マーブルの月
こんなはずじゃなかった。
これは夢に決まってる。
そんなことばかり何日も叫び続けてた。
本当は、何日もかどうかはわからない。一晩だけだったのかもしれない。時間にしたらどれくらいになるのか、その星は一日が二十四時間じゃなかったから目安になるものが何も無い。その時の私に夜が来たのかどうか認識する冷静さはどちらにしろなかったとは思うけど。
吹く風は熱く重く、木漏れ日は閃光のように鋭く肌を刺して、分厚くて傘にでもなりそうな葉の影に入れば背後を何かがうなり声とともに走り抜けていく。
「待って、ハル、待って」
背は高いけど細くしなやかな背中が木々の向こうに見え隠れする。激しい息遣いと鼓動が自分のものではないかのように耳の中でこだましていて。
地面を無尽に走るつるや枯れ枝に足をとられてなかなか先に進めない。ハルは屋敷の庭を歩くみたいにすいすいと行ってしまう。
なんでこんなに私とハルは違うんだろう。
突然視界が塞がれたのに驚いて悲鳴をあげてしゃがみこんでしまった。それは鮮やかな黄色と青の尾羽をひらめかせた鳥で、張り巡らされた枝葉を縫って飛んでいく。思わず見とれているとハルがいつの間にか戻ってきてくれていた。
「そろそろ戻ろうか」
いつもハルが森に入っている時間はもっと長い。私に合わせてくれてるんだと思う。ハルの息遣いはまるで乱れていない。
「今ね、すごくきれいな鳥が飛んで行ったのよ」
指差した方向にはもう何もいなかった。そう、とその重なり合う葉しかない暗がりを見上げるハルの表情は逆光で読み取れない。
個人所有の星すら手に入るこの時勢では、ちょっとした星間旅行も自家用の宇宙船で可能になる。そう、私くらいの資産家の娘ともなれば、友人の失恋にかこつけて別荘のある「星」へ私専用の宇宙船で旅行することだってできるのだ。大昔の富豪がクルーザーで無人島へ遊びに行ったように。古典の授業で習ったことだから、クルーザーってものがどんなものかは知らないけれど。
私達四人は、私の「親友」であるハルが最近つきあってた男性と別れたことを肴にして楽しもうといつものように母星を旅立っただけだった。自動操縦で簡単につくはずだった。何も難しいことじゃない。何度も何度も繰り返してきたこと。
なのに、何故。
私は機械のことは全くわからない。一体何が起きたのかわからない。覚えているのは激しい振動と目がおかしくなるほどの光と、鼓膜がやぶけそうな悲鳴。私達の中で唯一理系であるハルがコントロールパネルをいじりまわしていた。整備不良だとか叫びながら。そんなバカなことがあるわけがないのに。私がいつ遊びに出てもいいように、我が家専属のエンジニアがいつでも整備していたのに。
たどりついたのは無人の星。空気も私達が生きていくのに丁度いい星。ハルはそういった。でもそれにしてはかなり湿度は高い。昼は真っ白に照りつける太陽が空気をゆらゆらと揺らし、夜は青と濃い灰色でマーブルに飾られた月がずっしりとのしかかってきていた。
原始の地球を思わせるその星は「開発調整星域」に入っていて、植民地化を先延ばしにされているのだとも、ハルが言っていた。航行不能寸前の宇宙船は、どこかに不時着させるしかなく、手近な場所にこの星があったのはラッキーだったと。どこがラッキーだというのか。
私達は女性ばかりの四人。
見渡す限りの海と岩場と密林しかないこの星で。
狂人の甲高い笑い声みたいな鳴き声が遠くからいくつも聞こえるこの星で。
非常食だって一ヶ月持つかどうか。だって私達は体感時間にしてほんの十時間ほどの旅行をするだけのはずだったんだから。一日二十四時間の計算で一ヶ月。この星は一日が三十七時間だった。水だけは日に一度バケツをひっくり返したような雨が降ったから心配いらないにしても。
ハルは通信設備は無事だったと、SOSは常時出してるから、すぐに救援が来るはずだと、そういった。「開発調整星域」なんだから、全くの未知なる星なわけではないのだからと。それに出発の時には航空局に義務付けられている予定航路の提出だってしてある。私達が行方不明になってる時点で捜索がはじまっているはずだ。そして、予定航路から、この星はさほど離れているわけではない。
