活拠点を荒らし、征服した。小さき集団がより大いなる集団へと次々に吸収されていくなか、ある一人の女性が徐々に頭角を現し始めた。彼女は類まれなる才覚をもってして、遂にはその地域を統合するに至った。
こうして一つの原始的な国がつくられる一方で争いばかりに専念したために、集落は荒廃し、そのうえ奇跡を起こす能力が失われつつあることがあらわになった。女王はその原因が、自然の破壊と能力の戦争への使用によって精霊に見放されたことにあると考え、自然の回復を図るとともに、戦いにおける力の行使を禁止した。
女王の生きた時代からはるかに時を下った現代では、そうした能力はすっかり失われており、神話上の話だと考えられている。とはいえ、女王の国を原型とするこの国では言い伝えを忠実に守り、都市であっても緑を絶やすことのないように整備されているのである。
こうした歴史的経緯から、この国には精霊信仰が存在する。精霊とは、死者の霊魂が現世に留まった存在とされ、精霊は自然を好むという考えが一般的には広まっている。長きにわたり民を見守り、慈しんできてきた精霊に感謝の祈りを捧げたり、あるいは穢れを祓らい、死者の安らかな眠りを叶えるために巫女というものが存在している。巫女という名称は建国の祖たる女王を讃えて名付けられたのであり、必ずしも女性のみが任じられるわけではなく、その呼び名に反して男性の巫女も存在する。巫女は節目の日に、精霊を祀る御社で舞を奉納するなどの役目を負っており、国民と精霊とをつなぐ重要な存在として敬われている。
「鐘がなりましたので、これより新学期の挨拶を始めさせていただきます。本日より皆さんの担任を……」
「遅れてすみません。高階紅葉ただいま到着しました」
少女は肩で息をしながら勢いよく扉を開く。黒髪は肩にかからない程度に切りそろえられており、疲れを感じさせないくらいに溌溂としている。
「高階さん、あなた今年も新学期早々いつもの場所で練習していたのね」
先生は呆れているとも感心しているとも判別つかない複雑な表情を浮かべながら、確信に満ちた様子で尋ねる。先生は去年も紅葉のいる教室を受け持っており、今朝と全く同じやり取りをしていたのであった。
「さすがだね先生。今日もいつものところに行ってきたんだ」
本人は昨年も同じ理由で遅刻し、怒られたことなど忘れたかのように名推理を褒めそやす。
「みなさんすみません。改めて自己紹介させていただきます。吉田と申します。一年間よろしくお願いします」
自己紹介の間、紅葉は人一倍きらきらとした瞳で見つめていた。かつて吉田は巫女を目指していたので、神楽舞を得意としている。少女は先の一年間、わずかな時間を見つけては教えを請いに押しかけていたのである。吉田は時折休む時間がないと口にしていたものの、本心では自分を慕う子が顔を出しに来てくれることに喜んでいたのである。そしてわが子のように目をかけ、自分の持てるなけなしの技術を余すことなく教えていたのである。
「もう何年間もともに学んできた間柄ですので、みなさんの自己紹介は省略させていただきます」
言い終わるやいなや、一人席を立ち発言する。
「高階紅葉です。将来の夢は巫女になることです。今日も夢の実現のために練習していたために、遅刻してしまいました」
はじめ堂々と夢を語っているものの、締めの言葉に差し掛かるころには、声は細々として聞き取りづらいものになっていた。いくら能天気といえども、大勢の前で先生に非を指摘されたのは恥ずかしかったようである。もっとも、この子の遅刻癖は有名であり、みな密かに今日も彼女は間に合わないであろうことを察していたのであった。彼女たちは今、初等過程の最終学年であり、もはや自己紹介などせずとも互いのことは概ねわかっている。嘘から出た実とばかりに、少女は毎年きまって己の夢を宣言するために、全員いわれずともそのことを心得ているのである。そして同時に、それを叶えるために身を削ってでも練習していることは、学院中に知れ渡っていた。
