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月明かりに照らされた秋桜のように

作者: 静間

ラーメンズが好きです

「お茶を入れて頂戴」

 サイレンが鳴り響く灰色の街を見下ろしながら、馬子さんは窓際の椅子に座り込んだ。

 窓の外は雨が降っていた。これ以上本降りになるようだったら、もう家には帰れないだろう。僕は馬子さんを急かしながらも、電気ポットで水を沸かし始めた。

「一杯だけですからね、一杯だけ。それを飲んだら帰りましょう」

「えぇ」と空返事が返される。

 今日は一日中こんな風だ。無気力で、上の空で、思いつめたように遠くを眺めている、

 …ような気がする。

 僕は馬子さんの、半開きの口のまま表情が変わらない馬の被り物、サラブレットマスクを見つめながら何となくそう感じたのであった。曰く「ノーズが立体的で可愛いでしょ?」とのこと。ユニコーンバージョンもあるらしい。深く言及はしない。

 とにかく、被り物で馬子さんの正しい表情こそ分からなかったが、滲み出る雰囲気だけでも彼女がやけに疲れていることが伺えた。

 僕は恐る恐るルイボス茶の袋を開けた。

「あの」馬子さんは未だ外を眺めている。

「部室に忘れ物をした、なんて嘘ですよね。現に探そうとする素振りすら見せないし、来て早々座っちゃうし…。僕は早く帰りたいんです、この雨が本降りになったら次は」

「ねぇ、」馬子さんは僕を遮って言う。「透明人間って信じる?」

 その視線は窓の外を向いたままだった。

 彼女が何を言いたいのか分からず、せめて視線だけは同じ方向を見ていようと僕も石英ガラス越しに灰色の町並みを見下ろした。いつもと変わらない退屈な風景だった。

「光学迷彩の話ですか?」

「SFじゃないわ。ファンタジーよ」

 馬子さんは肩に掛けていた鞄を下ろすと、椅子の上で両膝を立てて体育座りをした。折り目の付いた短い制服スカートと華奢な素足が視界の端に写り、僕はドキリとして慌てて顔を背けた。

 同時に、靴どころか靴下まで脱ぎ捨てて、帰宅する気配を一向に表さない彼女に思わず溜息が零れてしまった。学校に泊まる気なんだろうか。

 僕は街と同じ色をした灰色の床を見つめながら、次第に心まで灰色に落ち込んでしまうのを感じた。

「ファンタジーなんて科学的根拠がないもの、嫌いなんじゃなかったんですか」

「えぇ、そうね」馬子さんの言葉は何処か掴めない。「そうかもしれないわね。そうかもしれない、でも今日はいいの」

 何となく、遠回りしているような気分になった。いや、遠回りさせられているんだろうか。あるいは両方か。

 ふいに、H.G.ウェルズの『透明人間』が過ぎった。赤い背表紙には西洋のガウンを着て椅子に腰掛ける透明人間が描かれていた。子供の頃は、父の書斎にあったあの本が何故だか不気味に思えた。顔の見えない怪物、姿すら見えない透明人間。あの不気味さは一体なんだろうか。

 今の僕は平然と、不透明な会話をしていた。

「透明人間なんて実在しませんよ、物語上の空想です」

「透明人間は透明なのよ。誰も見たことがないからと言って、いないとは言い切れないわ」

「シュレーディンガーの猫、ですか」

「近いようで遠いわね。あれはあくまでも量子力学に対する批判だもの」

 馬子さんの声には抑揚がなかった。その言葉の裏に何かメッセージが込められているような気がした。単なる言葉遊びなのかもしれない。彼女は明晰すぎる。

馬子さんの表情は馬の被り物で遮られていて、やはり何一つ読み取ることが出来なかった。それがやけに不気味に思えて、僕は負の感情を取り払おうと、いつも以上に丁寧にティーカップをセットした。まるで透明人間を前にしたような心地だ。