だから、私達は安全な宇宙船の中ですごした。ハルだけは時々外に出て何かを調べているようだった。
あの子はほら、育ちが私達と違うから。と、ミチが言った。
私達はそれなりに裕福な家で育ってきたけれど、ハルは奨学金で大学に入ってきた。
そんなこと言っちゃ悪いよ。ハルがいなきゃどうなってたかわかんないんだからと、私はミチに言ったけど、いつも影で交わされていたその言葉に少し笑ったのも本当。
確かにハルは私達とは違う。
ハルの母親は私の母の使用人で幼い頃からよく一緒に遊んでいた。ハルの父親が誰かは私は知らない。物心ついたときにはすでにいなく、そして、母親も私達が十歳になる前に病気で亡くなった。ハルは私の家で手伝いをしながら暮らしてきた。
母親が亡くなった時のハルのことを、涙も見せないしっかりした子だと大人たちはひそひそと話していた。ほんのちょっぴりの棘を含んだ口調で。
きゅっと口元を引き締めて、まっすぐ前を向いているハル。
泣いていないわけがないと思った。もし、私だったら、そんな風に立ってなんていられない。私はママがいなくなってしまうことを想像するだけで涙が出てきてしまう。かける言葉もなかなか出てこなくて、だから、つい、「ハル、私がハルのお母さんになってあげるから」と、泣きじゃくりながら伝えた。その日ハルが口元をほころばせたのはその時一度だけだった。今思い出すと顔が熱くなる。私がハルの母親だなんて。
無口でおとなしいハル。背が高くて手足が長くて、頭だってよくて、そこらへんの男の子よりずっと格好よかった。他の使用人みたいに媚びるわけでもなく、年に何回かしか顔をあわせない親戚みたいに馴れ馴れしくもなく、ただ、そこに静かに立っているような子だった。私は好んで友人同士の集まりにハルを連れ出した。友達なのよ。そう言って。
三週間がすぎても、SOSへの応答を通信機器が伝えることは無かった。食料は底を尽きかけている。まず、ユウリがおかしくなった。わけのわからないことを叫びながら食料をかき集めて部屋に閉じこもってしまった。閉ざされた扉の前で私とミチがおろおろしていると、ハルが魚を持ってきた。観賞用以外の生きてる魚なんて見たのはその時が初めて。
「海でツッテきたの」
きょとんとしてる私達にハルはにっこりと微笑んで。
それから魚をツルための仕掛けを見に行った。棒の先に糸を下げてるだけで魚を捕まえられるなんて、魚ってなんて間抜けなのかしらとつぶやいたら、ハルは何がおかしいのかくすくすとまた笑った。
ぬらぬらと光る緑色のうろこに目蓋のない目。ぴんと張ったヒレは手が切れそうで、ぱくぱくと声もなく閉じたり開いたりするような口は醜くて。成分分析を終えたハルが「毒、無いみたいだから食べられるよ」といったとき、卒倒しそうだった。
「あなた達に料理しろなんて言わないわよ。私がするから。私が食べて三時間たっても私が生きてたら、あなた達も食べるといいわ」
片眉を上げて、口の端で笑うハルの表情は今まで見たこともない顔。
簡単な調理設備のあるキッチンでハルが魚を「調理」するのをドアに半分隠れながらミチと見た。
ナイフを魚のエラに差し込んだとたん、あふれ出た鮮血。
胴を押さえつけられた魚はそれから逃れようとするようにバタバタとすごい勢いで尾をテーブルに打ちつけた。つられるようにミチが悲鳴をあげて、私はその場にへたりこんだ。
ハルの白い頬についた一粒の血しぶきから目が離せなくて、その暗い赤は今でも鮮やかに目の前に蘇る。
グリルで焼いた魚の身をハルが食べてから三時間。
「大丈夫みたいね。今温めなおすから」
そういってハルはキッチンに戻って、すぐに脂がはじけるような匂いとともに現れて私達の前に皿を置いた。ユウリが食料をもって閉じこもってから丸一日。ミチはおずおずと匂いをかいでから口に入れた。それからあっという間にぺろりと平らげたらしい。私はといえば、口元にまでもっていって匂いを嗅いだとたん、トイレに駆け込んだ。出るのは胃液だけだったけれど、えずいている間中、あのまぶたのないぎょろりとした目玉に見下ろされている気がした。
ベッドに戻って眠り込み、目がさめたときには酷くおなかがすいていて。ふらふらとみんながいるはずの部屋に行くと、ハルはバターとスパイシーな香りのする皿を出してくれた。