他の者の視線を気にせず勝手気ままに振舞う娘がいる一方で、別の意味で注目を集める者もいた。その少女の名は葉月華恋という。よく磨かれた銅のように光沢感のある茶色の髪は肩に緩やかにかかる程度に下されており、髪を光に透かしてみれば、ほのかに金色が買って見える。貴族ではないものの、その佇まい、所作の節々からは育ちの良さを感じられる。昔語りに出てくるような大和撫子とはこの人のために存在する言葉であると結論づけたくなる装いである。とはいっても、お堅く近寄りがたい雰囲気ではなく、自然と周囲に溶け込み、日常の何気ない会話に心からの笑みを浮かべさえし、その様はほかの大勢の仲間たちと全く同じ風にさえ映る。
二人の少女はこれまで一度も同じ教室で学んだことはなかったものの、誰よりも互いのことを心のうちで意識していた。紅葉は自分に巫女としての才能があると信じており、実際に仲間の中では頭一つ抜けた成果をあげており、教師たちも彼女の自由気ままな性格を考慮してさえも、十二分に称賛に値する人物であるとの評価を下していたため、甘やかしていたのである。その反面、紅葉も教師たちも常にあることを考えざるにはいられなかった。すなわち、いくら恵まれた能力を持っているといえども、葉月華恋を超えることは不可能に等しいであろうということである。この世の中には、他のことのために費やすべき時間さえ惜しみ、一つのことに熱中することでようやく何か目標を実現することができる者がいる。その一方で、それ自体に集中しているわけでもなしに、他の作業のついでとばかりに他者にとっての核心を得る者もいる。黒髪の娘にとって、比較対象はまさにそのような途方もない存在として立ちはだかっていた。進めば進むほど、彼我の間に克服しがたい溝が空いているといことを、より一層鮮烈に見せつけられるばかりである。あまりにも差があるために、もはや嫉妬さえ惹起され得ない。それは持たざる者が叶えられない夢を前にしたときに、その者を羨むことで生じる。誰かが先じて一つの到達点に終着すること、並びに惜しくも自分の手が届かないといことを前提として、それは発生する。翻って彼の乙女は、一つの目的地に留まることはなく、一足飛びで次々と課題を制覇していっているのである。この溢れんばかりの才は限界を知らない。理解の及ばない事象に遭遇したとき、人はただ呆然とするばかりである。紅葉にとっても同様で、華恋の偉業を目の当たりにして羨んだことは一度もない。その代わり触発され、理想の姿を想起して憧憬の念を抱くとともに、自らを奮い立たせて一歩ずつでも近づいていこうと決意を新たにし、さらに努力を積み重ねるのであった。
華恋は高階紅葉のことが不思議で仕方がなかった。何故それほどまでにも夢中になれるのか。どうして心が折れてしまわないのか。自分の実力を過信することは決してしない。これまで嫌というほど同年代の子たちと競い、敗れてきたのであるから。だからこそ自分の反応との違いに困惑する。勝てないとわかりきっている相手がすぐ目の前にいるのに、どうして土俵から下りてしまわないのだろうか。入学以来ずっと胸の奥底に仕舞い込んでいたこの疑問の答えを得る良い機会だと一人驚き、知らず笑みを漏らす。
ある日のこと、不意に先生が紅葉に声を掛ける。その内容は、学院が独自に実施している神楽舞検定を受験してみないかというものであった。この国の成り立ちの影響もあり、すべての学院において舞が授業科目として採用されている。特に、この学院の長には代々巫女の経験者が就任しており、後進の育成に心血を注いでいるのである。そこで将来有望な人に続々と受験を勧めているのである。
彼女は二つ返事で了承する。当然、それが存在していることは知っていた。それでも今まで受験してこなかった理由は、ひとえにその難易度に求められる。試験は授業で扱う範囲を基本としつつも、それを上回る技術を要するものさえ含んでいるのである。それゆえ合格するためには、幼き身にとっては苛酷に過ぎるというほどの修練をしなければならないのであった。紅葉は己の力量が不足していること自覚していた。加えて、どうせ受験するのであれば最後の最後まで練習し、一度で合格することによって見栄を張ろうとしていたのである。そのような考えを持っていたものの、こうして声を掛けてもらったということは、自分の技量が認められているということに他ならないから、自信を深め、そして期待にこたえたいと思ったのである。