 サラブレットマスクが「紅茶はまだか」と言いたげにこちらを見つめた。

「そうね、透明人間になってみたいわ」

「透明人間は誰にも見えないんですよ。誰にも認識されないって、すごく寂しい気がします」

 馬子さんはマスクの中で、「それがいいの、それでいいのよ」と繰り返した。

 何だか寂しげな呟きだった。

 顔が見えずとも、その寂しさだけは伝わってきた。

 僕は不器用だった。彼女にかける気の利いた台詞の一つも出てこやしなかった。「大丈夫だよ」とか「僕がいますよ」とか、そういう言葉が酷く無機質なものに感じた。何故だろうか。毒舌で、人の嫌味とSFが好物の彼女が、いつもは見せない弱気な姿をさらしていることに、僕自身が戸惑っているのかもしれない。

 カチリと音がしてお湯が沸きあがった。沸きたてのお湯をティーカップに注ぎ、ルイボス茶のティーバッグを沈めると独特な茶葉の匂いが漂って来た。戸棚から蜂蜜を取り出す。「レモンないの?」と不満げな声がした。あるわけない。

 僕は肩を竦めて、小匙で2杯の蜂蜜をルイボスティーに垂らした。ほんのりとした甘い香りが、ルイボスの茶葉と黴臭い本の匂いを掻き混ぜていく。

 馬子さんが「はぁー」と窓ガラスに白い息を吹きかけた。

 サイレンが鳴り響いた。

『――本日は波の日です。外出中、および波対策をしていない建物の中にいる住民は、直ちに耐波基準を満たしている施設に避難して下さい。東京C-4地区に波が到達する予定時刻は午後6時42分。午後6時42分。繰り返します――』

 雨と風が一段と強くなる。強化ガラスに叩き付けらる大量の雨水を見て、僕は溜息をついた。さすがにもう家には帰れないだろう。

「今日は泊まりですかね」

 簡易寝具どころか暖房器具もなく、さび付いたテーブルとパイプ椅子しかない四畳半の部室という状況に、僕はさらに深い溜息をついた。

「朝までに通り過ぎてくれてるといいんですけど」

「せっかく泊まるんだから、暖かいベッドを確保しましょ」馬子さんが突飛なことを言い出す。

「ベッドなんて、何処にあるんですか?」

「保健室よ」

 馬子さんが軽快に椅子から飛び降りる。顔は見えないけど、打って変わって楽しそうだった。「誰もいない学校を探検するなんて、素敵じゃない?えぇきっと」ブルブルと鼻先を揺らしている姿に、思わず苦笑が浮かんだ。思い詰めているよりはずっとマシだったけれど、

「僕が淹れたルイボスティーはどうするんですか?」

「私、猫舌だもの」

 馬だろ。


 誰もいない学校の廊下は、人類が滅んだ後の世界の果てのように静かだった。

 電気は消され辺りは真っ暗。聞こえてくるのは雨粒の音と、馬子さんのローファーが床を叩くカツンカツンという虚しい音だけ。何だか無償に物寂しさを覚えると同時に、少しの高揚感が心の隅に現れてくるのが分かった。

 寝静まった巨大な怪物のお腹の中にいるような、そんな高揚感。

 雨足が、さっきよりも強くなっていた。外は突風と豪雨で、とても歩ける状態ではない。

もうすぐ波が来る。

 平行して気温は下がるばかり。冷えてきた手をポケットに突っ込んで、僕は彼女の少し後ろを歩く。馬の頭をした馬子さんは上機嫌そうに大股で先を行く。

「きっと、これからも君はー、誰かの胸の中ーでー、大切な宝物になるのでしょう」

 馬子さんが、静けさを破って歌い出す。「見回りの警備員さんに聞こえますよ」忠告するが、彼女はお構いなしに僕の知らない歌を口ずさんでいた。

「誰の曲ですか?」

「ハインリッヒーズ」たぶん得意げな顔をしている。

 非常灯の僅かな明かりを頼りに、僕と馬子さんは保健室へと向かった。普段はどうって事ない道程が、今はやけに遠く長く感じた。

「夜の学校なんて、何だかワクワクするわね」やけに楽しそう。

 今日は特別に「変」だ。

 僕は、彼女の見えない表情を想像しながら、何か奇妙な違和感を覚えた。

「本当は、最初から学校に泊まるつもりでしたよね」彼女の名前を呼ぶと、その歩みは次第に小さくなっていった。項垂れて、薄暗い廊下に視線を落としてしまう。人の内を暴くのが好きな彼女が、こうして静かになる時は自分の内を暴かれた時。