「貯蔵庫にあったハーブをつかってみたから。ニオイ、大丈夫だと思うよ」
金色のソースのかかったそれは、ふんわりとした噛み心地で、とても美味しかった。私の涙分、少しだけしょっぱかったけど。ごめんね、と呟いたのをハルが聞き取れてたかどうかわからない。
私とミチはそれから雛鳥のようにハルが食料を持ってくるのを待っていた。
「魚ばっかり……」
ミチは三日目には呟いていた。酷いこと言うと思ったけど、四日目には私もちょっと魚の匂いにうんざりした。
「なんかね、木の実とかは毒性が強いものしかまだ見つけられないの」
時折ハルは森の中にまで入るようになっていた。
武器は持っていってはいたけど、船外に出れば照りつける強すぎる日差し、むせ返る湿気。
後に私も何度か入ったけど十分といられなかった。だって、私は湿度も温度も完全に調整された環境でしか暮らしたことがないのだもの。ハルは私と同じ屋敷で暮らしていたのだから、ハルだって同じはずだけれど、やっぱりハルは「違う」のだ。ミチは何度もそう呟いたし、私も頷いた。
「森の中に入っちゃえば、日差しはあまり届かないから大丈夫なのよ」
生い茂る大きな葉、樹と樹の間を縫うように渡るツタ、私の両手でかかえる位の幹をもつ樹。風の強さとは全く別の強さの葉擦れの音が、あちらこちらで走る。
手前から樹は三本くらいまでしか数えられないような暗がりの中。
あんな中に入っていってたなんて。
ハルの白い肌は最初こそ痛そうに赤くなっていたけど、そのうち段々浅黒く落ち着いてきた。汗だくで戻ってきては、その日採ってきたものを成分分析にかけ、なにやらデータを作っているようだった。
「ねぇ、どうして助けがこないのかしら」
ハルがいつものように外に出ている間、ミチが言った。
「おかしくない? ハルって凄く落ち着いてるよね」
なんだか、ミチの目の焦点が私と合わないような気がした。いつもの「ハルは違うよね」って口調とは違う。
「私達はハルがいないと生きていけないけど、ハルは私達がいなくても生きていけそう」
やめてよと私の言った言葉にも反応しないまま。
「私達の中で、こんな場所で必ず生き残れるのって、ハルだけだよね」
「でも、ハルは私達のために今だって食べ物を探しにいってくれてるじゃない」
「ねぇ、私知ってるんだ。あなたのパパって結構、敵をつくるお仕事の仕方してるって。そうよね。あなたのところは私やユウリよりずっとお金持ちだもの」
一体ミチは何がいいたいんだろう。
「だからいつも屋敷の警備は万全よね。最新型の宇宙船での旅行は屋敷と同じくらい安全だから、私達だけで遊びにでることができるけど」
そう、本来は安全なはずだった。だからなんだっていうの。
ユウリが部屋に閉じこもってから二週間目。何度呼んでも返事は無い。食料だって尽きてるはずなのに。
なんとかしてとハルに頼むと、面倒くさそうになにやら工具を持ってきた。
オートドアだから、船全体に動力を行き渡らせばなんなく開けることはできたのだけど、今は私達が生活をするだけの動力でぎりぎりに抑えていた。エネルギーは節約しなきゃいけないでしょう?と言ったハルは、火花を散らしながらすぐにドアを開放させた。
もっと早くそうしてくれてもよかったのに。
そうしたらあんなことになってなかったのに。
ドアを開けたとたんどこか甘ったるい吐き気を呼ぶ匂いが流れ出した。部屋中に散乱した非常食はどれもこれも封が切られ、ドロドロに変色して床中に撒き散らされたまま。
ユウリは、バスタブ一杯に張られた水の中に目を見開いたまま浮かんでいた。
口の両端はキレイに持ち上がってて、口元だけ見たら、いつものユウリの笑顔だった。
ぶよぶよとふくらんだ肌や輪郭はとてもユウリとは思えなかったけれど。
そこから先はぼんやりとしか覚えていない。
どうしてなの。私が何をしたっていうの。なんでこんなことになるの。夢に決まってる。
そう叫び続けた。
ミチも叫んでた。ユウリを見て先に悲鳴をあげたのはミチだった。
なんでもっと早くドアをあけなかったの。できたでしょう。ハルならできたでしょう。
なんでそんなに落ち着いてるの。最初からわかってたの。
最初からわかってたの?!