このように困難極まるものであるが、華恋はすでに合格していたのであった。そこで先生は華恋に教えてもらってはどうかと提案した。彼女の胸中にある考えが幸いして、無事にこの提案は承諾された。
検定にむけて練習が進む中、紅葉は一切の弱音も吐かず、華恋の教えを素直に受け取り、着実に腕を磨きつつある。それどころかむしろ、これまで自分が見たことのない舞を前にして、興奮冷めやらぬといった様子でさえあった。
「どうしてそんなにも楽しんでいるの」
ある日、以前から抱いていた疑問を口にした。
「今よりもずっと小さいころにね、巫女さんの舞を見たんだ。どんなだったかは良く思い出せないけど、きれいだと思ったということは覚えている。一目見た時から、自分もいつかあの舞台に立ってみたいと思わずにはいられなかったよ。だからこうして華恋と一緒に舞をやっていると、あのとき感覚がよみがえってきて、とっても楽しいんだ」
童心に生じる純粋な憧れの気持ちは、幾たびの死線を潜り抜けた者にとっては余りにも眩しいものである。それきり二人はろくに話をすることもなく、ちょうど教室で繰り広げられるように、一方が教え他方は黙々と受け取るというやり取りが行われるのみだった。
淡い水色の清流がはしる森の中、聞こえてくるのは穏やかな風に揺さぶられる木の葉の音、一定の速度で流れる水の音、そしてそれらに合の手を入れる鳥のさえずり。ここは調和した音色を乱す猿や鹿のような生き物はいない。人の手が加えられていない原始の環境とはまさにこの様だと得心するばかりである。この森の奥深くにおあつらえ向きの広間がある。広さ約八畳、木は十分に距離を保ち自由に動くことができ、地は平坦である。このような好条件の下、紅葉は試験に臨む。
刀を両手で持ち、中段に構える。雄大なる自然に身を任せ、姿を隠している精霊に祈りながら舞う。左足を左斜め前に踊るように着地させ、それに並ぶようにして右足を地に這うようにして動かす。その動作と一緒に身体を九十度回転させる。一連の後、左手を放し、右手で刀を握ったまま居合の型をとる。機を同じくして、右足を高く上げ正面にいる架空の相手の膝に蹴りを入れ、その足を自然に下して両足が開いた状態にする。間髪入れずに抜刀することで腹を横薙ぎにし、流れに合わせて刀を上段に構え、すり足で最初の位置に戻り残心する。これが舞の導入部分である。
本来、神楽舞とは鈴の音や笛の旋律に乗って演じられるものであるが、この場に限ってそれらは不要であった。それどころかむしろ蛇足とさえいえる。一挙手一投足と合一して、箱庭の心地よい音楽が奏でられているのであるから。
練習の成果を見守る華恋は、弟子が開始の準備を終えた段階ですでにその気迫に圧倒されていた。そこには普段己の望むままに飄々と行動する者の影も形もなかった。相対する存在に自分の姿が投影される。勢い良く振りぬかれた刃で本当に切断されたかのような錯覚に陥る。ほの暗い感情が沸き上がってくるのを自覚する。自分に言い聞かせる。これまで何回も経験してきたことではないかと。今度もきっと大丈夫だと。頭を振り、精霊に希う。どうか一刻でも早くこの輪廻を終わらせてくださいと。不意にある考えが頭を擡げ、歪んだ笑みを漏らす。彼女の実力は私には及ばない。そう心の中で反芻する。さもなければこの祓舞によって、このような狂気も一掃されるはずだから。気が付くと小鳥たちは安息の地を求めて旅立っており、葉々はかなり立て、獣は喉を鳴らして威嚇さえしている。足を踏み入れた時はまだ日が昇っていたのに、試験の終わる頃には辺りは幕引きを始めていた。
それからというもの、紅葉はすっかり気を許し、華恋に付いてまわるようになった。どうやら無事に試験を終えることができたのは、彼女の指導のおかげだとみなしているらしい。そして同じ志を持った友として肩を並べたいと考えているらしい。