 僕は彼女の華奢な肩を見つめる。白い制服に包まれた少女の肩だ。

「今日は何かあるんですか?」

「親戚が集まるの、」馬子さんの声が小さく震えている。「あいつらは嫌いよ」善人ぶった顔をして、偽りの笑みを貼り付けて、「大丈夫。貴女の気持ちは痛いほど分かるわ」とか「一緒に悲しみを乗り越えよう」とか、心にもないことを言うの。

 憤りと悔しさを含んだ冷たい言葉。

 馬子さんが被ったマスクの表情が変わることはなかった。仮面の表情が偽りだとするなら、彼女は今どんな顔をしているんだろう。仮面の表情が本心だとしたら、あまりにも歪で短絡的過ぎる。

 僕は彼女の言葉を否定することが出来なかった。否定できるような資格を持ち合わせていなかった。何一つ彼女のことを知らなかったのだ。

「滑稽よ」馬子さんは嘲笑うように吐き捨てた。「あんなやつら大嫌いだわ」

 僕はただ、馬子さんの小さな背中を見つめていることしかできなかった。

「親戚に会いたくないの、だから今日は帰りたくなかったの」話はそれまでと言いたげに、馬子さんは僕の手を引いて、また足音を大きく響かせながら歩き始めた。彼女の手は僕が思うよりずっと小かった。


「もうすぐ波の時間ですよ」

 時刻は午後6時を回った。外は豪雨に、大風、日も落ちて暗い。一階の昇降口は既に鉄戸で封鎖されている。僕は少しの閉鎖感に見舞われ頭痛を催した。

「家にいるより学校にいた方が安全よ。今のご時勢、耐波基準を満たしていない学校の方が珍しいわ」

 馬子さんは涼しい顔でそう言ってのけ、保健室の扉を蹴り破ろうとした。

 ガツンっ!

 重々しい音が廊下に響き渡った。が、保健室の扉はビクともしない。つまる所、鍵が掛かって開かなかったのだ。よく考えれば分かる話だった。

「保健の先生、鍵を閉めて帰ったんでしょう」

「口に出さなくても分かってるわ」

 馬子さんは不機嫌そうに溜息をついて、もう一度保健室の扉を蹴った。今度は鈍い音しかしなかった。

 暖かいベッドは諦める他なさそうだ。

「部室に戻りましょうよ」馬子さんは納得がいかない様子だったが、「またルイボスティーを淹れますよ、今度は飲みやすい温度で」と声を掛けると「分かってるわ」と普通の女の子みたいに繰り返し、渋々その場を後にした。やっぱり今日は特別に「変」だ。

 波の時間までには部室に戻りたい。


 波、津波。

 数十年前までニュースやドキュメンタリーでしか目にすることがなかった自然災害。

テレビで流れる、津波の映像や悲惨な形跡を見て大変そうだとか可愛そうだとか思うことがあっても、実際にその危険性や恐怖をはっきりと認識している訳ではない。海岸線沿いに住んでいる者ならば、「地震の後には津波に注意しろ」という教訓を知っているかもしれない。しかし、そんなこと、大半の人間には無関係なことだった。

 西暦2012年、人々の認識は覆されることになる――


「重力が強くなってきたわね」

 数歩前で鼻歌を混じりに歩く馬子さんが、振り返りながら呟いた。「あぁ、何度体験しても慣れないわ」

 踏み出した一歩が、確実に重くなっていくのを感じる。下層階から登ってくるエレベーターの中にいるような感覚だ。あまり気持ちの良いものではない。

「重力酔いしてるの?」

 いいえ、平気ですと言って、僕は引き摺るように足を前に動かした。何で馬子さんはあんなに軽やかなんだろう。もしかしたら、彼女はこの世界の生物ではないのかもしれない、なんて。


