人生には何の役にも立たない知識・思考をつらつらと書くエッセイ集
冬はつとめて、今は深夜もいとをかし
私は冬が好きだ。
元来が暑がりのせいで、夏よりも冬の方が好きなのだ。
だんだんと冬の寒さが身に染みるようになり、若い頃は必要だなんて思わなかったマフラーや手袋で体を守る年齢になった。だが、冬の空気によって頭が冷やされ、思考が速く明瞭になる感覚が好きで、やはり冬が良いと思ってしまう。
「冬はつとめて」と語ったのは、世界最古のエッセイスト、清少納言。
冬は早朝、雪積もる景色に趣があると書いている。
実は「つとめて」という言葉の意味を、私は長い間「勤めに出る頃」だと勘違いしていた。勤めに出る頃なのだから、昔の基準で言うと日が上がってすぐだろう。だから早朝の事なのだろうな、などと勝手に考えて覚えてしまっていたのだが、良く調べてみるともちろんそうではない。
「つとめて」は「夙に」と同じ漢字を書く。「夙」とは早くという意味で、それを受けて早い時間という意味を表しているそうである。
知った時にはこれは新たな教養を得たと思って、友人に偉そうに語ってみたところ「もちろん知ってるよ」と言われてしまった。思い出してみればその友人の進学先は国文学科で、もちろん古典は得意の物だったはず。なんとも迂闊なことであった。これを読む読者の方にも無知を晒してしまったが、これをネタに笑っていただければ一興というものだろう。
たしかに冬の早朝は趣がある。ひんやりとした空気が流れる中、音の少ない静かな住宅街を歩けば時間の感覚がゆっくりになったように感じられる。
だが、現代の都会ではその趣が相当薄れてしまった。駅前には早朝から人がたくさん歩いており、スーツを着た人たちが足早に革靴やヒールをコツコツ鳴らす音が響く。忙しそうに車道を走る業務用車両は、早朝から街を騒がしていて、とても趣があるとは言えない。
都会で雪が少々積もろうものなら、朝には行き交う人の靴や走る車があっという間に雪を押しつぶす。踏み荒らされ泥が混じって汚い灰色になった雪を見ていると、清少納言に風情があると褒められた、同じ冬の早朝とはとても言えず、残念な気持ちになるものだ。
むしろ現代の冬では、私は真夜中の街に趣を感じる事が多い。
私は深夜に帰宅する家族を駅に迎えに行く事が多い。車で迎えに行くのだが、早めについて待っている間、私はたまに車のエンジンを止めて、外で冬の冷気を感じながら待つことがある。暖房で温まりすぎた頭を冷やし、外の冷たい空気を吸うと、肺に酸素がたくさん入ってきて頭がすっきりするからだ。
深夜になると、あれだけ騒がしかった街も人がまばらになって静かになる。朝は電車がひっきりなしに到着して踏切の音が絶えない駅も、深夜には踏切が下りる事も少なくなり、どこかうら寂しい。
夏の頃なら店先にたむろする若い人が楽しそうに笑い声をあげる、24時間明かりが絶えないコンビニも、冬の深夜の店には人けが少なく、むしろその明かりがもの悲しさを誘う。
暗い街灯しかない街角では、吐く息も殆ど白く見えることなく、すぐ闇に溶け込んでいく。
人けも無く、静寂を保つ深夜の街に立っていると、寒さで冷やされた頭によって速く明瞭になる思考時間と相対し、まるでその場の時が止まってしまったかのように思う。とても情緒を感じる瞬間だ。
しんと静まり返る駅に、電車が静かに滑り込んでくる。しばらくして家族が駅の階段を下りてくるのが見えれば、手を挙げて合図を送って、車に乗り込みエンジンのスイッチを入れる。それにより、趣のある静寂の時間は終了する。
冬の深夜は、いとをかし。