先日の光景が頭をよぎり、共にいることに戸惑うものの、不思議と悪い思いはしない。これも元弟子の魅力なのかと勝手に納得する。
「華恋は卒業した後どうするの」
いつもと変わらない生活を送っているとき、突然そんな質問が投げかけられる。
「……王都の中等部に行こうと思っているわ」
それは国内でも知らない者はいないほどの名門校であり、巫女の養成を設立の目的として掲げている。全国から優秀な人材を集めるべく、巫女としての資質を有していることを確認する実技試験を入学に際して課しているのであった。
「じゃあ、私もそこに行こうかな」
軽い調子で宣言する。華恋は、意外だという表情を浮かべながら相槌を打つ。
明くる春、今年の桜は早咲きでとっくに花々はすべて風にさらわれてしまっていた。打ち捨てられた我が子が踏みつけられ、引き裂かれるのを木々は為す術もなくじっと眺めている。
始業の鐘の音が鳴る。担任が出席を確認し、間に合わなかったものがいないことを確認する。
雛鳥たちは初等課程を修了し、今日をもって中等部へと歩みを進めた。顔ぶれはほとんど変わらないのに、一年生たちはいやに盛り上がっている。黒髪の娘は寄り道もせず、まっすぐ家に帰る。戸の学院に師でもあり友でもある少女の姿はない。
新入生にとって一番の楽しみは部活動であろうか。ここには文武偏りなく数々の部活動が設けられているが、その内で何よりまして人を引き付けてやまないものは巫女部である。この地に生まれ、この地に住まう民にのみ許された交信能力を存分に用いていた巫女という地位は、この国を語るうえで書くことのできない存在である。誰しも幼い時分から、語り継がれてきた物語を聴いて育っていくため、過剰ともいえる憧れを抱くことは無理からぬことであった。
ここに今日という日を一年間も待ち焦がれてきた者たちがいる。ずばり彼らは巫女部の部員である。この者たちは二人の後輩の噂をたびたび耳にしていた。校風の影響もあって、学院生の舞の習熟度は総じて高く、所属する部員はその中でも上澄みばかりである。それでも近年は低飛行に甘んじていた。国中にその名を轟かすために、有望な人材を確保することが急務であったのである。
残念なことに、目をつけていたうちの一人は別の学院に進学してしまった。しかし、まだ一人残っている。部長はひとまずこの事実に安堵する。逸る気持ちをどうにか抑え、速足で彼女に会いに行った。廊下で一人歩く探し人を見つけ、声を掛ける。話に聞いていたよりも落ちついた態度だなとかんがえながら、部活に勧誘する。勝利は目前かにみえたが、求めていた返事はなく、固辞される。何かがおかしいと疑念を抱く。聞くところによると、彼女は巫女になることを夢見ており、その入れ込み様は少しの暇を見つけては練習に没頭するほどであったそうだ。噂とは当てにならないものだと自戒し、この分なら実力の程も然したるものではないかもしれないと警戒する。そこでひとまず様子見を決め込むことにして見学に誘う。あまり乗り気でないと見えたので、強引に腕を引き誘導する。少女は明らかに不承不承といった様子で歩き出す。歩みを止める気配はない。
これから如何にして懐柔しようかと思案に耽っていると、早くも部室に到着する。室内には見学に来ていた先客の姿があった。その一人が恐る恐るといった風に、ぜひ舞をみせていただきたいと尋ねる。部長はしめたとばかりに握りこぶしを作り、二つ返事で了承する。娘のすました顔に一泡吹かせてやろうと企み、まだ公には披露していない独自の舞を披露することに決める。
演技が終わると観客に目を向ける。手応えは十二分にあった。助け舟を出してくれた後輩は、魅入られて声も出ないらしい。さて、視線を横に移すも、その反応は想定していたものとはかけ離れていた。声を掛けた時の表情とまるで変わりがないのである。いよいよ疑念が迸る。本当に彼女は巫女というものに興味があるのかどうか確かめずにはいられない。善は急げとばかりに次はあなたの番だときっぱり言う。しかしかたくなに首を縦に振ろうとはしない。内心で謝罪の弁を述べつつ、煽り立てる。人に見せられないほど下手なのかと。待てども帰ってくるのは静寂ばかり。好機はここにありと心得て、早口で捲し立てる。これまで平然と対応していた彼女ももはや我慢の限界に達し、勢いに任せて遂にこれを受け入れる。