運動神経なんて私と変わらなかったはずのミチが、パッと動いたと思ったらハルの手からドアを開けるときにつかった工具を奪っていた。うすぼんやりとした記憶では、スローモーションに思えるけど、確かにそれは素早かった。授業のバスケットボールではハルの手からボールを奪うことなんて一度もできたことなかったのに。
ミチは火花の散る工具の先をハルに突きつける。
近寄らないで。変だと思ってたんだから。
なんでそんなに色々くわしいのよ。
最初からこの星に来る予定だったんじゃないの?
ほんとは船、壊れてなんかないんじゃないの?
私に動かさせてみなさいよ。ほら、早くコックピットに向かうの!
自分のもつれた足にひっかかって倒れこみそうになったミチをハルは支えようとした。そう見えた。
でもミチはハルを振りほどこうとして、腕をばたつかせて。
そのまま倒れこむ二人。
ぐぅっと、息を詰めたようなうめき声が上がったのと同時だった。
ユウリとミチの遺体はハルが食料保存のための倉庫に運んだらしい。どうせ食料なんて残ってないし、船の中で一番涼しいのはあそこだから。そういってハルはシャワーを使いに部屋に戻った。
私はひたすらに叫び続けていた。
何度かノックする音は聞こえた。私は部屋のドアを開けなかった。このままでいたら、あの工具で、またハルがドアを開けるだろうか。それともずっとこのままだろうか。ハルはユウリの部屋のドアは私達がせかすまで開けようとはしなかった。
うつらうつらと眠りに落ちたり、自分の体の痙攣で目が醒めたりを何度も繰り返した。深い眠りに落ちようとすると、ナイフをつきたてられたあの魚が見下ろしてきた。その魚はミチの顔をしていて。
「ほら、これなら食べられるでしょう?」と、ハルが皿を差し出す。金色のソースがかかったミチ。青と灰色の光をゆらめかせる月を背にしたハルの顔はよく見えない。
私はずっとハルを「友達なの」と誰にでも紹介してきた。
皆おなじように資産家の子供として生まれ育った人間の中で、ハルは静かに微笑んでひっそりとそこにいた。ハルにアプローチをかける男性も何人かいたのを覚えてる。ハルはそのうちの一人と最近別れたのだ。ハルは口数こそ少ないけれど、言うべきときはきっぱりと自分の意見を主張する人で、その主張の仕方もストレートすぎるきらいがあった。そういえば、この旅行はハルの別れ話の顛末を聞く予定だったのだ。
部屋の窓から月の光が差し込んできている。どのくらいこうしていたんだろう。最初は不気味にしか見えなかったこの月の光がとても柔らかく感じて、しばらく見上げていると大きな月の斜め下に、もうひとつ小さな月があるのがわかった。
私はドアを開け、ハルがいるはずの部屋に向かう。ハルは疲れたような、ほっとしたような顔をして笑った。それから、どうして彼と別れたの? との私の問いにきょとんと目を丸くして。
「私が想像以上に言うことを聞かないから痺れをきらしたみたいよ?」
そういって笑った。いつでも場の雰囲気を壊さぬように当り障りの無い言葉を使う私達からみると、憧れさえ抱く笑顔。
いつだって背筋をしゃんと伸ばしてたハル。ハルは今まで私に嘘なんかついたことなかった。私以外の誰に対してもそうだった。
ある朝、海がなくなっていた。
正確に言えば、はるか彼方に波打ち際がかすかに見えた。
みるみるうちにハルが顔色を変えた。この照りつける日差しの中、あんなところまでたどりつくことなんて出来ない。
「潮の満ち干きってやつだと思う……。資料にはここまで干くなんて書いてなかったけど、ここは違う星だものね」
ハルは今まで何を使って食料を得る知識を得ていたのか教えてくれた。暇つぶしのための書庫には古典の小説などもあって、そこから得ていたらしい。
「私達の何代も前の人間だって、こういう環境で暮らしていたはずだもの」
「一体どれだけ調べたの」
書庫といっても、紙の本がおいてあるわけじゃない。膨大な量のデータが収められているはずだ。突然ハルが吹きだした。
