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その時、高速で何かが移動する音が聞こえた。周囲の箱を揺らし、こちらへ迫ってくる音。2本足で走っているとは思えない音だった。
「まずい……」
サファミアが小さく呟いた。腕の装飾品をかちゃりと鳴らす。
「何か、近づいてくるね」
「バカ! 呑気なこと言ってないで隠れろ!」
クリステリアが音がする方向を探して辺りを見回すと、やけに小声で、サファミアが言う。そしてすぐに襟を掴まれ、ひと際大きな箱の陰へ乱暴に引きずり込まれた。
「痛いって、なにするの」
「あんた、痛覚もあるのか! いや、今そんなことはいい。ここは静かにしてやり過ごすぞ」
「一体、何が」
「シッ!」
サファミアがクリステリアの口を塞ぐ。クリステリアは一瞬抵抗したものの、すぐに動きを止める。
先ほどまでクリステリアがいた場所に勢いよく大きなものが滑り込んできたのだ。
それは、久しぶりに見た『生物』だった。長い一対の触覚、黒光りする大きな目、そしてカサカサと音を立てて動く六本の脚。クリステリアよりも一回りも二回りも大きな『ムシ』だった。
さっきから聞こえていたカサカサという音は、人形ではなかった。『ムシ』がついてきていたんだ。
クリステリアは全身の血の気が引いていくのを感じた。
「チッ。騒ぎすぎたな……あいつ、人形を食うんだ」
『ムシ』は何かを探すようにあたりを見回したが、すぐにうずたかく積み上げられた布切れの山に顔を突っ込み、バリバリと咀嚼音を立てていた。壊れた人形を食べている音だ。
眠りについた死者を冒涜するような行為。クリステリアはなんだか怒りを覚えた。
それはサファミアも同じだったようだ。『ムシ』を睨みつけながら足を小刻みにゆすっている。
「こんなの酷いよ! どうにかできないの」
「できるならとっくにぶっ殺してるさ。あたしたちじゃ、とてもじゃないけどアレには勝てない。食い殺されるのがオチさ」
クリステリアとサファミアはひそひそと話を続ける。先ほどまでさざめいていた人形の声はすっかり聞こえなくなり、ただ『ムシ』の咀嚼音だけが下品に響いていた。
「いや……でも、あんたの瞳なら、もしかしたらどうにかなるかもしれないね」
「どういうこと?」
「自分で気づいてないの? あんたのその瞳には力がある。その瞳にのぞき込まれたら、なんだか力が抜けるんだ」
「知らない……何も分からない。昨日とは目まぐるしく世界が変わってるんだ……」
「ハン! 思考を停止するな! 何か成したいのなら考えて動き続けろ!」
急にサファミアは大声を出した。クリステリアが口をふさいだがもう遅い。『ムシ』の頭がぐりんとこちらを向いた。
「サファミア!」
クリステリアが悲鳴のような小声を上げる。
「うるせえ! あんたがぐだぐだぬかすからだ!」
サファミアも小声で返す。
『ムシ』がこちらに気づいた。クリステリアの瞳には何か特別な力があるのかもしれない。
何も確かなことはない。でも、勝てなければ負ける。
サファミアの言う通りなのだ。ただ、考えて動き続けるしかないのだ。
クリステリアは意志を固めた。
「サファミア、行くよ! あれを止める!」
「バカ!」
勢いよく『ムシ』の前に飛び出していくクリステリアの後をサファミアが追う。
食べかすを口の周りに散らした大きな『ムシ』。無感情な眼がクリステリアを捉える。
「やめて! 食べるな!」
背筋が凍るようなその視線を一身に受け止めながら、クリステリアは『ムシ』に立ちはだかる。
多角的に光るグロテスクな眼を、クリステリアはじっと見つめた。
『ムシ』は首を傾げるも、一拍置いて、クリステリアに嚙り付こうと大きく口を開けた。
自身の頭が一飲みされると分かった瞬間、足元から恐怖がせり上がり、クリステリアはその場から動けなくなった。
ただ、サファミアの言葉を簡単に信じて威勢よく飛び出していった自分を、頭の中で責め立てることしかできなかった。
突然、鈍い金属音とともに、『ムシ』の頭が横に吹き飛んだ。
「バカ! 死にたいのか、バカ!」
サファミアが叫ぶ。箱の陰から勢いよく飛び出し、そのまま『ムシ』の頭を殴ったのだ。サファミアの腕の装飾品がひしゃげて床に散らばっている。
「なんで急に飛び出した! 考えろ、バカ!」
立ちすくむクリステリアをサファミアは思い切り睨みつける。
「バカバカうるさい! サファミアがどうにかなるかもって言ったじゃん!」
「言っただけだ! まずは考えな、バカ!」
「あれを止めたい! これ以上隠れて見てるなんて耐えられない! サファミアのその腕ならどうにかなるでしょ!」
「なるわけないだろ! あたしの腕をよく見な! あと一発入れるのが限界だ!」
「じゃあ、一発で仕留めて!」
クリステリアは混乱が渦巻く紅い瞳でサファミアの蒼い瞳を鋭くにらみ返す。
その瞳を見たサファミアははっと息を呑み、そして答えた。
「――これが限界だ!」
「えっ!?」
サファミアがクリステリアを左腕でぐいと抱え込み、体制を立て直したばかりの『ムシ』に向かって、今までとは比べ物にならないほどの速さで向かっていく。
サファミアを捕まえようとする『ムシ』の懐へ潜り込む直前で大きく跳躍。右腕を振り上げ、『ムシ』の脳天に重く深い一撃を叩き込んだ。『ムシ』が痛みで背面へ大きく頭を反る。サファミアは動きに合わせて『ムシ』の頭の上で再び高く跳躍。その先には、ひび割れて光が差し込む天井があった。
「突っ込むぞ!」
サファミアが怒鳴る。
クリステリアはサファミアの腕に抱えられながら、光の中へ飛び込んでいった。