どんな舞を見せてくれるのかと期待していたのも束の間、感動するというよりも恐怖を覚えるよりほかに仕方がなかった。
舞台に上がるとすぐに平静を取り戻し、頭を切り替える。その瞳は遠の以前から敵を映してはいなかった。そして悪夢が繰り広げられる。少女はつい先ほど初めて見たばかりの舞を演じ始めたのである
開いた口が塞がらない。舞台から降りてくる彼女の姿を認めるも、顔を合わせることができない。こちらの思考を読み取ったのか、はたまた興味を失ったのか、とにかく少女は一言も発さずに丁寧にお辞儀をしてから退出する。いや、初めから興味などなかったかと思い至る。今断言できることはただ一つ、やはり噂話など信じるべきではないということである。己の失態を棚に上げて悪態をつく。これでは真に巫女たり得るのは彼女のほうではないかと自嘲する。
教え子二人が卒業してから早一年、吉田が町を歩いていると偶然そのうちの一人の姿が視界に入った。挨拶しようと思い立ったところ、ふと違和感を覚える。いつもの快活さはすっかり鳴りを潜め、いまにも消え入りそうなほど弱々しいではないか。あまりの豹変ぶりに呆気にとられ、何も言うことができないまま見失ってしまった。いったい娘の身に何があったというのか。心配でいてもたってもいられず、手あたり次第彼女の学友に声を掛け、事情を聞きだしてみることにした。少し探りを入れたところで腑に落ちる。この分ならもう一人の近況にも注意したほうが良いかもしれない。ここは一肌脱ぐべきかと思案する。
願いが叶い、新天地での暮らしが始まった。それでもゆっくりと羽を休めることはできない。ここにいる者は皆、厳しい試練を潜り抜けて足を踏み入れる権利を得たのであるから。前門の虎後門の狼とは斯くの如し。どれほどの事態に直面したとしてももう後戻りはできない。
慣れぬ地で孤軍奮闘する中、思いがけず吉田先生が訪ねてきた。態々こんなところまできていったい何の用であろうか。先生が口にしたことは思いもよらぬことであった。紅葉がすっかり変り果て、大人しくなっているというのである。嘘をつくために遠路はるばるこの地まで足を運ぶとは思えないが、しかし俄には信じがたい。彼女に限って突然翻意することなどないだろう。そもそも先生はそんな話をして、いったい私に何を望んでいるのか。回答はすぐに与えられた。つまるところ、彼女の様子を見に行けということらしい。何故そのようなことをしなければならないのか。私は保護者でも何でもない。この人は私の気も知らないであの子ばかり目を掛けているのだと内心で批判する。反抗心が沸き上がってくるものの、何故だか一切の抵抗もなく首が縦に振られる。そんなつもりはないのにもかかわらず。何が起きたのか理解できない。命令だから従ったのであろうか。私の反応に満足そうな表情を浮かべ、二三の言葉を掛けてから先生は立ち去って行った。金縛りにあったかのように身じろぎさえできず見送った。正直に言えばあの子を視界に入れることさえ忌避感がある。でも、どこか心の奥底で再会を楽しみにしている自分がいる。理由はわからない。その時が来れば、必然的に露になるだろうと期待して気を取り直す。
今から約半世紀前、この国は戦争に巻き込まれた。相手国はこの国を守護すると伝えられる精霊に目を付けたのである。そして今年は終戦からちょうど五十年の節目である。犠牲者の安らかな眠り、国民の健やかな暮らしを祈るための式典が開かれることが告知されていた。それにあたり、祈りを捧げる巫女選抜する審査会が開催されることも明かされた。伊勢一代の晴れ舞台、無目見る者たちはこぞって審査に応募していた。それは華恋とて例外でない。
紅葉は葛藤していた。いくら暗示をかけてもあの時、あの瞬間に味わった憧憬、高揚感これらを消し去ることは決してできない。これはあの舞台に立つ千載一遇の好機。この機を逃せば、二度と手を伸べることはできないかもしれない。しかし化け物たちの巣窟を思い出し、足がすくむ。思考は堂々巡りし、いつまでも答えは出ない。