「いやだ。ここにきてから手当たり次第探したわけじゃないわよ。あなたいつも私に色々貸してくれたじゃない。古典の小説とか。私結構好きなのよ。そういうの読むの。知らなかった?」
全然知らなかった。貸したといっても、苦手な古典の研究レポートをハルに手伝わせた時とかのことくらいしか覚えてない。ハルはくすくすとひとしきり笑った後、よし、と気をひきしめるような声を出して背筋を伸ばした。
「森で食料を調達することにしよう。動物がいるのを何度か見たから、罠をかければ捕まえられるかもしれない。大丈夫だって」
それから罠が成功するまでに二日かかった。
捕まえたのは灰色と黒のまだらの毛皮をした一抱えほどの動物だった。短い手足に丸々とした身体。ずんぐりとした風体の割には、やけに大きな牙を持っている。ハルが持ち帰ったときにはもう死んでいた。多分、罠から出す前にとどめをさしたのだと思う。ハルが生きたまま魚を持ち帰ることは最初の時以来なかったから。
肉はひどく固かったから、ひき肉にしてハンバーグで食べた。肉をこねるのをちょっとだけ手伝わせてもらった。ぬちゃぬちゃして気持ち悪い。
「もう、コツはわかったから、今度はすぐとれるようになるよ」
ハルの言うとおり、一日か二日に一匹は大体とれるようになった。内臓に手をださなければ、毒にあたることはまずないから大丈夫だからね。ハルは時々そうやって私に罠の仕掛けや肉の扱い方を話すようになっていた。私は本当はちょっと怖くてあまり聞きたくなかったのだけど。
「ハルはすごいね。本当になんでもできて」
「そう?」
ハルはなにやらデータを作っている。一体何を作ってるんだろう。
「だって、ハルがいなきゃ私なんて生きてけなかったもん。こんなとこで」
くすくすと笑いながらハルが顔を上げた。
「そうねぇ。確かに私がいないとあっというまに餓死確定ね」
ミチとユウリの死から三ヶ月以上たっていた。死という言葉も躊躇なくでるくらいの時間と環境だった。ミチとユウリのお墓は森の中につくったらしい。私が寝ている間にハルが一人でやってきてくれた。ハルはなんでも一人でやってしまう。森には私も何度か入ったけど、息苦しくてめまいばかりがして何一つ集めることなんてできなかった。
なんでもできるハル。
なんでもできるから無理しすぎなんじゃないだろうか。
ここにきて初めてそう思った。
「ハル、なんだか顔色悪くない?」
「そう? モニターの光が反射してるだけでしょ」
「そう、かなぁ」
「……もし、さ」
ハルが唇を湿らせながら言葉を濁した。珍しい。
「もし、私が先に死んだらね、私の肉、食べていいよ?」
「やだっなんてことゆうのっ」
考えたこともない事態。ハルが死んじゃうなんて想像つかない。ましてやハルを? ユウリのまだらに変色した顔色が頭の中でよみがえった。ありえるわけがない。ハルがあんな風になるわけがない。
「だって、私がいなきゃ罠も仕掛けられないじゃない。食べ物、とれないよ?」
「だからってそんなことできるわけないでしょう。だってハルは友達なんだよ?」
ハルはちょっと首をかしげて、目を閉じてかすかに笑った。
「言うと思った。そういうとこ好きよ」
「もう、ふざけてるし! いやな冗談言わないでよ」
「……でもね、そういう時はね、食べてもいいんだって。そうやって生き残った人の話読んだことあるもん」
「やめてってば! ぞっとする! だってそれならハルは私が先に死んだら私を食べるの?」
「食べるよ? それしか生きる方法がないならね」
なんのためらいもなく、そう言った。
この星に来てからのハルは何度もこんな表情を見せた。それまでは見たこともなかった顔。物心ついたころから一緒に過ごしてきたのに、そんなときはすごく遠いところにいる人のようで、知らない人のようで、いつも言葉がでなくなった。そんな一瞬の沈黙の後、ハルが吹きだした。
「その顔! 冗談よ。だって、私は罠をはれるもの。食べ物をとってこれるのに、わざわざあなたなんて食べないわよ。やせっぽっちで食べるとこなんてないじゃない」
からからと本当に楽しそうに笑うハル。
でも、ハル、ミチとユウリのお墓をすぐに作らずに、倉庫に一度いれたのは何故なの?
