よりどり緑、どこを見ても緑‐①
朝起きて窓を開けると、雪が積もっていて見渡す限り一面銀世界だった、なんてことは雪が降る地域ではよくある風景だ。昨日まで見ていた風景がガラッと変わって、真っ白な世界に変貌するというのはなかなかにロマンチックで幻想的だ。
それを見て、気分が高揚し、外へ飛び出す者もいることだろう、おもわず溜息をついてうっとりする者もいるだろう。真っ白な雪、息をのむほど美しい。得も言われぬ感動がそこにはある……。
とまあこうしていきなり雪景色の話をしたところで、今は、八月一日。夏休み真っただ中だ。だからもちろん、窓をあけると雪が降っていて白銀の世界が広がっているなんてことは絶対にありえない。
だからこそ、晒菜 升麻という少年は、何気なく窓のカーテンを取っ払って、なんの迷いも躊躇いもなく、いつものように外の景色に目をやった。
「……!?」
彼の眼前には目を疑いたくなる状況が広がっていた――決して雪が降っていて一面銀世界だったという訳ではない。
――一面、常盤色の真っ緑の世界。
彼は今まで一度も見たことのない景色に戦慄を覚えた。まったくどうしてこうなっているのか、理由が分からない。定番中の定番、お決まりの行動であるほっぺたをつねるなんてことをやってみたが、どうやら夢ではないらしい。夢だったとしても、もう少しましな夢をみたかったものだ、彼は心の中でそう感じていた。
「よくもまあこんなにも……」
晒菜の隣でそうつぶやいたのは、雄山 火口院長である。彼はこの午時花病院の院長を務めている。晒菜は現在この午時花病院で入院中である。というより生まれて此の方、十三年間ずっと入院中である。父母に捨てられたという訳ではない、これは両親が選択した道だ、晒菜に選択権は無かった。彼らからは「お前は怪我をしてはいけないから安静にしていなさい」と告げられていた。
病名、特発性血小板減少性紫斑病。この病は血小板が少ないせいで少しの怪我でも青アザが出来る病だと教えられた。少しの怪我でも命の危険にさらされる――それ故に彼が病室から外に出る機会は皆無であった。
だから彼は弱冠十三歳で、もうここで一生を過ごすものだと悟っていた。外の世界に対する憧憬、未知の世界に対する好奇心、そしてこれからの自分自身の未来、全てを諦めて捨て去ってしまっていた。
それがどうだろう、この一面緑の世界を見てもう無くしてしまったと思っていた外界に対する興味が湧き起こってきた。テレビでも、本でも見たことのないこれはなんなんだろう、外に出てみて確かめたい、そう強く思った。それくらい、外の緑は少年の心を魅了するものであった。
「――升麻君、お誕生日おめでとう」
唐突に雄山院長が晒菜に言った。これは、何か比喩的な表現で言っているのかと一瞬思ってしまった、今日から昨日とは違う新たな晒菜升麻が生まれたのかと思ったが、どうやら八月一日は普通に自分の誕生日らしい。当の本人はすっかり忘却の彼方である。これは勝手な偏見かもしれないが、本来この年頃の少年ならば、自分の誕生日となれば自らアピールするくらいのものだ。少なくとも忘れるなんてことはないだろう。
……それくらい晒菜の心は疲弊していた。実際、誕生日が今日だとして、彼は自分が何歳になったのかさえもはっきり分かっていない。彼にとって誕生日なんて瑣事にすぎなかった。
「……ありがとうございます」
少し間を開けて晒菜は生返事をする。彼の脳内はすっかり外の世界のことで満たされていた。こんなに頭を使うのは久しぶり、いや初めてかもしれない。考えても考えても、外があんなに緑になっている理由は分からない。いくつか仮説を立ててみたりしてみるものの結局納得のいくようなものは出てこない。
そこで、晒菜は雄山院長に懇願した。
「雄山院長、一時的に外出を許可してもらえませんか? どうしても僕は外の世界をみて見たいんです!」
素直な気持ちをぶつけたつもりだった。また、それは晒菜にとっては初めての要望だった。彼はこの病室で十三年間、いや、今日が誕生日だから正式には十四年間の時を過ごしてきた。そして、その間一切の不満を口にすることがなかった。だからこそ、このくらいの要望くらいは許可してもらえるだろうと高を括っていた。
「駄目だ。それは許可できない」
雄山院長は、いつになく真剣な眼差しで、そしていつになく厳しい口調で、そう言った。まさかの返答に困惑する。上手く言葉が出てこない。晒菜は黙って俯いた。
「代わりと言ってはなんだが、君がずっとここで過ごさなければならなかった本当の理由を教えてあげよう」
そう言って雄山火口は白衣のポケットの中からおもむろにメスを取り出し、それを晒菜に突き付け、あろうことか彼の手首を切ってしまった。
「……!?」
晒菜は完全に虚を衝かれた。今まで怪我はするなとばかり言われていたので怪我なんてしたことなかった。初めて自分の体に傷がついた。
これが痛みなのか、物理的な痛み、切り傷というものなのか。初めて経験する「痛み」に対して晒菜はなす術がなかった。とりあえず早く止血をしないと、早く傷口がふさがないと、そう考えてあわてて晒菜はシーツを手にあてがおうとした
――その時だった。
次回は7月29日(土)7時更新です☆