一人俯き、物思いに耽る紅葉を発見する。いつもの彼女なら常に前を向いているというのに。今は表情を窺い知ることさえできない。どうやら先生の言っていたことは真実であるらしい。
「……紅葉」
背後からおずおずと名を呼ぶ。一呼吸を置いて、ひどく小さな背中が大げさな程にびくりと動き、少女は振り返る。
「華恋なの?本当に?」
ともすれば風に流されてしまいそうなか細い声が紡がれる。肯定の意を示しつつ、ゆっくりとした足取りで紅葉に近づき腰を下ろす。しばしの間沈黙がその場を支配する。やがて縮こまっていた少女はぽつぽつと己の過ちを告白する。
罪悪感と恥とで心が満たされる。もう私には夢を語る資格なんて無いんだと言い聞かせる。瞼はきつく結び、耳は塞いでうずくまる。そうやって現実逃避をして過ごすしかない。
華恋とともに王都で学びたいという願望が芽生え、そのためには試験に合格しなければと理解した。一番確実なのは指導を受けることだと考え、指導教室に見学へ行くことにした。いざ足を踏み入れると、そこには別世界が広がっていた。自分と同じ年ごろの人たちは遥かに卓越した技術を持ち合わせていた。音楽と完全に一体となって演技をしており、その緩急のつけ方、身振り手振り、足運びこれら総合的な表現力は一朝一夕で身に着けられるものではない。この領域に至るまでにどれほどの年月と気力を費やしたのであろうか。少なくとも自分のように今日昨日始めたのではあるまい。華恋はこんな恐ろしい世界で戦っていたのかといまさらながら理解する。
その後にどうやって家に帰ったのかは覚えていない。あの暗闇に迷い込んでしまえば、いやでも理解してしまう。井の中の蛙とはまさしく私自身だということを。これ以上あの場に留まれば、必然的に己の限界を悟ることになり、劣等感にさいなまれるであろう。そしてたちどころに夢は悪夢へとその身を俏し、今までの努力は水泡に帰するであろう。だがもし退却すれば、私は栄光に酔い痴れ、誇りを傷つけずに済む。仮令それが虚構であったとしても。己の能力は優れているのだ。この幻想と一緒に心中することにしよう。勝てない試合には参加しない。自分で自分が情けなくて仕方ない。いつからこんなにも弱くなったのか。
なかなか諦めたことを言い出せない。そうこうしているうちに受験日が近づいてくる。もう後がないと自分に鞭を打ち、そのことを伝える。でも失望されたくないとの想いから、とっさに嘘をつく。
「華恋、ごめんね。学院の受験できそうにないや。親に反対されたんだ」
華恋は怒らず、しょうがないと許してくれた。約束を反故にしたばかりか、騙すことさえし、まともに顔を合わせることができない。とうとう呪縛から逃れることができないまま、彼女の出立を見送った。
陰鬱たる想いは晴れぬまま、初登校の日を迎える。今度は時間に余裕をもって到着する。名簿を見つけ、自分の教室を確認する。無駄なことだとわかりつつも彼女の名前を探す。努力むなしく想定道理の結果に終わる。嘆息しつつ、重い足を教室のほうへ向ける。
色褪せた日常のなか廊下を歩いていると、思わず後方から呼び止められた。その人は巫女部の部長と名乗り、私に入部を求めてきた。その言葉は聞きたくない。拒絶の意思を示すが、取り敢えず見学だけでもいいからと強引に連れていかれる。本心ではまだ諦め切れていないことを自覚せざるにはいられない。
部長の舞は美しくもあり、新鮮でもあった。その優美な様はさながら、蝶が重力など存在しないかのように、風に鱗粉を乗せながら悠然と舞い、小さな生命に宿る確かな底力を実感させてくれるようなものである。気を抜くと感激した表情が露わになってしまいそうである。そうなれば間違いなく勧誘されるだろうと推測して、必死に取り繕う。何を思ったか私に対して、演技をみせてほしいと部長に言われた。感情を隠したのが裏目に出たかと歯を食いしばりつつ食い下がる。巫女は民の祈りを精霊に伝える存在であるから、心は清らかでなければならない。邪念に染まったこの状態ではその資格はない。