 西暦2012年12月21日、地球の重力が変動した。重力変動による被害はマヤ文明の2012年人類滅亡説を彷彿させるものだった。地震、噴火、大津波。セカンドインパクトと呼ばれる二次災害によって多くの犠牲者が出た。

 「波」も、その内の一つだった。

 やがて「波」だけが自然災害の後遺症のように突発的な天候に近いものとなった。頻繁に起こる重力変動がトリガーとなり、数時間後には120から100メートル近くの大津波が街全体を呑み込む。多くの地球環境研究家や気象研究者が解明を続けてきたが、どうやら地球の寿命が近いらしい。そのことでパニックになった人類は、一時期、惑星移住の話で持ちきりだったが、寿命のカウントダウンは一万年も先のことで短命の流行ワードのように廃れていった。僕ら人類は一万年後の地球について考えることを放棄し、地球環境に適した生活をしていくことを選択したのだ。

 「波」。あれは悪夢みたいなものだ。「波」が来ると床下浸水、排水管が溢れる、街中水浸し、どころでは済まされない。人や車、家、ビルまでもが流されるのだ。災害というよりは天災に近い。「神様が人類にバツを与えている!」宗教徒達は熱心に語りかけていた。

 建築技術面では耐震強度よりも耐波強度を重視されるようになり、人々の生活は殆どが波の影響を受けない地下空間に移行した。日本では地下住宅バブルが起きた。

 なぜ地球の重力が変動したのか、なぜ頻繁に重力が変わり続けるのかは分かっていない。

 あの日から数十年経った今でも、テレビではその話題をよく見かける。


 窓に叩き付けられる雨粒は、もはや雨とは形容することが出来ないほど勢いを増していた。水流、滝、濁流。そんな言葉でも大袈裟には聞こえない。

「数十年前までは、神様の所業だと唱える宗教家もいたそうよ」

 窓の外を見つめながら、馬子さんが歩くスピードを緩めた。重力酔いで疲弊し始めた僕に、ペースを合わせてくれているんだ。ありがたい。

「自然は…宗教より恐ろしいですよ…」

「アニミズムを否定するのかしら?」

「宇宙を作り出したのは神ではなく…、二つのエネルギーの衝突です」

「リアリストね、つまらないわ」

「ロマンチストでも…ない、でしょう」

「そうであればいい、と思う時はあるわ」

 現実主義なのにSF好きの馬子さんは寂しげに呟き、僕の後ろに回ると、自転車でも押すように肉付きのない僕の背中を両の手で推し進める。早く歩け、をご所望だ。


「朝までには波も通り過ぎていますよ」

 僕ら学生にしてみれば、地球滅亡恐慌も地下住宅バブルも教科書の1ページに収まる出来事でしかなかった。「波」も日常の一部に過ぎない。対波用の建築が進み、ある程度の波の予報ができるようになった現代。波も、台風も雷天も大雪も等しく天候の1つという認識しかない。

 それを慣れと呼ぶ。

 異常だろうか?

 馬子さんだって正常ではない。現実主義、でも極度のSF好き。自称探偵。やけに毒舌。加えて、女子高生の制服にサラブレッドマスク。奇人変人の集合体みたいな人だ。でも慣れてしまった。そういうことだ。

 行ったこともない国で起きた戦争と隣の区で起きた殺人事件は、部外者からすれば等しく同じニュースでしかない。違和感を覚えるのは変化の時期に立ち会った人間だけ、それから後に生まれてきた人間にとってはまるで自然のものとして受け入れられてしまう。