SOSへの返答を通信機が吐き出したのはそれから二週間後だった。船内中のスピーカーを通して響き渡るその音に駆け出したのは私一人。煌々と輝く月を背に無数のライトを色とりどりに点滅させながら降りてくる救援の船を迎えたのも、私一人。
ハルは、その二日前に、死んでしまった。
それまでの生活と四日間何も食べていなかったせいで、入院は余儀なくされたけど、真っ白なシーツといい匂いのするお布団と、心地よい空調と、バランスの取れた食事で私はすぐに回復した。
屋敷専属のエンジニアが逮捕されていた。私達の船をわざと航路途中で故障するように設定していたのだ。ご丁寧に嘘の予定航路を届出までしていた。
私たちの不明の知らせに「身代金を要求」してきたグループは四組。あまりにも私たちの特徴すら伝えられないグループが三組。残りの一組の中に、そのエンジニアがいた。
様子のおかしいその男を取り調べ、正確な予定航路を捜索隊が知った時、「事故」が起きてから三ヶ月をゆうに超えていた。
エンジニアは、父によって倒産においこまれた小さな会社の社長の家族で、彼らは身代金を手に入れた後はそのまま姿をくらます予定だったそうだ。私たちの行方などはなから教えるつもりなどなかったと。そして、ハルは自分の過去を知っていたと、そう、言ったとのことだった。でもハルが仲間かどうかの問いには強く否定したらしい。
ハルは突然倒れて、高熱が引かないまま死んでしまった。たった二日だった。あの星に生息しているダニがもつ病原菌に感染していたと、ハルの身体を調べた医者が言った。潜伏期間は三週間。発症して二日から四日で死に至る。かまれた瞬間は強い痛みを伴って、気づかないでいることはないだろうとのことだった。
「ハルね、自分が死んだら、自分の肉を食べていいって言ってたんですよ」
私がそうつぶやくと医者はしどろもどろになりながら言葉を捜しているようだった。
「ま、まぁ、お嬢さんはそんなことしなかったでしょう? 当然ですが」
「ええ、勿論」
あと五日、いや、三日救援が遅かったらどうしてたかはわからないけど。
「でもね、思うんです。それは自分が死んだ後、私が生きていくにはしょうがないことだって、生きなさいねって言ったのかなって」
「万が一、その指示に従ったとしたらですね、お嬢さんも感染してましたよ」
「……そう、ですか」
ハルは知っていた。エンジニアが恨みをもっていること。
ミチが叫んでた。最初から来る予定だったんじゃないの?
私は知らない。ハルが本当は私のことをどう思っていたのか。
帰ってきてからも、何度も何度も夢にみたあの星の月がのしかかってくる。
「ただ、ですね」
意識が飛びそうになった私に、医者はなおも話し続けた。
「ハルさんは、感染してなくても、それほど長生きはできなかったと思いますよ」
……なんで。ハルは私達の誰よりも生き残れる可能性が高い人だった。
「お母さんを病気で亡くされてるでしょう。遺伝する確率が高い病気なんですよ。彼女も、発病してましたね。おそらく、もって後半年だったことでしょう。彼女、そう告知を受けてますよ。一年前にこの病院でね」
今、私の手元には、あの船でハルが作っていたデータがある。
釣りの仕方。餌をつけなきゃいけないなんて知らなかった。
魚の香草焼きの作り方。香草をかけるだけかと思ってたのに、こんなに手間がかかってたんだ。
二百種類を超える木の実の分析表。殆どが毒性のものばかり。
罠の作り方。どこに仕掛けたらいいのか。あのずんぐりした動物の牙には毒性があるから罠を外す前にしとめなくてはならないこと。
銃の使い方。
肉の保存の仕方。
あの星で生きていくためにどうしたらいいのか、ハルが自分で調べ上げてまとめたものだった。
覚書程度のものじゃない。明らかに誰かに見せるためのもの。
「ちゃんと生きるのよ。助けは必ずくるからね」
最後に一行、そう書いてある。