耐えかねたのか、ここにきて部長は私の技能が不足しているのかと疑問を呈してきた。頭が真っ白になるのもただの一時、急速に恨みが募り始めた。この人は私を見下しているのか。私の腕が未熟であるのは否定できないかもしれない。けれど、私は独りでここまで昇華させてきたのではない。彼女がいたからこそ、ここまで来ることができたんだ。貶められたのは私だけじゃない。練習に付き合ってくれた彼女もだ。あの神聖な時間が穢されたままでいるのは看過できない。障害があるからといって、こんな人に負けるほど落ちぶれてなどいない! 激情に身を任せ、相手の策に乗る。決断し終えるころには早くも心の秩序を取り戻していた。どうせなら正面から挑み圧倒しよう。この場に限り、紅葉はあの日からさいなまれてきた感情から解放されていたのだった。
終演の後、再び枷に絡め捕られる。幾度否定しようと念じても消すことのできない好意、憧れ、罪悪感。これらが複雑に混ざり合い、身動きが取れない。これ以上この場にいると、蓋してきたものが暴かれてしまうかもしれない。すぐに立
ち去ろう。平静を装うために口を開くことなく退出する。
華恋は黙って少女の話に耳を傾けていた。語られたのは思いもよらなかったこと。罵るつもりはないし、できもしない。自分を追い落とさんとばかりに猛追してきた寵児が、まさに自分と同じような畏怖を味わっていたのである。すぐ隣に座っているのは得体のしれない人物ではなく、ただの一人の少女なのである。今頃になってようやく当然の事実に気づく。私たちは似た者同士だったのか。この子ならば、私が抱えてきたこの重しを一緒に背負ってくれるかもしれない。一方的に頼るばかりではない。この子がまさに今、薄氷の上で独り囚われているというのであれば、今度は私が果てしない大空を翔けて手を差し伸べよう。勇気づけられた華恋は独白する。
葉月華恋は巫女にならなければならない。そうなるように義務付けられ、躾けられてきた。
かつて彼女の祖父は巫女を目指していた。それは叶えることのできない夢ではなかった。彼は自他ともに認めるほど資質があったのである。目的地まであと一歩というところで事態は急変した。戦争に巻き込まれたのである。彼は動員を免れることはできず、戦地に送られた。最終的に帰還することはできた者の、戦争で片足を失い、志半ばで挫折を迫られた。彼は自分の代わりとばかりに孫が巫女になることを望んでいるのである。
幼いころから技術、作法を叩き込まれてきた。そこに私の意思が介在する余地などない。ただ葉月に名を連ねる者として役割を果たすだけである。
高階紅葉、彼女は危険だと直感が告げる。その警告の内容が真実であるということはすぐに判明した。
吉田先生に頼まれ、彼女の練習に付き合うことになった。紅葉は私とは異なり、日夜特別に誰かの指導を受けている訳ではない。そのためものにしている舞の種類はそれほど多くはなく、また誤って覚えている部分も散見される。しかしそれらを考慮しても評価せざるを得ない所以があった。それは成長力である。一度見ると、概ねの動きを覚え、音楽に合わせて舞うことができるのである。これまで見よう見まねで練習し、着実にその才覚を発揮してきたのであった。こちらの気も知らないで無邪気に舞う紅葉は悪魔のようであり、それでも美しかった。
面倒を見てからというもの、紅葉は華恋と一緒に練習することをせがんでいた。そして、いつしか彼女は私と同じ学院に通うことを目指すようになった。人に教える以上、自分の持てる最大限の技を嘘偽りなく伝授しなければならないという責任感を覚えつつ、互いに切磋琢磨する。措置前の潜在的能力を活かし、紅葉は徐々に追い抜かんと迫ってくる。もうやめて、そう心が悲鳴を上げる。
物心ついた時から将来を定められ、心を押し殺して修練してきた。その過程で、自分よりもずっと巫女に相応しい人物を何人も目にしてきた。そのたびに逃げてきた。自分が壊れてしまわないようにするために。やっと居場所を見つけたと思ったのに、また逃避しなければならないの。何か策はないのか。ふと次のような考えが頭をよぎる。紅葉が私を見て学ぶというのなら、わざと誤ったた方法を教えればいいのではないか。すぐ我に返る。こんな浅ましい考えを思いつく自分が嫌で嫌で仕方がない。正気でいるためには彼女とは別れなければ。