 僕らは日常という安定を壊したくないんだ。


 コツ、コツ、

 降り頻る雨音の中、聞き覚えのない足音が長く冷たい廊下の先から聞こえてきた。僕はハッとして後ろを歩く馬子さんを見た。馬子さんのローファーじゃない。別の誰が近付いて来ている。少しだけ鼓動が早くなる。

 おーい、おーいっ。と、声がした。今度は間違いなかった。

 誰だ。不安定な重力に吐き気を催しながらも、僕は音の先に視線をやった。

 薄暗い廊下の奥をジッと見つめる。階段の向こうで、二三度懐中電灯独特の丸い光がチラついた。


 いる。

 僕は思わず身体を強張らせた。

 教員か、警備員か、はたまた学校に避難してきた住民か。分からない。

 でも身体が強張ってしまって全く動かなかった。平穏を壊されて、あたふたと戸惑う鼠のようだ。

「隠れてっ」

 半ば悲鳴混じりの声で、馬子さんが動けずにいる僕の手を引いた。そのまま自動販売機の陰に僕を押し込む。角に肘をぶつけて鈍痛が走るが、痛がる暇もなく口を手で塞がれ、僕は呻き声を出すので精一杯。

 人一人がやっと通れる狭い空間に、僕と馬子さんが向き合う格好になる。

 荒い息を繰り返す馬子さんのマスクを見つめながら、僕は言い知れぬ違和感を覚えた。マスクで表情こそ見えなかったが何となく彼女の心が伝わって来るようだったからだ。

「隠れる必要なんてあったんですか?」

 シーッと半開きの唇に人差し指が当てられる。僕はただただ息苦しかった。

 コツン、コツン。廊下に響く音が、はっきりと近付いて来るのが分かった。一歩、一歩踏み出される度に、僕は酷く焦ってしまう。何となく、この空間が壊されてしまうことが嫌だったのかもしれない。

 馬子さんは変わらず無表情だった。サラブレッドマスクの表情が変わることはなかった。そんなの当たり前だろ。女子制服に、学校指定の赤ネクタイ、短く巻き上げられたスカート、とどめのサラブレッドマスク。異常以外の何物でもない。

 でも僕は、それを異常だと分かっていながら、その異常さを「否定」してしまう。

 馬子さんが、誰よりも人間らしいと思えてしまう。

 人の本心は分からない。

 笑顔の裏側、涙の裏側の心なんて知り得ない。

 なら彼女のマスクの下は、今どんな顔をしているのだろうか。

 透明人間は憂いの表情をするのだろうか。僕には、人間も、馬子さんも、透明人間も同じ存在に思えた。それが先刻覚えた奇妙な違和感だったことに気が付いた。

 馬子さんも、透明人間も、怪物だというのなら、本心を隠して嘘の表情を浮かべる大人も怪物じゃないか。ただそれを認めるのが怖くて、日常の一部にしていたんだ。きっとそうだ。

