10 こめかみのキス
さっさと馬車から降りてしまおう。
そう思ってドアから出ようとした瞬間――
背後から、クリスに抱きしめられた。
「なっ……?! くっクリス危ないじゃないの」
「……うとい」
「と……?」
「いや、何でもない。降りるだろう? エスコートさせてくれ」
聞き取れなくて尋ね返したけれど、するりと離れていった彼は、優しく微笑んでわたくしをエスコートするために馬車を降りてしまう。
不思議に思ったものの、差し出された手に自身の手を重ねて、わたくしも馬車を降りた。
帰宅したわたくし達を、レイラードは恭しく一礼した後客間へと案内する。
通された客間のソファにそれぞれ座ると、レイラードはお茶を用意するのだろう、すっと退室していった。
「急にすまなかった。実は父上にも用事があって約束は取り付けてあったんだ。けど、最近俺は客人の相手で忙しいし……まとまって話もできなかったから、ちょっと、メルティとも話したくなってしまって。迷惑じゃなかったか?」
「迷惑だったら、そもそも一緒に馬車で帰って来たりしないわ。けれどお父様への用事って、何かありましたの?」
「何かってほどじゃないんだ、ちょっと報告があってな。……メルティは最近、学院で何か、困ったことはなかったか?」
「困ったこと? それなら、グルマト殿下とはわたくし以外の話題で喧嘩していただきたい、くらいかしら? 正直なところ、王族に連なるものとして動揺が透けすぎるのは、ちょっと……」
「……う、すまない。揶揄われているだけ、というのはわかってるんだ。けどメルティのこととなると……ごめん」
直球で言いすぎてしまったのか、今日は向かいに座ったクリスは顔を両手で覆って項垂れた。
そのタイミングで、レイラードがそっとお茶を給仕しに戻ってくる。
そして何食わぬ顔のまま、用意が終わると下がっていった。
「あ! でっ、でもでもあれです、様式美っていうのかしら、挨拶の定型文と思えばたまになら大丈夫ですわ!」
自分でもよくわからないフォローを入れていると、彼の方から少しくぐもった笑い声がかすかにしてきた。
「……からかいましたわね?」
わたくしは頬を少し膨らませ、不機嫌に尋ねる。
堪え切れなかったのか、両手を顔から外すと謝ってきた。
その顔は緩みっぱなしだ。
「ごめん、なんというか、ちょっと気安く話してくれだしたメルティが……可愛いし嬉しくてつい」
「もう! 知りませんからね!」
言いながらも、少しずつ色々な話をしたり、一緒の時間を過ごす中で隣にいるのがもっと自然になればいいなぁと、自身でも思っていたから。
その言葉が嬉しくて、けど今自分がどんな表情をしているかが気になって……どうかみっともなくありませんように、と祈った。
ひとしきりやいやい言い合った後、クリスが改まった表情をしながら口を開いた。
「ところで、最近学院での生活はどうだ? 新しい友達とかは」
「? え、ええ。クラスではクリスもいるから知っているとして。それ以外でもつつがなく過ごしてるわ。お友達はゆっくり増やしてゆけばいいと思っているけれど。どうかしたの」
「それならいいんだ。いや、俺の心配しすぎだとは思ってるんだが。婚約を正式に発表したから、何かがあってからじゃ遅いと思って。何か普段と違うことが起こったら、俺に知らせてほしい」
「わかりましたわ」
唐突な話題に不思議に思いながら彼を見つめると、なんだか少し眉間に皺が寄っているような気がした。
その後も、夏季休暇中の政務の手伝いの当たり障りない出来事とか、わたくしの方もどうやって過ごしていたかなどをお喋りして。
ひとしきり語らった後、「じゃあそろそろ時間のようだから」とクリスは言い。
向かいのわたくしの所までやってきてこめかみにキスを一つ落としてから、客間を退室していった。
そしてお父様と、どうやら結構長い時間話していたようで。
わたくしは、少し変な気もしていたけれどそれよりも何よりも。
こめかみへのキスに動揺したまま夕食をして就寝し、夢の中でもあらぬ内容が襲いかかってしまって。
なんとも言えない翌日を迎えたのだった。