だから紅葉が同じ学院に行けないと言ったとき、密かに安堵していた。嘘をついていることはわかっていたけど、あえて口にしなかった。心底軽蔑する。目の前の少女ではなく、ほかならぬ自分自身を。こんなにも醜い感情を抱くのは初めてだ。
何ともないというような顔をしていた華恋が、人知れずそのような苦汁を嘗めていたとは。紅葉は後悔する。あの時期は日進月歩に成長していくことが実感でき、自分が楽しむことしか考えていなかった。そんな態度が慕ってやまない少女を傷つけ、苦しめていた。それにもかかわらず、不満、弱音を漏らすことなく親身になって支えてくれていたのである。
「でも。もういいの。謝罪は要らないわ。紅葉が悪いわけではないもの」
紅葉の次の行動を予期していたかのように、華恋は先手を打つ。
「私たちは二人同じ地獄を体験したのだもの。知ってしまえば、こんなにも簡単なことだったんだ。言われずとも、あなたの考えがまるで自分のものであるかのようにわかるわ」
「それは私も同じ。もっと早くこうして話せばよかったのにね」
二人は微笑みを浮かべながら頷き合う。そこにはもう初めの蟠りなど影も形もない。両者の間にもはや気兼ねなど不要である。
「ねえ、せっかくだから久しぶりに二人で舞をやりましょう」
いつもは紅葉が誘っていたが、今度は華恋自らがそれを望んでいるのである。悩むまでもない。答えはとっくに決まっている。紅葉も同じことを期待していたのである。
「もちろんだよ」
二人横に並ぶ。開いた扇を右手に持ち、両腕もまっすぐ上に上げた状態にする。ここから舞が始まる。円を描くようにして両腕を大きくゆっくりと回し、腕が一番下まで来たところで肩の高さまで持ち上げ、左手で扇の弧に指をなぞらえるようにして優しく支える。そのまま一度軽く体を落としてからまたすぐ戻す。そして左手の親指を体と平行になるようにして扇に当て、それを支えに右手を体に近づけるようにして扇をたたむ。
右腕を伸ばしたまま反時計回りに一周回し、それに合わせた速度で右足を後ろに引き片膝立ちの恰好にする。その姿勢を維持したまま、今度は同じようにして左腕を回す。両手で扇が地面と平行になるように持ちながら、右足を戻しつつ立ち上がる。
極わずかな間を置いた後、右手を放して両腕を真上に上げ再び円を描くようにして回す。このとき全身も動きに従わせ、手が正面に来るところでわずかに体を沈める。終端から腕を肩の高さまで上げつつ、姿勢も徐々に直す。その場で少ししゃがんでから居直り、右手を固定したまま左手を滑らせるようにして扇を開く。
今度は左手を腰に添えて、右腕のみ掲げる。その恰好を保持しながら右腕を大きく一周回しつつ、反対側に向くようにするために、反時計回りに腕の動きと同等の勢いで回転する。また同じようにして腕と体を動かし、元の向きに戻る。ただし今回は、腕は肩の高さまで上げるにとどめる。そして右手を下ろし、おなかのすぐ前に持ってくる。
最初からここまでは二人まったく同じ動作をする。最後は元の方向と逆のほうを向くように互いに外回りで回転し、ゆっくりと森厳な足取りで退場する。
この場は二人だけの世界。何度も共に練習を積み重ねてきたので、あえて意識せずとも自然と所作が共鳴する。あの頃との差異はただ一つ、邂逅してからわずかな時間のうちに対等な立場で研鑽し合う仲になったという点である。
「華恋、私ね、やっぱり夢を諦めることはできないみたい」
「次は正面から競い合いましょう」
紅葉の後悔を受け止め、そのうえでまた二人だけの舞をしようと提案する。念頭にあるのは審査会。成長した姿を見せること誓い合い、別々の場所でしかし共通の苦難にあらがうのである。けれど、もはや一人きりではない。離れていても心は通い合い、互いを目標として深くその存在を胸の内に刻んでいるのである。互いに寄り添い身を賭して守り合う二輪の白花は、どのような暴風雨にも決して散らされることはない。