 僕は不安定な重力の中で、

 不安定な思考をする。

「馬子さんは、今どんな顔をしていますか?」

 10センチもない先の馬子さんは、どこを見ているか分からないギョロリとしたつぶらな馬の目をしている。この問いの答えこそ、僕が求めているもの。

 やがて小さな言葉が彼女の表情を動かす。

「悲しい顔よ」

 彼女の言葉通り悲しい顔が見えた。「今日、ママの命日なのよ」

「お母さんの、ですか?」

「そうよ、」表情を曇らせる言葉だ。

「じゃあ、どうしてこんなところにいるんですか?お母さんの命日なら、せめて今日くらい嫌いな親戚と過ごしたって」

「嫌よ。だってあの人達、化物みたいだわ。平気で嘘の顔をするの、何でもないフリをしようとするの、忘れようって言うの」

「人間なんて、そんなものです」

「じゃあ、貴方は人間じゃないわね」

「僕は人間です、人間ですよ」

「じゃあ、彼らが怪物だわ」

「めちゃくちゃです、意味が分かりません」

 コツン、コツンコツン。足音が近付いてくる。一歩、また一歩。確実に近付いてくる。姿が見えない透明人間。足音だけが、その存在を現実のものとして肯定していた。

 馬子さんが涙を見せていた。マスクの表情が変わることはないから涙が流れているかどうかは分からない。でも、彼女の言葉が何処となく表情として現れているような気がした。

「ママは40歳で死んだの、ハンチントン病よ」僕は焦燥していた。彼女の言葉を待っていた。

「ママが死んだ時、すごく悲しかったわ。何日も泣いた、何週間も泣いた。それで気が付いたの」言葉は表情と化す、不思議なほど彼女は純粋だった「ママという存在を知らなければ、こんなに悲しむことはなかったんじゃないかって」

「そんなこと…」

「だから私は仮面を被るの。誰も私を知らなければ、私が死んだって誰も悲しまない。だれも傷付かないって」馬子さんは僕の頬に手を触れた。「透明人間が死んだって誰も悲しまないでしょう?」

 僕は何かを言おうとした。

 でも喉の奥に熱い何かがつっかえて何も言うことが出来なかった。かけるべき言葉も分からなかった。その資格もないはずだった、なぜなら彼女を知らなかったからだ。それでも、今だけは。

 僕は口を開いた、

「―――」

 眩しいほどの光が僕たち二人を照らす。


『――東京C-4地区に波が到達する予定時刻まで、あと4分です。住民は直ちに対波建物に避難して下さい――』

 灰色の街並みにサイレンが鳴り響いた。外は豪雨を通り過ぎて洪水状態。とても人が歩けるような環境ではない。車も走っていない。もうすぐ「波」が来る。

 僕は愛想笑いをしながら誘導員から毛布を二枚受け取った。

 体育館は避難してきた住民でいっぱいだった。お年寄り、家族、家が遠くて帰宅できない生徒達。

 馬子さんは体育館の隅で、小さい子供たちと遊んでいた。

「この子に、ワープ理論を教えていたわ。なかなか見込みがありそうね」なんて、突飛もないことを言い出す。

「ちょっと歩きましょう」

「もう先生には怒られたくないですよ。また保健室に行くなんて言わないですよね、コリゴリです」

「そんなに遠くに行かないわよ」そう言って立ち上がる。


 体育館の外は酷く冷たかった。「波」の影響だ。この冷たさにも身体が慣れ始めていた。

 馬子さんはサラブレッドマスクの隙間から白い息を吐いていた。「寒いんですか?」と聞くと、ブルブルと頭を横に振った。僕は構わず、彼女の華奢な肩に毛布を掛けた。「ハンチントン病は遺伝するの」表情こそ見えなかったが、憂いの表情を浮かべているのが分かった。透明人間が憂いの表情を浮かべたら、きっとこんな顔をする。

「分かんないですよ、そんなの。もしかしたら、奇跡的に遺伝しないかもしれないじゃないですか。分かりませんよ、えぇ」精一杯笑ったけど、「奇跡はきっと、起きます。僕が保証します」たぶん引き攣った。

 彼女が現実主義なのに、SF好きな理由が少しだけ分かった気がした。

「ロマンチストね」

 彼女はそう言ってマスクを外した。

 月明かりもない夜空の下。窓に叩きつける無遠慮な水流。

 彼女の病的までに白い肌と淡い栗色の髪だけは、やけにくっきりと覚えてしまった。ドビュッシーの『月の光』が体育館の方から微かに聞こえてくる。

「みんなを悲しませないためのマスクじゃないんですか」

 僕は初めて、彼女の心を見た。

 綺麗だった。月明かりに照らされた秋桜のように。

「貴方だけは悲しませたいの」

 馬子さんは悲しい表情をしていて、でもその言葉は優しくて暖かくて僕の心の内にある大事な何かをギュッと包み込んでくれる。僕はもう少しだけ努力してみようと思った。もう少しだけ人の心を知ろうとする努力をしようと、そう決めた。


轟ッ


120メートルもの「波」が学校を揺さぶった。


https://www.youtube.com/watch?v=QvWcVC2BXJw

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